コウモリ
「……三番隊」
新撰組第一の屯所・壬生の八木邸で、“誠”の字に飾られた提燈の薄明かりが柔らかく肌を照らす夕闇、更に黒い羽織が隊列を組む。
新撰組三番隊隊長・斎藤一は不思議なぐらいにいつも機嫌が悪そうな男で、今夜も低い声をくぐもらせ、ぶっきら棒に言った。
本人が気にしている意外な童顔を隠す為の眉間の皺ではなく、本当に虫の居所が悪い。
あまり他人に興味が湧かない性質の男だが、この人物だけはどうも苦手なのだ。
「はぁい、一番隊のみなさぁん! 集まってくださぁい!」
一番隊隊長・沖田総司が態々隣に駆け寄ってきて大きな声で、しかも手まで振った。
何がそんなに楽しいのだという目付きの斎藤を無視しているのか気付いていないのか、集まった隊士にニコニコと声を掛けている。
「死番さんはぁ? どなたですかぁ?」
「は、はいっ!」
まだしっくりこない“着られている”感のある浅葱にダンダラ模様の隊服の青年が、ギクシャクしながら手を挙げた。
かつての巨魁局長・芹沢鴨が発案した現代でも新撰組を象徴する羽織だが、派手で目立ち過ぎる、汚れ……土埃などというより返り血だが……それが落ちにくい、一部の隊士……主に副長・土方歳三など洒落者は
「美意識に合わねぇ」
とばかりに芹沢死後は全く着ていない。
歌舞伎・仮名手本忠臣蔵の吉良邸討ち入りの衣装を切腹裃の浅葱色に染め上げた、どんな局面にも決死の覚悟で怖気付くこと無く働くという心意気を表した隊服だが、この時期、元治元年五月にはダンダラ隊士の方が珍しいくらいだった。
「ありゃ、新人さんですかぁ。……えっと、今更ですが、死番の意味……オワカリですよねぇ?」
沖田は未だにヘラッと笑いながら訊く。
「はい! 敵地突入の際、一番に斬り込みます!」
緊張の面持ちで答える新参・村木純平だが、新撰組がまだ壬生浪士組と名乗っていた頃の第一次新入隊士募の折に入隊した先輩隊士がボソッと付け足した。
「“死ぬ番”って意味だっつの」
俗説では、新撰組は一隊十人編成で十番隊まであったといわれているが、隊長を除く四人一組でその順番を回していた。
村木はその役名の真意を勿論知っていたが、思い出したように身震いし、肩を竦めた。
「正解ですぅ。くれぐれもホントに死なないようにね? 元気にぶった斬りましょお!」
沖田と斎藤……この二人は正反対だ。
まずこのように沖田がペラペラ軽口叩く中、斎藤は一単語しか発していない。
文久三年八月十八日の政変での七卿落ちと共に京から追放された筈の長州藩士を中心とした倒幕派浪士が密かに集まり、何やら不穏な企てをしているという情報の詳細捜査は副長直接指揮の下暗躍する監察方に任せ、今夜の一番隊・三番隊合同の巡察では潜伏場所との疑いがある旅籠の一つとして有力視されている木屋町佐和屋付近を巡察する。
新撰組きっての実戦派部隊が同道する程の重要任務だがしかし、不似合いな能天気声を上げて追い掛けてくる者がいた。
「斎藤はーん!」
監察方の代表ともいえる凄腕……だがインチキ臭い関西弁の山崎烝だ。
「すんまへん、ちょっとええですか?」
ニヤケながら斎藤に向かって耳打ちしたいような仕草……つまり手の平を口元にあてている。
斎藤は誰の目からもわかりやすいくらいの渋々といった表情で、腕組みしながら耳を傾けた。
「島原吉更屋の時尾さんが、コレ、斎藤センセの忘れ物ちゃいますかぁ? ですって!」
ヒソヒソ話を装って周りに筒抜けの上、一部分は甲高く甘苦しい女声を作っているので相当気色悪い。
「ちっ……違います」
時尾の言葉遣いはもっと上品だ、とも否定したかったがそれではどんな冷やかされ方をするか考えたくも無いので飲み込んだ。
山崎が持つ鉄扇を煩げに手の甲で押し退けるが、その頬は意外にもサッと赤くなっている。
「オジサマってば“お盛ん”ですねぇ」
斎藤が年齢の割に渋い程落ち着いているので、沖田は二つ年上の癖によく……もう今更突っ掛かる気も失せさせるくらいにこう呼んでいた。
