【読み物】ハワード王立養育院
今月は本編の更新回数が少なくて申し訳ありません。代わりと言っては何ですが、この番外編は本編3話分くらいあります(白目)
嵐が吹き荒れていた。
風は猛烈に吹き寄せ、吹き抜け、うず高い山波が甲板に打ち寄せ、全てを洗い流そうとする。
疲れた人々に休む余地はない。容赦のない、海が、船上の全てを支配し隅々まで侵入しているのだ。見上げれば千切れ飛び、渦巻く黒雲……ここには人類の味方など何もない。
グリーンホーンの水夫は恐怖に顔を歪め、ミズンマストにしがみついていた。その指の関節は白くなっている。 船は暴れ馬のように絶えず上下左右に揺れていて、一瞬でも手を離せばたちまち波間に放り出されそうだ。
「おた、おた、おたすけくだせえ海神さま、俺を連れて行かないでくだせぇぇ!」
私は混乱の中、クォーターデッキに立ちはだかっていた。ここが真の船長と偽の船長の分かれ目だ。今は皆で生き残る為、ありとあらゆる力が必要になる。まずは私が、皆の心の支えにならなくてはならない。
「フォアキャスル確保しろ、ブームを引き絞れ、メンスルリーフしろ! スプリット巻け、ヘルムスマン、彼女に風を当て続けろ、この嵐を乗り切って必ず先に行くんだ!」
罵声のような波濤にも、呻り声のような暴風にも負けないよう、私は強くはっきりと、甲板に居る全ての者に聞こえるように指示を飛ばし、天の大蛇に稲妻が走り回る水平線を、真っすぐに指差す。
「アイ、船長!!」
恐怖に怯える水夫達が、力強く私の呼び掛けに応じる……
その感情は、信仰に近い。
「キャプテン・マリー万歳!」「俺達は生き延びるぞ!」
嵐の猛威は頂点に達していた。だがベテラン水夫達は強風をものともせずシュラウドに登って行く。
マストに抱きついて震えていた新入り水夫も、波に洗われながらハッチに増し締めをして添木をする。
船は混乱の中でリズムを見つけ、乗組員達は一つのチームとして動き出した。もううず高き白波も漆黒の渦潮も怖くない。
船長は自分勝手であれ。思い付きで行動しろ。普段は怠けていていい。そして、いざという時は役に立て……船長の仕事はそれだけだ。
◇◇◇
「うう……あああ! うあー!」
「マリーさん……マリーさん!」
「……は、はいっ!?」
私は絨毯の上で目覚めた。ここは建物の中だ、風も吹いてないし波も打ち寄せていない……
シスターは仰向けに転がった私に半ば覆い被さるようにして、心配そうに私を見つめている……美人で背が高くて優しくて、胸が大きい、素敵なお姉さんだ。
「怖い夢を見ました……とても怖い夢を」
寝ぼけて床をのたうち回っていた私を幼子のように抱え上げ、シスターは私をベッドの縁に座らせてくれて、その横に座った。
「大変でしたね。大丈夫ですよ、ここはハワード王立養育院、アンブロワーズ国王陛下が用意して下さいました、とても安全な場所ですからね」
シスターの大きな手が、私の髪をさらさらと撫でる……気持ちがより、落ち着いて行く……良かった、夢かあ。ひどい夢を見たなあ……あれ?
