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少女神官の勇気

作者: 上杉蒼太


     少女神官の勇気


 古城塞都市・ルベルの北側を貫く木工職人通り。

 その名の通り木を材料に色々なものを制作する職人が集まる

緑豊かな街路を、あまり人相の良くない男が逃げていた。

 目を血走らせ、罪の無い通行人を容赦なく突き飛ばし、息も

上がりそうになりながら、男は走り続ける。

 もし足を止めたならば、その瞬間には全て終わる。

 恐怖が心を支配し、酒に溺れて不摂生な体を突き動かす。

 捕まりたくなかった。

 なぜなら自分を追いかけているのはルベルのヴァルネス神殿

でも一番恐れられている……。

「待て! 止まらないと<実力行使>するぞ!」

 紅のマントを翻して走り続けながら、エレン=フィッツロイ

は街路中に響き渡る大声で呼びかけた。

 色白な肌に活気に満ちた茶色の瞳、そして軽く束ねただけの

薄金色の長い髪。

 武骨で機能一辺倒の神官服に軽量のアーマーを纏っていても

魅力的な少女だったが、今現在彼女の頭の中を占めているのは

逃げ続ける連続窃盗犯を捕らえる事だけだった。

「逃げるならばこっちにも考えがある! 大人しくしろっ!」

 形のよい唇から出る言葉は、警察でもあるヴァルネス神殿の

神官戦士のものだった。

 あまりの違和感に、木工職人通りの通行人たちは足を止めて

奇妙な捕り物を見つめていたが、エレンが足を止めた瞬間。

 皆顔色を変えてその場から逃げ出し、物陰に隠れた。

 <触らぬエレンに祟り無し>

 ルベルの住民ならば誰でも知っている合言葉を思い出したか

らだったが、連続窃盗犯はなおも逃げ続ける。

 半ば本能的な逃亡劇だったし、何をされるか分からない以上

足を止めるわけにもいかなかった。

「逃げるとはいい度胸だぜ。いくぞ! 食らえ、神罰!」

 周囲の逃げまどう通行人たちにも構わず。

 少女神官は口の端に自信に満ちた笑みを浮かべて、短い祈り

の言葉を唱えた。

 同時に胸の前で組んだ両手を一気に突き出す。

 その瞬間、ヴァルネス神の<奇跡>の力が発動した。

 周囲の空気が圧縮されて少女の両手に集まったかと思うと、

見えない矢となって解き放たれたからだった。

 神官戦士の基本攻撃魔法<風の一矢>。

 普通ならばそのまま目的に向かって一直線に飛んで行くだけ

だったが、エレンのそれは少し違った。

 周囲の空気を巻き込んで一気に巨大化したからである。

 ただの矢が、地面と平行して飛ぶ小さな竜巻に成長するまで

あっと言う間の出来事だった。

 逃げる窃盗犯は何が起こったのか分からないままその渦に飲

み込まれたが、それだけでは終わらなかった。

 近くで店を出していた簡素な作りの露店も巻き込まれてしま

ったからである。 

 間一髪難を逃れた主人の目の前で、エレンの起こした竜巻に

よって原形を失い、ばらばらになっていく。

 その一部は哀れな窃盗犯にも命中し、何とも表現しがたい悲

鳴を街路に響かせる。

 突然現れた竜巻が消えたのは、直後の事だった。

 宙に浮いていた窃盗犯は突然浮力を失って地上に落下し、そ

の痛みを感じる間もなくかつては露店だった瓦礫に直撃されて

完全に気を失ってしまう。

「これで一丁上がり、だな。後はしょっ引くだけだ」

 魔法を放つ姿勢を解いて、エレンはやんちゃな少年のように

笑った。

 ようやく捕り物が終わった事を悟った住民たちが恐る恐る物

陰などから出てきた事に気づくと、片目を閉じて言い切る。

「もう大丈夫だぜ。連続窃盗犯はあたしが捕まえたんだ。今夜

 から枕を高くして寝ろよ。……さてと、逮捕逮捕っと」

 <あんたがいるから枕を高くして眠れないんだ>と言いたげ

な住民たちの空気に気づいているのか気づいていないのか分か

らなかったが、エレンは最後の仕上げをする為に歩き出す。

 その歩様はいつも通り、自信に満ちたものだった。


ルベルのヴァルネス神殿は、街のほぼ中央付近……街領主の

館のすぐ近くに存在する。

 警察も兼ねているその建物の一角で、街北部の治安責任者で

あるシュルツ副神殿長は頭を抱えていた。

「連続窃盗犯は捕らえたのですが、例によって例のごとく巻き

 添えが発生して苦情がきています。今回は露店が一軒壊され

 たそうです」

「露店一軒で済んだんだな?」

