【読み物】マリー・パスファインダーの言い訳 距離などの見積り
―― ゴン
「あたっ!」
艦長室の下の海図室で不精ひげが呻く……また梁に頭をぶつけたんだろうか。この道25年の船乗りが何をしてるんですかね。
それから少しして、艦長室の扉が開く。
「ほら、船長」
不精ひげが何食わぬ顔をして海図をとって来てくれた。私が行けば誰も梁に頭をぶつけたりしないんですけどね、労働者諸君が退屈しないよう作業を与えてあげるのも、上司たる私の大事な仕事である。
「今、梁に頭をぶつけたよね?」
「ぶつけてないぞ」
私は海図を机に広げながら言う。不精ひげは即座に否定する。
「いい音がしたんですけど。海図室の入り口の梁でしょ」
「いや、ぶつけてない」
船はクレイ海峡を過ぎ北東へと向かっている。ここは地形的にはどうという場所ではないのだけれど、レイヴンにはあまり近づきたくないので、一応見ておきたかったのだ。
「この沿岸はクレインなの? コルジアなの? あと不精ひげ海図室の入り口の梁に頭をぶつけたよね」
「このあたりは独立したり支配されたり色々あるんだ。今はコルジアの支配下にありクレインとは停戦中だな。俺は頭をぶつけてない」
「それも改革派戦争の影響なの? あの梁に頭が届くの不精ひげとウラドだけだけどウラドはぶつけないわ。不精ひげ今頭ぶつけたよね?」
「まさにそうだな、改革派として独立したのが北部、教王派としてコルジア側に残ったのが南部だ、でも俺はぶつけてない、あとあの梁はアイリさんもぎりぎり頭が届くらしい」
「あれ、じゃあアイリさんって太っちょやロイ爺より背が高いんだ」
「何を今さら……パッと見たら解るじゃないか」
私はコンパスと定規を地図に置き、あれこれと動かす。
「昼のうちにあと何km走れるかしらね……リトルマリー号の時は、却ってあまりぶつけなかったんじゃない?」
「リトルマリーは狭い分用心してたし、何より15年も乗ってたから意識しなくても体を屈めるようになってて……いや、俺は頭をぶつけてない」
「全長10mちょっとだったもんね」
不精ひげはその、私の何気なく発した一言に突っ込んで来た。
「待て待て船長、確かに小さい船だったけど10mちょっとは酷いぞ」
「へ? そんなもんじゃなかった?」
「だいたい全長って……バウスプリットを除いても18mはあったぞ、全幅も4mを越えてた」
コンパスと三角定規から手を離し、私は腕組みをして目を瞑る。記憶を巡るまでもなく、リトルマリー号はわりと最近見たしよく覚えている。
確かに。あの船も乗っている時は小さく見えたけど、隣で航海している時は少し大きく見えたな。私はそれが、立派に塗装されて綺麗な帆がついているいるから錯覚でそう見えるのだと思っていたのだが。
「えっ、じゃあフォルコン号も15mちょっとじゃないの?」
「自分が乗ってる船の船長の距離の見立てが、そこまでいい加減だったとは……」
不精ひげはそう言って振り向き、手招きしながら艦長室を出て行く。
私もとりあえずついて行く。
「艦長、ここに立って艦首の大砲を見てくれ。ここからあそこまで10mだ」
不精ひげは甲板の上の一点を指す。私はそこに立ち、艦首の砲座に置かれた3ポンド砲を見つめる。
「これ10m? 8mくらいじゃない?」
「ああ……船長は布尺を持っていたよな? 実際に測ってみるか?」
結局私は一度艦長室に戻り、私物の布尺を持って来る。
そして一度先程の地点から大砲までを麻糸で測り、その麻糸の長さを測ってみる……これは確かに不精ひげの言う通り、ほぼ10mだった。
「へー。10mってこんなもんですかね。ところで不精ひげさっき海図室で頭ぶつけたよね?」
大人気ない私は不精ひげにまたそう言った。
「ぶつけてないぞ。じゃあ船長、あの大砲の横に俺が立ってみるから、この地点に立っていてくれ」
不精ひげは大砲の方に行き、大砲から少し離れてこちらを向き、真っ直ぐに立った。
「船長! 俺が大砲から1m横に離れて立っているのは解るな?」
「解りますよ! それは1mです!」
お針子の私は不精ひげの腕の長さ、袖丈、それを基準にして見たら、今不精ひげが立っている地点が大砲から1m横に立っているのが解る。
「次に俺に向かって腕を真っ直ぐ伸ばし、親指を立ててくれ! それから右目を瞑って、親指で俺を隠してみろ!」
「はい??」
私は言われた通り、腕を伸ばし、親指を立て、10m離れた所に居る不精ひげの姿を親指で隠す……隠すと言っても……こんなんでいいかしら?