「あれ……だけどどんな夢だったのか思い出せません、たった今まで見てたのに」
「うふふ、そういう事ってありますね。どうぞ、ゆっくり準備をして降りて来るといいですわ、朝食が出来ていますからね」
シスターは優しいのでそうおっしゃるけど、私は急いで身支度をする。私は朝寝坊をしていて、彼女はその様子を見に来てくれたのだ。
ここは私達、養育院に入る事が出来た、親のない娘達が寝起きする寝室だ。ここにはたくさんの二段ベッドがあり一部屋あたり20人くらいが寝泊りしているのだが、今朝はもう誰も居ない。私は慌てて寝室を飛び出す。
建物は堅牢な石煉瓦で出来ていて廊下も広い。日当たりの良いテラスの外には広い芝生の広場があり、その周りは静かな林で囲まれている。ここはまるで宮殿のようだ……ここにはどんな危険も喧噪もない、あるのは安全で静かな暮らしだけだ。
階下の大食堂には200人を越える仲間達が、四つの長いテーブルに別れて着席していた。私は急いで、あと10人ほどしか残っていないキッチンの列に並ぶ。
「遅くなってごめんなさい」
「大丈夫よマリーちゃん、遅れてもいいのよ」
厨房のおばさんは優しく微笑んで、私が手に取ったトレイの皿の上に、クリームをふんだんに使った優しい香りのシチューを注いでくれる……こんなご馳走、ヴィタリスでは見た事もなかったなあ。
―― カーン……カカーン、カーン、カカーン
外で鐘が鳴っている。もしかして、朝食の時間ってもう終わり? だけどあれは礼拝堂の鐘の音とは違うような。だけどこの鐘の音、どこかで聞いた事がある……どこかで……
「マリーさん!」
「えっ!?」
次の瞬間、私は追い掛けて来たシスターに抱き着かれ、耳を塞がれていた。
「大丈夫マリーさん、ふらふらされておりますわ、具合でも悪いの!?」
「あ、ああいえ、大丈夫ですけど」
「きっとびっくりしたのね、外で誰かいたずらしてるんだわ」
シスターはそう言って手を離す。今のは何だったんだろう。
鐘の音はもう鳴り止んでいた。
◇◇◇
食事の後には奉仕活動と称する庭いじりの時間があるのだが、田舎の小作人だった私には正直物足りない。
「シスターさま、私、向こうの放牧地に行って牛糞を集めて来てもいいですか?」
「マリーさん、そういう仕事は大人の男性がやるからいいのよ」
それでもう少し張り合いのある仕事がしたいと申し出るのだが、いつもシスターに断られてしまう。
「じゃあせめてあの田んぼの代掻きをやらせて下さい」
「とんでもない、貴女が泥んこになる必要はないのよ、そうだわ、東の庭園に行って、この花籠に一杯分の花を摘んで集めて来て下さらない? 大広間の花瓶に飾る分ですわ」
頼まれてしまえばやらざるを得ない、そんな労働とは思えない素敵な仕事に勤しんでいると。周りで庭を掃除していた女の子たちが、にわかにざわめきだす。
「見て、トライダー卿よ」
「トライダー様ですわ!」
養育院の正門から続く、幾何学模様の庭園を抱えた広い道を、一人の騎士がやって来る……本当だ、あれはトライダーさんだ。
トライダーさんはたちまち、養育院の女の子たちに囲まれる。彼女達の中には私と同じように、トライダーさんに保護されてこの養育院にやって来た子も居る。まあそうでなくても、若くて有能でハンサムなトライダーさんは、皆の人気者だ。
そんなトライダーさんが、女の子たちを引きつれたまま私の方にやって来る。
「皆、変わりないようで何よりだ……マリー君も、万事差し障りはないだろうか」
トライダーさんはそう言って微笑む。私は少し困惑していた。この素敵な養育院で不自由する事など何もない。
ここは本当に安全で清潔な場所だった。ベッドも藁束ではなく綿入りのベッドだし、建物は雨漏りなどしない。冬には大きな暖炉が煌々と炊かれ、夏には清潔なカーテンが日差しを遮ってくれる。
図書館にはたくさんの本が置かれていて、好きなだけ読む事が出来るし、教養のない私に文字や算数を教えてくれる先生も居る。
食事も専属の料理人が作る美味しいものばかりだし、裁縫だって、広くて設備の整った工房を使わせて貰えるのだ。
「あの、差し障りなんてあるわけないです、私……」
私、と言って口籠る私……私は恥ずかしさで顔を上げられずに居た。
私は以前、トライダーさんから逃げ回っていたのだ。養育院に行くのを嫌がり、空き樽の中に隠れたり藁の山に潜り込んだりして、風紀兵団の人達にひどい手間を掛けさせていた。トライダーさんが熱心に勧誘してくれるのも聞かずに。
「本当にごめんなさい。私、最初からトライダーさんの言う事を聞いて、すぐにここに来ていれば良かったのに」
私はそう言って深々と頭を下げる。
「やめてくれマリー君、君のような淑女がむやみに身を屈めるものではない……それより、今日は君にお客様を連れて来た」
お客様? 誰だろう……そして顔を上げた私は驚愕する、トライダーさんの後から歩いて来た淑女は、あの王都で評判の服飾の権威……!