さて置き“ナイショ話”が丸聞こえだった沖田が満面の笑顔で冷やかすので、斎藤は三割増に深く眉間に皺を刻む。
「あんたじゃあるまいし、女の一人や二人当然だろう」
一人や二人……というのは言葉の文で、実際は時尾一人に相当惚れ込んでいた。
「ヒドイ! どうせヒラメはモテないですよっ」
モテるモテないの話以前に沖田は基本的に女への興味が薄い……というより軽度の女性不信だ。
生い立ちが原因らしいことまで斎藤は知っていたが、わざと言ってみた。
「あれ、斎藤はんのやない? ……ほんなら、沖田はんのやろか」
山崎が今度は沖田に向かって目配せするので、他の隊士達、そして斎藤は目を見張った。
「へ?」
名指しされた本人も一瞬は素っ頓狂な声を上げたが、耳打ちされるまでもなくすぐにニコリと、独特の猫目を細めた。
「ああ。この“蝙蝠”僕のでしたぁ。ありがとうございまぁす、ススムさん」
「ほな! お気を付けて!」
山崎は鉄扇を手渡すなりまた忍者のような素早さで去ってしまったので、訳も判らず取り残された者達、というか斎藤はヘラリと手を振る沖田に真顔で問いかけた。
本気で怒っている、のだろうか。
「時尾に会ったのか」
「はじめさんったらヤキモチィ? やだぁ、両刀さんは僕の部屋から出てってくださぁい」
沖田と斎藤は奇しくも同室である。
「誰があんたに! 時尾は……」
「これは、時尾さんの部屋にあったんじゃないですよ」
沖田も迂闊である。
遮らなければ
「時尾は渡さん!」
とか、三年はネタにできる台詞が聞けたかもしれないのに。
「ススムさんにぃ、騙されちゃったんですよっ」
本心なら
「遊ばれた」
とでも言いたいところである。
「……三番隊、行くぞ」
「ええ!? 待ってくださいよう!」
すっかり最上級に機嫌を悪くしてスタスタと早足で屯所を出る斎藤に、沖田を先頭に続く。
「もう! そんなに怒んないでくださいよ!」
追い付き様、沖田は殊更聞こえないよう注意を払い、呟いた。
「“カワホリ”を油断させる為なんだから」
そこら中に、身体中に圧し掛かるような泥の臭いが充満している。
昨晩に降っていた雨が道をぬかるませたのと、むっとするような湿気のせいだ。
「ちゃっちゃと済ませて帰りましょっか」
“明るくて無邪気”が持ち味の沖田だが、負の感情を表に出すのは珍しい。
右手人差し指でコンコンと二度、手を置いたまま刀の柄を鳴らす。
その身に纏い周囲に漂わせる、いつにないピリピリとした殺気を、彼の配下一番隊隊士は感じ取っていた。
斎藤率いる三番隊連中も眉顰め顔を見合わせる。
「いけますかぁ?」
「はい!」
中でもこのパッと見は少年のような面差しの新人隊士の緊張は格別だ。
死番である彼の前には、佐和屋と太字で掲げられた老舗旅籠らしい風情ある大看板。
しかし隊長に振り向かれると、顔付きとは裏腹にいつでも飛び込めますと言わんばかりスッと一歩進んだ。
その様子に先輩隊士一同も感心した。
珍しく、無愛想で名高い斎藤も内心は同じだ。
「心配するな! お前が入ったらすぐに俺達も加勢するんだからな!」
小声ながら弟分のような年代の村木を勇気付け、他の隊士も後方に回った。
村木は目を瞑り、すぅっと一息に生暖かい空気を吸い込んだ。
「……どぉしました?」
シンと静まる中、舌打ちの高い音が響く。
その主は“新人隊士”村木純平だ。
「お前……なんのつもりだ!」
引き続き声を抑えてはいるが口々に詰問されるのに答える間を与えることなく、斎藤が村木の両腕を取って後ろに捩じ上げた。
部下ではなく、明らかに捕らえるべき相手にする動作だ。
いざ戸を破るかという刹那、村木は半身を開き、これから斬ろうとする対象を後ろに控える隊士に変えたのだ。
しかしその鯉口が切られる寸前、さらに後方に居た沖田が鐔を当てて止めた。
転瞬、暗闇に火花が散った。
「見えなくなっちゃいました? あなたの敵が誰か」
無言のまま微動だにするのも封じる斎藤の隣から見下ろして、微笑みかける。
「あ、蝙蝠さんは元々目が見えませんでしたっけぇ?」
