【読み物】国王が新しいお触れを出していなかった場合のマリー・パスファインダーの望郷の旅路の最終話
※第五作のネタバレを含みます、未読の方は是非、第五作を読んだ後で読んでみてね。
森の中を続く、なだらかな登り坂の道。小さな沢を横切ってあと少し登れば……道が開けて、牧草地が見えて来た。
彼方の丘の上には三階建ての教会が建っている……田舎には勿体ない程立派な、村の自慢の教会だ。教会の周りには畑や集落が広がり、古い砦跡も見える。
帰って来たんだ。私はヴィタリスに帰って来た。もう苦しい想いをして船に乗る事なんてない。風紀兵団に追われる事も無くなった。
森を抜けた私は走り出す。荷物はたくさんの服だけ。他の物は全部船に置いて来た。
私が着ているのは出掛けた時のままの、始まりの普段着。そうだ。これは父が母にプレゼントしたのだが母は気に入らず、ほとんど着ないまま家出の時に置いて行った不遇の服、だけど私は気に入って着てるのだ。
船酔い知らずの服達も持って来た。別にもう必要ないけど、短い間海で生きていた事の記念品だ。
青い空、流れる雲……なんと気持ちのいい日だろう。涙がむやみに溢れる。故郷の村がだんだん近づいて来る。
……
だけどこの既視感は何だろう? これこそが私が半年以上待ち望んでいた景色のはずなのに、何故か最近一度見たような気がする。そんな訳ないよね。変なの。
とにかく私はもう16歳、船乗りなんてやつからは綺麗サッパリおさらば致しまして、これからはこの村で堅気の小百姓、いやお針子として生きて行くんです。
今日はその一日目! まずは村の井戸の所へ行って、綺麗に足を洗う所から始めますかね。
「ああ? お前、マリーじゃん」
私はよく聞き覚えのある声に呼ばれて振り返る……ああ、ガキ大将のサロモンだ……帰る早々嫌な奴にあってしまった。あれ? だけどここにも既視感があるような、ないような。
「どこをほっつき回ってたんだよお前。ジスカール神父が方々尋ね回ってたぞ」
「ふ、風紀兵団が追い掛けて来るから逃げ回ってたんでしょう!? 知ってるじゃんアンタも!」
あっ。しまった、こいつを相手にする時は絶対怒ってはいけなかったのだ、私が怒れば怒る程喜ぶ奴だから……あれ? だけど今日のサロモンは、私が怒った瞬間少しだけニヤッとしただけで、顔を背けてしまった。
そうだ。あの時の事、ちゃんとお礼を言ってなかった。
「……あの時は本当にありがとう。サロモン達が助けてくれなかったら、私はそのまま養育院に連れて行かれて、その後もずっと修道院に居たかもしれない。ここに戻って来れたのはサロモンのおかげだよ」
だけど私がそう言っても、サロモンは返事をしない。
「ニコラとエミールにもお礼を言わなきゃ。二人ともまだこの村で暮らしてるよね?」
「……そんな事より、またこの村で暮らすならさっさと牛糞集めにでも行けよ! 本なんか読んでたって金にはならねーんだろ!」
ぐえっ、また言われた。
しかし私が何か言い返す前に、サロモンは走り去ってしまった。何なんだ。元々虫の居所が悪かったのかしら……何かでジャコブさんに怒られたのかな?
私は村の井戸端で本当に足を綺麗に洗い、履き物の埃を落とす。
「まあ、帰って来たのかいマリーちゃん」
「この前はだいぶ慌しかったけど、またすぐに発つのかね?」
「いいえ! もう父の形見の船乗りはやめです、これからはオクタヴィアンさんの所で働いて、村の御仕事を手伝って、ずっとこの村で暮らします!」
井戸端の顔見知りのおばさん達に、私は胸を張って宣言する。おばさん達は顔を見合わせて頷く。
「そうなるんだね、良かったよ」
「だけど、そうとなったらあのジャコブさんの所の坊ちゃん! マリーちゃんが帰って来たと知ったら何て言うかしら」
サロモンなら、さっき会いましたが……だけど私は何となく知らないふりをして小首を傾げておく。
「坊ちゃん、縁談が進んでるんだよ! 相手はバロワの割といい所のお嬢さんですって」
「へえー、そうなんですか」
私は敢えて、薄い反応を返しておく。まあーサロモンはそうなるよなぁ、あれだけの大農家の倅だもの。残念だなぁー、性格はともかく村一番の優良物件だよあれは。
私がジャコブさんちに嫁いだら、コンスタンス婆ちゃんはどれだけ喜んでくれただろう……やめよう空しいから、あそこは小作の娘が嫁入り出来る家じゃないよ。だいたい、サロモン本人が牛糞集めの本の虫なんかお断りだろう。
それから私はオクタヴィアンさんの所へ向かう……だけど辺りの様子が前と変わっているような……いや、元々でかいオクタヴィアンさんの家の近くに、さらに大きな納屋と作業場が建っている。何だろう、これ?