「ジョゼフィーヌ夫人!?」
私はそう叫んでしまってから慌てて口元を抑える、いきなり名前を呼ぶなど失礼ではないか。だけどこの人は私の憧れの人、ジョゼフィーヌ夫人に違いない!
「元気のいい方ね。トライダー卿、こちらが貴方が話していたマリーさんね、すぐに解ったわ」
夫人は苦笑いを浮かべてそう言った。まさかトライダーさん、私の為に、わざわざジョゼフィーヌ夫人を連れて来てくれたの!?
トライダーさんは少し照れくさそうに、横顔を向ける。
「いや、まあ、マリー君もそうだが、ここには縫製職人を目指している若く勤勉な女性がたくさん居るのだ、ジョゼフィーヌ夫人には是非、王都の最新のファッション事情について講義をしていただきたいと考えてね」
涙が溢れる……嘘だ、夢みたいだ、ジョゼフィーヌ夫人のお話が聞けるなんて……そんな事、王立養育院に入れなかったら絶対に出来なかっただろう。
「……マリー君?」
「ごめんなさい、トライダーさん……グスッ……逃げ回ったりしてごめんなさい、井戸の釣瓶にぶら下がったり、天井の梁によじのぼって隠れたり、私、どうしてあんなにバカだったのかしら」
「はは……もういいんだマリー君。王立養育院に来てくれて本当に良かった。ここには熊や山賊は出ない、もちろん巨大ダコも」
「巨大ダコ?」
「あっ、ああっ!? 何でもない、何でもないぞマリー君、さあジョゼフィーヌ夫人、あちらで講義を」
トライダーさんは何かに慌てるように、ジョゼフィーヌ夫人を講堂の方にお連れしようとする……あれ?
「私どうして、ジョゼフィーヌ夫人のお顔を存じ上げていたのかしら?」
「そっ、それは! ジョゼフィーヌ夫人は有名人だからだ!」
「そう、そうよ私は世界中のお針子の憧れですもの、おホホホ」
そうか。そういうものか。そうよね。そうかしら?
私が首をひねっていると、女の子たちが私の背中をつつき、耳打ちして来る。
「……マリーさん。トライダー卿って、貴女の事が好きなんじゃない?」
「トライダーさんマリーちゃんの事すごく贔屓してるもの! きっとそうよ」
「え……えええっ!? ないない、そんな事あるわけないでしょ!」
私は恋愛小説は好きだが、自分の身の事を話すのは大の苦手だった。だいたいトライダーさんなんて背が高くて強くて優しくて立派な騎士で、あんなのとっくに彼女居るに決まってるじゃん。
そんな事をしているうちに、ジョゼフィーヌ夫人はトライダーさんの案内で講堂の方へ去ってしまった。こうしてはいられない、早く花集めを終わらせてジョゼフィーヌ夫人の講義を聞きに行かなきゃ!
私が駆け出そうとした、その時。
―― ミャウッ、ミャウッ……
頭上で鳥の鳴き声がした……見上げれば一羽の白い鳥が、灰色の長く優美な翼と、短い黒い尻尾を一杯に広げ、風に乗って、東から西へと飛んで行く。
あんな鳥、この辺りに居たっけ? 見たことないよ……ヴィタリスにも居なかった。それなのに。なんだか……懐かしい気がする……
「マリーちゃん?」
「どこ行くの、マリー?」
私はシスターから預かった花籠を放り出し、走り出していた……何故自分がそんな事をするのかわからない、だけど私は西へ向かって、風に乗って飛んで行く鳥を追って全力で走っていた。
「待って……待って!」
私は空を見上げ叫ぶ、だけど飛ぶ鳥が待ってくれるはずなどない。
涙が出る……どうして? 私なんで泣いてるの?