村木は糸が切れた操り人形のようにガックリと躰を垂らしていたが、突如として顔を上げた。
「失敗した!」
別人のような風格で大喝を張り上げると、佐和屋からは
「幕府の狗め!」
「叩っ斬ってやる!」
など、如何にも監察方の睨み通りの不逞浪士潜伏場所らしい怒涛と共に、小路が埋まる程の男が白刃を晒して溢れ出て来た。
一番隊・三番隊合わせて二十名として、人数はほぼ互角だった。
「いらないおめめならとっちゃおっか? 裏切り者さん」
こうなっては指揮しなくとも勝手に斬り捲る部下をほったらかしでそれ・裏切り者を捕縛する斎藤とされる村木が共にゾッとした後、乱闘はものの三十分程度で決着が付いた。
勝者である新撰組は、村木含む生き残りの浪士を縄掛けて捕らえた。
屯所の拷問蔵にご招待する為だ。
星も疎らな帰り道、隊列の先頭の斎藤は呟いた。
尤も、普通に話してもそう聞こえるような低音なのだが。
「あんたは、ああいうことを言わない方が良い」
「えっ……うーん……なにか言いましたっけ?」
先程村木に掛けた惨たらしい脅し文句のことである。
局長を父と慕うこの男のことだから、密偵など隊の長に対する冒瀆だと忌み嫌い、加えてそんな輩が自分の隊に入っていると知り気が立っていたのだ。
彼は配下を死なせたことがない。
いつでもさり気無く守ってやっているからだったが、それ程に局長から自分に与えられた部下を大事にしていた。
隣の沖田が本当に驚いた顔ですっとぼけるので、今度は嘆息した。
「まあいい。それより、知っていたのか最初から」
「うーん……なんのことでしょう?」
「真面目に訊いている!」
急に立ち止まり凄む斎藤に、された沖田は全く動じず上半身ごとハテと傾げるが、平隊士達は慌てる。
しかし会話の内容は聞こえていなかったようだ。
「隊長、如何なさいましたか?」
心配の甲斐なく、斎藤は小煩そうに手を払う。
「先に行っていろ。……沖田さん、あんたは待て」
まんまと一緒に行こうとする沖田を、不本意にも今回は斎藤が慌てて止めた。
「わぁい! どこか食べに連れてってくれるんですかぁ?」
天真爛漫風情に笑う顔を、ここまで心底小憎らしいと思ったことは無い。
「……山崎と、罠を張ったろう? 何故私には言わなかった」
斎藤としては自分まで策に嵌められた心境だ。
「だからぁ……最初は山崎さん、はじめさんに伝えようとしてたじゃない。わかんなかったからって僻まないで?」
嘘である。
山崎は元から村木が属する一番隊の沖田に伝えようとしたが、その目暗ましに斎藤をからかったのだ。
“時尾の名を出されて、油断した。その失策は自分のものだった”と、思えということだ。
「気に入らぬ。怨恨などありはしないがその頚、掻き斬らなければ、二度と旨い酒は呑めない気がする」
斎藤は言葉とは一見裏腹、刀を納めたままである。
得意の居合い抜きをする為だろう。
だがこの相手を目の前にすれば、足一つずらすことさえ安易にはできない。
それだけで斬り合いを始める合図になる。
「ナニソレ」
対峙する沖田は、明るい声音に似合わず目がちっとも笑っていない。
「悪いけどはじめさん、あなたは僕には勝てない」
斎藤はムッとしたが、まだ刀に手を掛けない。
「天狗め。やらねばわからぬ」
幼い頃から天武と褒められ、一方では怖れられてもいた。
しかし天狗と称されたことはかつて無く、沖田は内心驚いたが、漸く別人宛ら強張った表情を綻ばせた。
「ごめんね。これは当たり前の理屈なんだ」
確かに試衛館に“偵察”に行っていた頃はコテンパンにされ、丸っきりの赤子扱いだった。
それでも斎藤は、所詮は道場試合でのことであり、真剣で、殺す気で立ち合えば負けはしないという自尊心があったので、心底不服気に理屈とやらが説明されるのを待った。
「あなたは会津の御家人さんでしょう?」
まんまと、度肝を抜かれた。
いかにも斎藤一は会津藩より密命を受け、新撰組隊内の実情を探る間者である。
僅かにも疑われることなど、あってはならない。
俺としたことが……いつから、何故バレた!?
