【読み物】マリー・パスファインダーの言い訳 教育水準の話 ※一部第四作「白銀の分岐点編」のネタバレを含みます
海賊ファウストことニコニコめがね爆弾おじさんがフォルコン号に密航して来た。これは予想外の出来事だったが、私にとってはチャンスでもあった。
「あの、今ちょっといいですかファウスト先生」
「だめです」
「いきなり拒否は無いでしょう密航者の分際で! 貴方が今食べてるのはフォルコン号の残り少ない貴重なパスタですよ!」
「仕方無いでしょう、いきなり先生なんて呼ばれたら何か厄介事を持って来たのだと誰でも解りますよ……」
ここはフォルコン号の会食室。暖気管の上の籠では今日もぶち君が丸くなって寝ている。ファウストの他にはちょうどアレクが食事中で、美味いのは美味いんだけどさすがに飽きたという顔で極光鱒のソテーをゆっくりと食べている。
私が持参して来たのはフェザントの学者であった頃のファウストが書いた奇書、『航海者の為の面積速度一定則、そして楕円軌道と調和』である。
やさしい航海術の参考書を探していた私がロングストーンの書店で、読めもしないのに見栄を張って購入したものだ。
だけど何しろ金貨17枚もしたのでいくらかでも取り返そうと、最初は本題と関係無い雑談の部分から拾い読みを始めて少しずつ読み進め、最近では半分くらいは読めるようになったと自負していたのである。
しかし今なら残り半分の難解な部分も読めるのではないか? 何せ目の前に居るおじさんはこの本の著者だ、きっと解りやすく説明してくれるに違いない。
「この本のこのページ! ここがよく解らないんです、教えて下さい先生」
勿論、船酔いをしていては優しい解説も頭に入らないと思い、服もお姫マリーを選んで着て来た。さあ来い学問! ヴィタリスのマリーが攻略してやりますよ!
「ここですか……? ところで貴女よく甲板で天測をしてらっしゃいますけど、船位把握も御自分で出来るんですか?」
「勿論。私は天測航法を身に着けた船長です」
私は澄まし顔で胸を張る。極光鱒を食していたアレクが顔を逸らして咳き込む。
「成る程、お若いのに素晴らしい。世の中にはいつも測量士任せで自分では何も出来ない船長も居るそうですからね。ああ、そこにお座り下さい」
ファウストは自分の斜め向かいの席を示す。私はそこに黒板と白墨を持って座る。勿論、学習の準備もばっちりなのだ。
「では解説の前に簡単な質問をしますので、その黒板に書いて答えて下さい」
「簡単な質問……ですか? それがこのページの解釈と関係するんですね?」
「ええ、大いに。では、5分の3割る3分の2の解答式を書いてみて下さい」
「お戯れはお止め下さい先生、私が知りたいのは惑星が辿る楕円軌道には何故焦点が二つあるのかという」
「いいから式を書いてみて下さい」
「私はパスファインダー商会の商会長でもあるんですよ、掛け算は日常茶飯事です、そんなの出来なかったら商売出来ませんよ」
アレクの咳が止まらない。やめてよ! いや本当にむせてるのかもしれないけど今は抑えて欲しい、なんか意味ありげになっちゃうじゃんそれ!
「暗算で出来ると言うのなら暗算でどうぞ。はい答えは?」
「太ッ……アレクさんどうしたんですか!? 変な所に入ったんですか!?」
私はアレクに駆け寄りその背中を摩る。
「大丈夫、大丈夫だから……」
アレクはそう苦しげに答えるが……いや笑ってる! 咳で誤魔化して実は笑ってる! 信じられない!
「そこにお座りなさい、マリーさん」
ファウストが立ち上がる……おじさんはとても背が高いのでフォルコン号の船室では真っ直ぐに立つ事が出来ない。背中を丸め眼鏡を摺り上げてこちらを見ているおじさんは普通に怖い。
「貴女まさか割り算が出来ないんですか」
「し、失礼な事を言わないで下さいよ! 9割る3は3ですし60割る12は5です!」
「壷に3分の2の塗料が残っています。それで船腹を塗ったら9分の8平方メートル塗れました。壷一杯の塗料で何平方メートルの船腹を塗れますか?」
「ぎゃぎゃっ!? ぎゃっ!? ま、待って下さいよその状況がまず変ですよ! 何でそんな中途半端な塗料でそんな9分の8なんて歪な面積を塗るんですか、そんな計算いつ使うんですか!」
「1平方メートルを3掛ける3の領域に分けて壷に残った塗料で塗ってみて、残り壷何個分の塗料を買えばいいのか計算するんです、塗料を塗りたい船腹の面積は全部で120平方メートル、さあ……その黒板に書きなさい、式は? 答えは?」
眼鏡を発光させたファウストが前から近づいて来るので私はテーブルを回って逃げる。しかし会食室の出口は一つ……お姫マリーの船酔い知らずの力をもってしても逃げられそうにない!?
アレクは……アレクはもう思い切り腹を抱えて笑いを堪えている!