幾何学模様の見事な庭園を、その向こうの麦畑と豆畑を、さらに向こうの牧草地を……私はひたすら、鳥を追って走る。
ああ、あの鳥の名前はなんだっけ、喉元まで出掛かっているのに思い出せない。
あの鳥は、あの鳥の名前は……
―― ミャーアッ ミャーアッ、ミャッ、ミャッ、ミャッ……
「待ってぇー!!」
私は絶叫する。だけど鳥はただ猫のような声で鳴きながら飛び続け、その背中はどんどん小さくなって行く。
広大な王立養育院の敷地も無限ではない。敷地を囲う雑木林と庭園の間には高さ5mはある石煉瓦の壁がそびえ立っている。私にはそれを越える術はない。
だけど鳥にとってはそんなもの、何の妨げにもらない。白い鳥は悠々と壁の向こうへと消えて行く。
「待って……」
私はただ、そびえる壁の前で膝をつきうずくまる。何故自分がこんな事をしてるのか、何故涙が出るのか全くわからない。
「……マリー君! マリーくーん!!」
―― ドドッ、ドドッ、ドドッ……!
そこに……白馬に乗って追いかけて来たトライダーさんが、私を追い越してから馬を飛び降り、駆け寄って来る。
「どうしたのだマリー君! ここはアンブロワーズ国王陛下が建設して下さった王立養育院、完全に安全な場所だ! ここには君を泣かせるような苦難は何もないはずだマリー君!」
「えっ……ああ、はい、私、どうしちゃったんでしょう」
私は慌てて立ち上がる。何で泣いてるの私? 優しいトライダーさんにこんな心配をさせて、だめじゃん私。
「いや、マリー君さえ無事ならいいのだ。戻ろうマリー君、君の為に用意された、完璧な世界があるのだから」
トライダーさんは馬の背中に跨るよう勧めてくれたが、私はそんなのははしたないし申し訳ないと思ったので、走って養育院の講堂に戻った。
あの鳥の名前が思い出せない……その事が引っ掛かる……
何だったんだろう、あの鳥は?
◇◇◇
ジョゼフィーヌ夫人の講義はとても難しくて、私が聞いた事のない言葉だらけだった。
「淑女たるもの、コール・ピケによる垂直の美を追求すべきですわ。鋼のように硬い芯が、貴女の魂を律するのです」
凍る、引け……王都のファッション用語なのかなあ。周りのお針子志望の子達はみんな知っているようだ。私のように周りをきょろきょろ見ている者などいない。
「フェザント産の最高級のギピュール。この蜘蛛の巣のように繊細な編み目が、殿方の心を捕らえますのよ」
網目……網はわかる、ヴィタリスの川で弱ったマスを捕まえる時に投げるやつでしょ、それから高い所に登る時に……あれ? これは何の記憶だっけ?
「今やラバ・トこそが、高貴な身分を証明する象徴。首元を高く保つことで、決して下界の喧噪に惑わされない矜持を持つのです」
鼠棒? 鼠を叩く棒? 違うな、鼠が走るような高い所にある棒の事かしら、だけどそれが何でファッション用語なんだろう。
なんだか眩暈がして来た……ああ、やっぱり私は何も知らない田舎者なのだ。
「あ、あー、マリー君、どうかしたのか?」
講堂を静かに巡回していたトライダーさんが、私の席の横で立ち止まってそう言った。しまった、ぼんやりしているのがばれたみたいだ。
「ご、ごめんなさい、私、養育院に来たばかりで、何も知らなくて……」
「そんな事を恥じないで欲しい、私が、風紀兵団がもっと早く君を連れて来れなかったのが悪いのだ」
トライダーさんは申し訳なさそうに微笑んでそう言った。何で? 悪いのは私なのに、ああどうしよう、ジョゼフィーヌ夫人も講義を中断し、こちらを見て苦笑いをしている!
「わ、私は退出します、ごめんなさい皆さん!」
せめてこれ以上講義の邪魔にならないよう私は席を立った、だけどすぐに隣に座っていた女の子に腕を捕まれた!?