斎藤がヘマをしたわけではないのにも関わらず、隊内で感付いている者は三人。
秘密捜査や情報収集など多岐に渡る任務に置いて、不可能は無いと言える程の辣腕監察・山崎烝。
生まれ付いての才能か、神懸かり的に勘がいい副長・土方歳三。
そして、常に周りの人間にどう思われているかを読み取りながら成長した為に、悲しいまでの観察眼を身に付けた沖田総司。
その誰もが猜疑し、若しくは確信さえしていても、本人や周囲には一言も漏らしていない。
弱みを握って、どうするつもりだ。
肯定も否定も、何も答えられずにいる斎藤の心境を余所に、沖田は続ける。
彼の論点は別にあるらしい。
「愛して、愛される人がいるでしょう? 守るべきもの、信じているものがたくさんあるでしょう?」
沖田は静かに、愛刀・非人清光を鞘から放つ。
やはり斎藤は動かない。
殺気が無い……斬る気で抜いたのではないとわかるからだ。
「僕にはね、ちいっちゃい頃から刀しかないんだ」
暗闇に鈍く光る刀の峰……背の部分を指でなぞる。
「刀を振るうしか、存在する意味がないんだ」
何を言うのだと、斎藤は刮目した。
そんなことを思い込みながら、今まで生きてきたのかと。
当たり前のような顔を続ける沖田は、パチンと軽く音を立てて大刀を納めた。
「そういうわけだから残念だけど、生まれつき恵まれてる、幸せなあなたには、絶対負けない」
この場所で生き続ける為に、他人の何倍もの稽古を積んできた。
「僕を斬る……? あんまり粋がってると、風穴空けちゃうから」
近藤局長と土方副長には勿論絶大な信頼を置かれ、平隊士からも慕われている。
平隊士からはともかく、絶対に揺るがない三人の結束を羨ましくなど思い掛けていたが……無邪気に見せておく光を照らす月面の裏側、誰も知らないもう一つの顔を垣間見た。
「とんだ猫被りだな、あんたは」
斎藤は可哀相だなどと、印象を改めることを嫌った。
この男なら態度を変えないと知っているから、沖田は話した。
憐れまれることなど望んでいないと、斎藤も知っていた。
「近藤局長が本性を知ったら、悲しむぞ」
斬る斬らないとは無関係の話とわかっていても、せめてこのくらいの意地悪は言っておこうというつもりか、ここまで思い詰めて生きていることを局長が知ったら、と言いたいのか。
思惑通りか、沖田は意気消沈といった様子で俯く。
流石の斎藤も、こんなに傷付くとはと慌てるくらいに。
「僕は、先生がきれいでいられるなら、どんなに汚れてもいい」
互いにもう、斬り合うつもりは無かった。
新撰組の双璧は、遠いようで近い。
「先生の前では“かわいい弟子の宗次郎”のまま、傀儡の人斬りにだって血濡れの鬼にだってなってみせる」
近藤勇という清浄な太陽の下、どこまでも盲目に。
斎藤は、いつかまたこんな……新撰組一の剣客を決める日が本当にくるのではないかと予感していた。
了