「パスファインダーさん!」
するとその作業場から出て来た男の人が一人、こちらに駆けて来る……ってあれはオクタヴィアンさんですよ、何であの人がこっちに駆けて来るの、私があの人の方にダッシュで駆けつけなきゃならないのに、とにかく私も走る!
「オクタヴィアンさん! 遅くなってすみません、私は16歳になりました!」
「パスファインダーさん、良く戻って来て下さいました!」
え?
「御覧下さい、これが新しく完成した縫製所です! 村の中通りには女工の為の宿舎も建てました、事業は年明けから稼動していて最新の商品をミレヨンやパルキアへと出荷しております! 販路の開拓も売り上げも絶好調です、はははは」
「な……何故ヴィタリス村に……?」
「それは勿論、貴女がこの村の為に使って欲しいと置いて行かれた資金を使って建てたからです。村の発展の為、私の提案でこの場所に建てました!」
その時ちょうど、村の教会の鐘が鳴った。それから少し経つと、作業場の出入り口から続々とおばさまやお姉さま、お針子の皆さんと思われる人々が出て来る……私と同じくらいの年の子も居る。皆さん和気あいあいとその辺りの草むらに広がって、お昼のお弁当を広げ出す。
「あ……あの……それで、私をお針子として雇って下さるという約束なのですが」
私の声は微かに震えていた。何だかとても、嫌な予感がするのだ。
「ええっ、そんな……パスファインダーさん、私も決してその約束を忘れていた訳ではないのですが……」
「わ、忘れていなかったんなら、ありますよね? 私の仕事、あるんですよね?」
「ええ勿論! 仕事はございます、この縫製所の共同オーナーとして、商談や人事に携わっていただけませんか」
「お針子は! 私のお針子の仕事は無いんですか!?」
「ああっ、あの、パスファインダーさん、バロワ工場も新工場も、お針子は十分に集まっているのです、それにパスファインダーさんには是非現場を離れて全体を監督していただきたく」
私の脳裏にこの半年間の苦労が蘇る……灼熱の砂漠、嵐の海、氷の河、そして凶暴な肉食獣やマカーティ……私が様々な困難に仮初めにも立ち向かう事が出来たのは、生き延びて故郷でお針子になるという夢の為だった。それなのに……私の感情はそこで決壊してしまった。
「そんな……そんなのあんまりだよ!」
「パスファインダーさん!?」
私は走り出していた。たちまち涙が溢れてろくに前も見えないし、一体どこへ行こうというのかも解らない。
こうなるような気がしていたのだ。
もしかしたら、ヴィタリスにはもう自分の居場所は無いのではないかと、私は心のどこかでそう恐れていたのだ。
その事が現実として目の前に現れた瞬間、恐れが現実となった瞬間、私は何も考えられなくなってしまった。
気がつけば私は、村外れの牧草地に居た。
その昔、働きたくない母が私を連れて毎日のようにピクニックをしていた場所だ。季節によっては牛糞集めの仕事場になる場所でもある。今の季節は牧草地は別の場所にあるので、牛糞は無い。
……
オクタヴィアンさんの所で働けないとなると……これからどうしよう。
お針子の仕事、他の場所で見つかるだろうか。そりゃ遠くの町まで行って探せば見つからない事はないと思う。だけど私はもうヴィタリスを、あの小屋を離れたくない。根無し草の旅暮らしはもう懲り懲りだ。
私は草の上に寝転ぶ……私、どうすればこの村で生きていけるのかなあ。
サロモンに縁談かぁ……大農家の跡取りはいいなあ。
別に大農家じゃなくてもいい。ニコラんちは製材所の共同オーナー、エミールの家は役人だ、どっちか貰ってくんないかなあ。
だけどさっきの新しい縫製工場から出て来るお姉さんや娘さん達を見たか。あれがみんなヴィタリス村の新しい住民となったのか。お針子さん達からは、魚の脂や牛糞の臭いなんかしないんだろうなあ。
エミールもニコラも、お針子になれなかった私と、あの綺麗なお針子さん達。どちらを選ぶだろうか……
もうこの村の人なら何でもいい。誰か私を嫁にしてくれい。
だめだ。
こんな所で寝転がり、そんな事を考えていたら、人間がダメになる。もうダメだとしてももっとダメになる。
立ち上がれマリー。祖母コンスタンスの薫陶を受けた私は、母ニーナとは違う。私は力の限り働いて、誰にも頼らず、自らの手で生きる道を掴み取るのだ!