「待ってマリーちゃん、誰も怒ってなんかいないわ」
私が驚いて顔を上げると、周りの女の子達は皆、穏やかに微笑んでいた……ジョゼフィーヌ夫人も、私を見て、優しそうに頷いている。
「いいのよマリーさん、どうか皆と一緒に聞いて、わからない所があれば後で聞きに来て、何度でも答えてあげますから」
頭が真っ白になった。
私は腹黒く、打算的な生き物だ。いつだって正義より自分の安全や利益を選ぶし、見返りもなしに働いたりしない、ここに居る皆……女の子たち、ジョゼフィーヌ夫人、そしてトライダーさんのような、清く優しく美しい心など持ち合わせていない。
ここは、私が居ていい場所ではない。
「申し訳ありません!」
私は隣の子の手を振り払い、席を離れて土下座をしようとしたが……すぐにトライダーさんに止められてしまう。
「やめるんだマリー君! 君のような淑女が、そんな恰好をするものではない」
「トライダーさん、御願いです、皆さんにお詫びをさせて下さい、それから、私を外に連れ出して、講義を再開して下さい!」
「マリーちゃんは悪くないのよ!」「泣かないで、マリーさん!」
私が腕を振るとトライダーさんはすぐに手を離してくれたが、代わりに周りの、同じくらいの年の女の子達がすぐに集まって来て……私はすっかり囲まれてしまった。みんなどうしてそんな優しいの? 私は確かに同じ年の同性の友達が欲しいと思っていたけど、無理だ、私はこんな善良な人々の友達にはなれない。
私がただ泣きながらもがいていると、少し年上のお姉さんが不意に叫んだ。
「そうだわ、私たちジョゼフィーヌ夫人の歓迎会をまだしていなかったじゃない! ジョゼフィーヌ夫人、マリーはヴァイオリンの名手なんです」
え……ちょ、ちょっと何言ってるのお姉さん!? ヴァイオリンは絵本で見た事があるけど、私がそんなの弾けるわけないじゃない!
「素敵! マリーちゃん、私も聴きたい!」
「名案じゃないか、私もマリー君の演奏を聴きたいと思っていた」
「まあ、本当に!? でしたら是非聴かせていただきたいわ」
女の子達が、トライダーさんが、そしてジョゼフィーヌ夫人までもがそんな事を言う……どうして……ヴィタリスの水呑百姓の娘がヴァイオリンなんて弾けるわけがないじゃない……
そこへ今度はシスターがやって来る。私は一瞬、シスターが助けてくれる事を期待したのだが。
「さあ、どうぞマリーさん」
しかしシスターはいつもの優しい笑顔で、私にヴァイオリンと弓を押し付けて来た! ひどいよシスター、アンタもグルなの!?
茫然自失、私は口を開けたまま周囲を見渡す。女の子達、トライダーさん、ジョゼフィーヌ夫人、シスター……みんなにこにこしてこちらを見ている……どうしよう、とにかく何とかごまかさないと、
「え、あー、でもその、楽譜がないと何を弾いていいか」
「楽譜ならそこに落ちてたわ!」
しかし私がそう言い訳した瞬間、後ろの女の子が折りたたんだ紙片を押し付けて来た。ウソでしょ、なんで楽譜が落ちてるの!?
そうか……みんな優しそうな顔をして、本当は私を笑いものにしようとしてたんだな!?