助けて!? 助けてぶち君! ぶち君は……ちょっとだけ顔を上げたけど、あくびをして……また丸まってしまった……
「私ッ、私語学は得意ですよ、だけど学校行って習った訳じゃないんです、こう見えて私、地頭はいいんです」
「割り算が出来ないけど天測航法は身に着けたつもりの船長が気まぐれに舵を握る船なんてどこへ飛んで行くか解ったもんじゃありません、そこに直りなさい!」
私はテーブルの周りを回って逃げる。ファウストも非常に素早い男だが、天井の低さが災いしてどう動いても私に追いつけない、しかし会食室からは出して貰えそうにないっ……!
助けて! 誰か助けて!
「ちょっと! 何やってるのよ学者崩れ! 小さい女の子を追い回してどういうつもり!?」
そこへ現れたのはアイリさん! アイリさんが助けに来てくれた!
「誤解を招く表現はやめて下さい! いいんですか、貴女達の船長、割り算が出来ないで針路指示してるんですよ!」
アイリさんはファウストを押しのけて会食室に入って来て、ファウストから庇うように私を後ろ手に抱きしめてくれた。
「マリーちゃんはニスル語も出来るし最近ストーク語も覚えたのよ! とっても頭がいいんだから! そうよね船長? 瓶に4分の3の千竜石の粉末が入っているわ、これに瓶8分の3の白砂鉄を加えてゆっくり加熱するとドラゴンパウダーが出来るの。では瓶一杯の千竜石には白砂鉄をどれだけ加えたらいい?」
「んぎゃああああああああああ!! わぎゃっ、わぎゃっ、ぎゃあああああ!」
「ちょっとマリーちゃん、ここへ座りなさい!」
私はアイリの手を離れようともがくが、腰をがっちりホールドされていて離れない。助けて! 頭が痛い、頭が割れる! ああっ!? カイヴァーンが、カイヴァーン廊下を通る!
「助けてカイヴァーン!」
「2分の1個分。ファウストさんのは壷90個」
カイヴァーンは事も無げにそう言った。アレクがそれに付け足す。
「壷89個と3分の1でいいんだよ、壷3分の2個分はもう塗ったからね」
「あっ、そっかあ、あはは、さすがアレクの兄貴だ」「アハハ」
「ちょっと待ってよ! 壷3分の1個分だけじゃ売れませんって断られたらどうするの!! あとさ、ぴったりしか買わなかったらちょっとでも失敗したら塗れなくなるじゃん、また買いに行ったらお店閉まってるかもしれないよ!! 第一壷3分の1個分なんて買い方するくらいなら、100個買うから値引きしろって迫った方が絶対お得に買えると思うんですけど!」
辺りに静寂が戻る。
―― ざざーん。ひゅーるるるー
スヴァーヌ海を渡る北風の音と、フォルコン号の艦首が波濤を掻き分ける音だけが響く。
「ファウストさん御願い。船賃代わりにマリーちゃんに割り算を教えてあげて」
「僕も前から言ってるのに、船長、なかなか割り算を覚えてくれないんだよね」
「解りました。算数の教授などやった事はありませんが、全力で取り組みます」
解った。これはきっと夢だ、本編とは無関係な悪い夢なんだ。もう少ししたら目が覚めていつもと変わりのないフォルコン号の日常が始まるんだ。第一おかしいじゃん、ファウストがフォルコン号に乗ってる訳ないじゃない、これは夢なんだ。
アイリさんに引きずられるまま、私は会食室の椅子に座った。アイリさんはそのまま私の隣に座り、アレクは反対側の隣に座る。そしてファウストは眼鏡を発光させたまま、私の前に座り、黒板と白墨をこちらに押し付けて来た。
「今から私が申し上げる式を黒板に記入し、解答して下さい」
ファウストはテーブルに両肘をつき指を組み合わせ、そこに半ば顔を埋める。
助けて、助けてカイヴァーン、だけどカイヴァーンはとっくに逃げ出している。ぶち君、ぶち君は……暖気管の上の籠の中で寝転んだまま細目でこちらを見ているだけだ……
夢なら覚めて下さい。夢なら覚めて下さい。
「では、第一問」
17世紀フランスの識字率は地方によってかなりバラつきがあり、高い地域では50%に近く低い地域では5%という所もあったそうです。そしてこれは男性の話。女性の識字率はその半分以下でした。
マリーの世界もだいたい似たようなものですので、彼女の名誉の為に言えば、複数の言語の読み書きが出来るマリーは女性では千人に一人レベルのエリートなんです。村のインテリ住民、ジェルマンさんのおかげです。
一方、六分儀も発明されていない時代の船乗りはたくさんの勘と経験則、そして緻密な計算に頼って航海をしていたのではないか……と思います。
一般教養に対する認識は現代とは違いますから、15歳の女の子が割り算出来なくても何ら許されない事は無いはずなんですが、船長が割り算出来ないというのは許されなかったのではないでしょうか。