私は勢いをつけて立ち上がる、新しい生き方を探す為に……! しかし。その瞬間、こちらへやって来ようとしていたサロモンと目を合わせてしまった。
「やい、マリー。お前またオクタヴィアンのとこから泣きながら出て来たって?」
うわあ最悪だ……折角人が嫌な事を忘れて一から出直そうとしている時に。
「サ……サロモンには関係ないよ!」
そしてうっかり、また怒ってしまった、前にも同じ事を言われてさんざん笑われたのに、あれは本当に腹が立つんだよ、傷口にさんざん塩をすり込みやがって……しかしサロモンはまだ何も言わない。
「私は昔から村の仕事を色々学んで来たんだから、蕪やブロッコリーも作れるし鱒も捌けるよ、お針子だけが仕事じゃないんだよ! だから、あの」
私はそこで急に冷静になった。
「これからもジャコブさんの農場の仕事に呼んでもらえると嬉しい。牛糞だって真面目に集めるよ。あと、結婚おめでとう」
この村で生きて行くなら、いずれジャコブさんの跡を継ぎ村の有力者の一人となるサロモンとは、仲良くとは言わずとも問題なく付き合って行かなくてはならならない。
だけどサロモンはまだ何も言わない、私から目を逸らして妙に唇を震わせている……何だか知らないけどもういいや。
「それじゃ」
「ま……待てよマリー!」
きりがないので立ち去ろうとすると、サロモンは手を伸ばして私の手首を掴んだ、ぎゃっ!? そんなとこ持たないでよ!
「俺はまだ結婚なんてしてないし、縁談って言ったって大人同士で話をしてるだけなんだ!」
「知らないよ、掴むのやめてよ!」
驚いた私が腕を振ると、サロモンはあっさり手を離してくれた。くれたけど……今度は何か変な顔をして、私の顔のはるか上を見上げている。何ですか? あれ、後ろから何かの影が覆い被さって……
「うわああ!?」
私は間一髪の所で飛び退いた! 静かにゆっくりと駒を掛け寄せ、私の後ろ襟を掴んで持ち上げようとしていたのは、いつかの怖い顔の男、修道騎士団のデュモン卿だった!
「見つけたぞ、マリー・パスファインダー……枢機卿猊下のお召しだ……大人しくついて来い」
私はそのまま地面に尻餅をついてしまった。
何と言う事だ……こんな田舎の村にまで追って来るなんて、一体どうしてここが解ったのか?
―― 私は故郷へ帰り、ヴィタリスのマリーとして暮らします!
ああ……私トライダーの前でそう叫んだんだった……じゃあ待ち伏せしてても仕方ないか……でもなんで、私この人にここまで追い掛けられるような事した!?
「ひいっ、ひいっ!?」
逃げなきゃ、だけどデュモン卿は馬で追い掛けて来るのだ、そんなの逃げられるわけないじゃん!
私は馬上から掴まれないよう姿勢を低くして走り、牧柵の方へ向かう! デュモン卿が馬首を巡らせまた向かって来る!
「わあああああああ!」
私は間一髪、牧柵の下へ滑り込んで向こう側へと出る! これですぐには追って来れまい!
「おのれ小癪な……逃がしはせんぞ!」
ひいいっ、だけど割と軽装のデュモン卿は馬を降り、牧柵を飛び越えて結構な速さで走って追って来る!
「わぎゃっ、わぎゃっ、ぎゃああああああ!」
私は牧草地を駆け抜け、牧柵を飛び越え、村を取り巻く森の中へと逃げ込む……
故郷ヴィタリスが、また遠ざかって行く。
第五作の年明けの祝いに沸く広場で、悠々とトライダーを置き去りにしたマリーは普通に港へ向かい風紀兵団と出会う事なくフォルコン号に帰還、そのままロングストーン経由でレッドポーチに帰った場合のマリーの話。このルートのマリーはアルセーヌが国王陛下だった事を知りません……(なおマカーティとランベロウは無事処刑された模様)