そう考えると、なんだか元気が出て来た。畜生、弾けばいいんだろう。
私はガサガサと乱暴に折られた紙片を開く。楽譜? 私がそんなもの読める訳がないだろう。曲名は……海、その愛? 聞いた事ないよそんなの。なんだこれ歌詞も書いてある、弾きながら歌えというのか。
……
しかもこれは男の歌だ。男は夢を持てとか、遠い国へ行けとか、最悪だよ。
私の家がまさにそうだよ! 夢を持ったバカな男は自分の母親も嫁も娘も放り出して遠い国へ消えた。残された女の気持ちわかってんのかよ……それを私に演れというのか。いいよ。演ってやる。
―― フォォォォォォォォォォォォォー……ン
私はヴァイオリンを左に構え肩と顎で挟み、まずは一弾き、音合わせをする。これは名前を思い出せない悪役令嬢に叩き込まれた技のような気がする。そしてちらりと周囲に目を配る。女の子達、トライダーさん、ジョゼフィーヌ夫人……皆静かに微笑んでこちらを見ている。いやなんで全員微笑んでるんだ、気色悪い。
―― トゥルルー、トルルルゥー、トルゥー、ルルールルルー……
私は読めもしない楽譜を睨みつけ、イントロは飛ばして歌詞のある所から弾き出す。何だかこのヴァイオリン、まるで私のヴァイオリンみたいな音がする。
歌詞は……口に出さない、出したくない。海は男だけの物なんでしょ、知るか。
―― トゥルルー、トゥルルー、トゥールー、トゥルルー、トゥルルー、トゥルー
私の適当な演奏を、女の子達は笑い物にする事もなく、静かに聴いている。ジョゼフィーヌ夫人も……シスターとトライダーさんは……何か困惑したような顔をしている。
―― トゥルルー、トルルルゥー、トルゥー、ルルールルルー……
「あの、マリー君、この曲はその、君に相応しくないかもしれない」
「マリーさん、弾きたくないなら止めていいのよ、無理をしないで」
「どうなさいましたの、トライダー様」
「シスター様、マリーは大丈夫よ、止めないで」
トライダーとシスターが私の演奏を止めようと近づいて来るが、女の子達に阻まれた。
私はさらに弓に力を籠め、ヴァイオリンを強く震わせる。
―― トゥルルー、トゥルルー、トゥールー、トゥルルー、トゥルルー、トゥルー
「止めるんだマリー君、この曲はいけない」「マリーさん、止めて!」
トライダーとシスターは女の子達を掻き分けて近づいて来る……その時。講堂の外の廊下の方から、ざわざわという大きな音が近づいて来た。
私は何故かぼろ泣きしていた。理由も意味も解らないんだけど、涙が後から後から湧いて来るのだ。
―― トゥルルゥー……トゥルルゥ……トゥルルー……
「きゃああ!? 何あれ!」「演奏をやめろマリー君!」
―― バァァーン!!
女の子の一人が、トライダーが叫んだ瞬間、講堂の両開きの重厚な扉が爆発するように吹き飛んだ!
そこから入って来たのは大量の水!? 嵐の時の山で起こるような鉄砲水が! 怒涛となって講堂の階段に流れ込んで来る!
私は全身を震わせてヴァイオリンを弾きながら叫んでいた。
「海よォ! 俺の海よォォオ!!」
―― トゥールルー! トゥルゥルートゥールルー!
講堂の入口から入って来た大量の水は巨大な蛇のようにうねり、一筋の流れを維持したまま、講壇の方へと突っ込んで行く。
「ひいいいっ!?」
私はその流れに乗ってやって来たボートへと飛び乗る。ボートはそのまま、悲鳴を上げて講壇から飛び退いたジョゼフィーヌ夫人の横を通過する。
―― トゥルールルー! トゥルール、トゥールルー!
王立養育院の講堂を流れる一筋の海に乗った私は、ヴァイオリンを弾きまくる、私が弾けば弾くほど、海は猛り、津波となってこの講堂を大蛇のように這いまわる!
「やめるんだマリー君、行ってはいけない!」
「誰か、マリーさんを止めて!!」
トライダーが、シスターが私を止めようと立ち向かって来る、しかし巨大なサーペントのような海流の前には手も足も出ない。
―― トゥルールルー、トゥルー、ルールルー!
「マリーさん!」「団長を止めろ!」
すると今度は風紀兵団が、何十人もの緑色の鎧兜の集団が講堂の入り口に現れ、激流に耐えたり吹き飛ばされたりしながら、人垣を作ってそこを封鎖した!?
「我々の団長に戻って下さいマリーさん!」「もちろんタダで!」
何を言ってるんだあいつらは、お前らのやってる事は本当に未成年者の保護なのか、どうしよう、鎧武者共は文字通り人海戦術で激流渦巻く出入口を塞いでしまった。
―― トゥールール! トゥルー、ルールルー!
私は憑りつかれたように、ただヴァイオリンを弾いていた、海流のサーペントは講堂の中を周り続け、ボートは激しく揺れる、だけど私の身体はびくともしない。
凍りつく錨索を引け! シュラウドを駆け上れ、ネズミ共よりも速くヤードを走れ、船と人は一心同体、どんな運命も力を合わせて乗り越えるのだ!
次の、瞬間。
―― ザザザザザバァァ!!
