泣きたいと思う時。
仕事で失敗した僕は、とぼとぼと河川敷を歩いていた。
会社に入って、5年。いまどき1年目の新人でもしないような電話の取次ぎミス。部長に怒られに怒られ、落ち込んで家路についた。
いつもより会社を早く出たので、日没前の太陽が川に反射して、キラキラと光る川を眺めながら歩いていた。
すると、土手に一人の女の子が座っていた。それはもう、意気消沈どころか、背中に雨雲を背負っているような落ち込みようだ。しかも、体操座りをしている。
もしや、泣いている?
そう思い、ついつい声をかけてしまった。
「君、どうしたの?」
女の子は、ゆっくり顔をあげて覇気のない顔で僕を見た。そして何も言わず、立ち上がった。そして何も言わずに立ち去る。
「ちょっと待って。あ、いや、怪しいもんじゃなくて、その、君が泣いてるかと思って、だからそのーー。」
「泣きませんよ。」
怪しいものじゃないと必死に説明する僕にぴしゃりと女の子は言った。しかも『泣いてない』ではなく、『泣きません』と。
「泣いてないとかじゃなくて、泣かないの?」
そうなのかと話を終わらせればいいのに、疑問をぶつけると女の子は、感情のこもらない目で、無表情で答える。
「泣きたいことはたくさんあるけど、泣きません。もし泣くなら、誰にも声をかけられないようなところで泣きます。布団の中とか。」
「布団の中でも泣き声とか聞こえることもあると思うけど。」
「私、泣き声をあげずに泣くことが特技なんです。」
いやそんな特技、自慢にならないだろう。それに泣き声をあげずに泣くなんて、そうそうできることじゃないだろう。うーむ。
「えっと、つまり慰められたくないってこと?」
「慰められても問題が解決するわけじゃないですから。それと一緒で、泣いて問題が解決するわけじゃないですから。」
うーん。泣こうが話を聞こうが問題が解決しないなんて、相当複雑な悩み事だなぁ。
「君は、その悩みを解決できるめどは立っているのかい?」
「あなたは親切だけど馬鹿ですね。」
馬鹿にした感じもなく淡々と事実を述べられた。一回りも年下であろう女の子に馬鹿にされるなんて。でもここで怒ったらだめだ。やさしく、やさしく。落ち着け、自分。最近の若い子は何するかわからないからな。
「人が心配してるのに馬鹿はないと思うぞ。」
ちょっとおちゃらけた感じに言うと、
「もし、自分で解決するめどが立っていたら、あなたに心配されないし、ここにいません。いたとしても、川に向かって、『やるぞー』って叫んでます。」
いや、きっとこの子は叫ばない。そんなタイプじゃなさそうだし。
「そ、そうか。じゃあ、何を落ち込んでいるんだい?」
「・・・」
「まあ、そんなに複雑な悩みを他人にほいほい話すことはないとは思うけど、他人だからこそ話せるってこともあるだろう。まあ、他人すぎて怪しいといわれてしまえばそうなんだけど、ここで」
「・・時に泣きたいと思いますか?」
「会ったのも・・えっ?」
「いつ、泣きたいと思いますか?」
ちゃんと話を聞けよ的な感じで、言葉ごとに切りながら質問を繰り返す。
しかし、この子、人の話を遮るのが癖なのか?せっかく自分が説明してるのに。話を最後まで聞けって小学校の時に先生に教わらなかったのだろうか?それとも。
「話、聞く気がないなら、いいです。」
「いやいや聞くよ。いや、聞いているとも!!」
自分の思考に入り込んでいたとは言えない。話を聞いたのはこちらなのだから。
「えーっと。いつ泣きたいと思うか、だったよね。そうだな。彼女に貢いでいたのにあっさり振られたときとか、あとは・・・。そうだ。今日、ちょっとしたミスをしてね。それで部長に怒られたんだ。泣きたいと思ったよ。」
その返事を聞くと女の子は「はあ」と割と大きめなため息をついた。
「なんだよ。大人には大人の悩みってもんがあるんだよ。」
「そうですね。悩んでるときは、周りがどう思おうと悩んでるんですもんね。大きいも小さいもないですよね?」
なんだか馬鹿にされている。それに彼女の方が大人な感じがする。
「そうなんだよ。悩んでるときは真剣なんだよ。で?君はどんな時に泣きたくなるんだい?」
「そうですね。毎日、『死ね帰れ消えろ』って言われて、持ち物隠されたり、壊されたり、こそこそと悪口言われたり・・・まあ、私の一日の中で、泣きたくなると思うことはたくさんあります。」
「それは、いじめにあっているってこと?」
「さぁ、どうでしょう。私はそう思うけど、相手はどう思っているか知らないし。」
「いや、他人の僕が聞いてもそれはいじめだと思うよ。」
「でも、先生は、思ってないみたいですよ?思っていても、知らないふりをしてる。それはもう思ってないのと一緒です。」
「親には?」
「そんなの、私はいじめられてます。なんて言えと思います?・・・・・子供には子供の悩みってもんがあるんです。」
・・・なるほど。これは深刻だ。どう話を持って行ったらいいのだろう。そんな僕を差し置いて女の子は話を切り上げた。
「まあ、あなたは、他人ですから。これ以上話しても気持ちが落ち込むだけですよ。でも、話を聞いてくれたお礼に泣かないコツを教えてあげます。泣きたくなったら違うことを考えるんです。夜ご飯なんにしよう、好きな歌の歌詞とか。両手をグッと握り締めてね。そして目をいっぱいに開いて視線を斜め上にあげるんです。そうすると、泣きたくてしょうがなくて涙がこぼれそうでも、何とか我慢できる。そうしてるとふとしたきっかけで、心が冷めていきます。で、涙が引っ込む。三か月ぐらいすると泣きたいときに手を握り締めて我慢すれば、涙が出てこなくなりますよ。これができると声を出さずに泣くこともできるようになりますよ?副作用としては無表情が常になっちゃうことだけどね。」
そういって女の子は、いたずらっぽく笑った。そして踵を返して去って行った。一回だけ見せた笑顔は、心からの笑顔だったと思う。もう二度と会うことはないだろう女の子は、まるで幻のように僕の前から消えていった。
僕は一人河川敷に残されて沈みゆく夕日を見つめていた。
彼女の悩みに比べれば、僕の悩みはなんてちっぽけなんだろう。あの子の憂いが晴れますように。
泣きたいときに泣くことだって必要だと思う。あの子は、泣き方を忘れてしまったのだろうか。泣いて前に進めるのなら、いくらだって泣けばいいのに。彼女に伝えれば良かったなぁ。
そんなことをを思いながら、足を踏み出した。
二日後、中学生の女の子が学校で自殺を図ったとニュースで報道された。テレビ画面に映る学校から出てくる女の子たちの制服は、河川敷であった女の子が着ていたものと一緒のものだった。
この物語は、いじめを肯定・助長する意図はありません。