「隠れたら腕を動かさず、右目を開けて左目を閉じてくれ!」
私はそのようにしてみる……おや? 不精ひげが現れたのは勿論だけど、1m離れた大砲がぴたりと隠れましたよ? これはまさか。
ああ。不精ひげが戻って来る。
「俺と大砲の距離が1mだったろ? それを10倍したら10m。だから船長が立っていた場所から大砲までの距離は10mだ」
事も無げにそう言う不精ひげ。
「ちょっと待った! 本当に!? 嘘でしょ!?」
「いや……さっき麻糸の長さも計ったし、俺と大砲の距離も1mだって船長も」
「そうじゃなくて! じゃあじゃあ、距離が半分だったらどうなるの!? ちょっと不精ひげ、大砲から50cm離れて立っててよ」
私は半分の距離でやってみる。だけどこれはやる前から結果が解っていた。単純な算数の問題である。
だけど私は納得が行かない。
「じゃああの船! あの船までの距離も解るの?」
私はちょうどフォルコン号とすれ違う航路で彼方を行く、一隻の帆船を指差す。
「あれは古いナオ船だな、船尾から船首、バウスプリットの根元まで30mって所だ」
私は指を伸ばし、片方ずつの目で見てみる。左の目で見て船尾に合わせ、右の目で見てみると……
「船の全長の3倍くらい動いた」
「じゃあ30mの3倍だ」
「90m?」
「で、それの10倍だ」
「900m!?」
私が振り返ると不精ひげはもう背中を向けて立ち去ろうとしていた……
「待ちなさーい! 待ってよ! 納得行かないわよだけど、だって腕の長さとか顔の大きさとかさ、人によって違うじゃん!」
私は不精ひげを追いかけてその腕を掴む。
「別に精密な測量が出来るやり方じゃないぞ……だいたいだよ、だいたいどのくらいの距離か、パッと知りたい時に使うんだ」
「でも今私は900mって言ったけど、不精ひげが測ったらどのくらいに見えるのよ! 絶対不精ひげの方が私より腕長いじゃん、全然長さ違うじゃん!」
「その代わり俺の方が顔が大きいだろ、俺から見てもだいたい900mだよ、俺は今から非番だから、これで」
不精ひげは私の手から離れ、会食室の方へ逃げて行く。
ちょっと待て! 何が納得行かないのか解らないけど、何か納得行かないよ!!
「待ちなさいよ不精ひげ! あんたさっき絶対海図室の入り口の梁に頭ぶつけたでしょ!」
何故そうなのかは解らないが、お姫マリーの時の私は多分普段より少ししつこいぞ。私は不精ひげを追い、会食室に向かう。
この小説はほとんどがマリーの一人称で進められています。
その中で出て来る距離や時間、重さなどは、物語の登場人物であるマリーの主観によって語られたものも多くなっております。
つまるところ、マリーが50mと言った物が本当に50mかどうかは解りません。それはマリーの過小評価かもしれないし過大評価かもしれないのです。どうか悪しからず御了承下さい(震え声)。