「うわああっ!?」「きょ、巨大ダコだあぁあ!?」
講堂の入り口に詰まった風紀兵団共を弾き飛ばし、現れたのは巨大ダコ! スヴァーヌ海の巨大ダコだ! タコの細い横長の瞳が、私の視線と交錯する……
―― 昨日の敵は今日の友だ、ここは俺に任せて、お前は自由の海に帰りな
巨大ダコ! 助けてくれるのか巨大ダコ!
―― トゥールルー、トゥル、ルルルゥー!
「マリー君、行っては駄目だーっ!」
「マリーさん! 王立養育院に戻るのよー!」
トライダーとシスターが叫ぶ。私はそんなものに構わず、邪魔者の居なくなった講堂の出口から外へと飛び出す。養育院の広い庭を、先ほど一羽のカモメが飛んだその下を、一筋の海流が、西へ西へと流れて行く。
「海が好きだーッ!!」
大音量でヴァイオリンを弾き、ずっと号泣しながら、私は絶叫した。
―― トゥルルールルゥー、ルルルールルゥー!
「戻れーッ! 戻るんだマリー君!」
「マリーさん! 戻って来てー!」
トライダーとシスターはまだ庭を走って追って来る。だけどもう私には追いつけない。
海流は地面を離れ、高く登って行く。ボートの帆が追い風を受けて、ぱん、と膨らむ。
帰ろう。海に帰ろう……
◇◇◇
―― ゴロン、バタン!
「いってェェーッ」
その瞬間、私は今度こそ目を覚ました。ここは……いつものフォルコン号の艦長室……私はたった今、ベッドから転げ落ちたらしい。
思うんだけど船長だけベッドに寝るの、おかしくない? 水夫はみんなハンモックで寝てるよ、ハンモックならいくら揺れても落っこちたりしないから。
「おはーッス」
身支度を済ませた私は、甲板に出る。艦尾楼の上で洗濯物を干していたアイリさんが振り向く。
「大丈夫? 結構いい音がしたけど」
「いやあ、変な夢を見て寝ぼけちゃって」
ふと見ると、甲板のトーマスやパーシーもこちらを見てニヤニヤしていた。私がそちらを向くと、サッと顔を背けたが。
「あの、もしかして私、なんか叫びました?」
「じゃああれは寝言だったのね……このへんに居た人は皆聞いたわよ。一体どんな夢を見てたのかしら」
アイリさんもそう言って、腕組みをしてニヤニヤ笑う。
そう言えば、どんな夢を見てたんだっけ?
「それは……あれ? 思い出せない、嫌に長い夢だったのに……えー?」
何という事か。私はもう今さっきまで見ていた夢の事を忘れていた。寝言で何と叫んだのかも思い出せない……ちょっと待ってよ、恥ずかしい事だったらどうしよう!?
「待ってアイリさん、私何て叫んだの!?」
「別にたいした事じゃないわよ、気にしないで」
私は艦尾楼に駆け上がる、だけどアイリはニヤニヤ笑いながら、反対側の階段を駆け降りてしまう!
「それじゃ余計気になりますよ! 思い出せないんですよ、教えて!」
「うふふ、そういう事ってあるわよねェ。会食室に朝食が出来てるわよ、まずは腹ごしらえをして来たら?」
私は追い掛けるが、アイリは私が秘密を知りたがっているのが可笑しいらしい、いつもは私が何でも秘密にするから……ヒラリ、ヒラリと逃げ回るアイリは、ついには自分の士官室に飛び込んでしまった。
「はあ……全く……あれ?」
ふと見ると、私のズボンのポケットから、何かの紙片がはみ出している……なにこれ? 何のメモだっけ?
―― バサッ!
あっ……しかし紙片は私が取ろうとした瞬間、突風に煽られて飛び出してしまった。そして一瞬は舷側の手すりに引っ掛かって止まったのだが、
―― バササ……
再び風に煽られると、白い鳥が羽ばたくように高く舞い上がり、海へと攫われて行ってしまった。
やっちゃった……大事な書類とかだったらどうしよう。だけどそんなズボンのポケットに押し込んだりしないよな、いくら私でも。たぶんイカの唐揚げのレシピとか、そんなのだと思うんだけど。