「はい。……まあ、不幸中の幸いというべきか……」

「馬鹿者! 街を守るヴァルネス神の神官戦士が住民の財産を

 破壊してどうする! 今すぐエレンを呼べっ!」

「分かりました」

 副神殿長の大声を、報告役の神官長は平然と受け流すとその

まま退室して行った。

 殺意すらも込めた目でそれを見送ったシュルツだったが、や

がて椅子に背中を預けて大きく息を漏らす。

 またあいつか……。まったく、優秀な事は優秀なんだが、犯

罪者にまるで手加減しないのは問題だな。さらに言うならば巻

き添えも多過ぎる。

 <犯罪者に人権は無い>というのが基本的な考えとはいえ、

エレンが逮捕してくる犯罪者が無傷だった事は無かった。

 よくて軽傷、悪ければ即座に治療所送りだったからである。

 しかし逮捕率が一番いいというのが問題だな。他の連中が無

能というわけじゃない。エレンが優秀過ぎるんだな。

 扉の外から声が聞こえてきた。

 考え事を中断して呼びかけると、薄金色の髪がよく目立つ少

女神官戦士が部屋に入ってくる。

 外見からは想像もつかない程身体能力は高く、信仰心の篤さ

と正義感の強さも申し分無かったが、シュルツはある決断下さ

ざるを得なかった。

「エレン、大事な話がある。心して聞いて欲しい」

「はい。シュルツ様」

「今から一週間、休暇を命じる。この神殿にいてもいいが、捜

 査などには一切関わるな。分かったな?」

「休暇……? 待って下さい。一昨日発生した強盗事件の捜査

 があります。あれはあたしの担当じゃないんですか?」

「その件についてはドルムントに任せる事にした。エレンはし

 ばらく休むといい。休暇も取らずに働き続けているからな」

「待てよ! どうしてあたしを外すんだ!?」

 突然、エレンが大きくを身を乗り出してきたので、シュルツ

は反射的に体をのけぞらせた。

 間近で見ても、ヴァルネス神殿の神官戦士には見えない程の

美貌だったが、目をつり上げていては魅力も半減だった。

「あたしの成績が悪いなら分かるぜ。でもあたしは一番成績を

 上げてるはずだ。それでも休ませるのか!」

「ま、待て……。上司に向かって男言葉は無いだろう?」

「そういう問題じゃないぜ。あたしを外すならちゃんと理由を

 説明してくれなきゃ困るぜ」

「だったら説明しよう。……これは命令だ!」

 仰け反った体から振り絞られた大声は、エレンの両耳を正確

に直撃した。

 思わず耳を押さえて下がってしまったが、そこにさらに追い

打ちをかけられる。

「私が命令するまで休め! 話は以上だ! わかったな!」

「そんなのありかよ……」

「話はそれだけだ。下がっていいぞ」

 取り付く島も無いとはまさにこの事だった。

 なおも顔全体で不平と不満を表明していたエレンだったが、

シュルツが頑固な容疑者を取り調べる時と同じ表情を浮かべる

と、「わかったよ。勝手にするぜ!」と言い捨てて部屋から飛

び出して行った。

「……よろしいのですか? 本当に」

 扉を開けた途端、エレンとぶつかりそうになった神官長が心

配を隠せない様子で尋ねてくる。

「よくはない。しかし、何かきっかけが必要なのだ。彼女が本

 当に優秀な神官戦士となる為のきっかけが……」

「もしかすると、どうにもならなくなって休ませたのではあり

 ませんか?」

「……」

「否定して下さい。副神殿長ともあろう方が」

 シュルツが沈黙の檻の中に逃げ込んだので、神官長は武骨な

外見に合わない溜息を漏らした。

 優秀なのにも関わらず暴走する少女神官・エレンの存在はル

ベルのヴァルネス神殿における最大の問題点だった。


 ふと気がつくと、道の奥から差し込んでくる日差しが赤みを

帯び始めていた。

 ルベルでも一番賑わう西の市場の雑踏の中を歩きながら、エ

レンは空虚な心を持て余していた。

 どうなってるんだ?急に休めなんて言われても困るだけだ。

一昨日の強盗事件もろくに調べてないっていうのに……。

 突然与えられた<休み>だったが、正直何をしていいのか分

からなかった。

 とりあえず市場を回って、掏摸の一人でも捕まえようと思っ

てみたものの、こんな時に限って掏摸どころか万引きすらも出

なかった。

 ……仕方ない。あそこに行ってみるか。しばらく行ってない

し、神殿長様にも挨拶するか。

 人込みに流されながら露店に並ぶ品物を眺めていたエレンだ

ったが、やがて意を決して歩き始めた。

 人の流れに逆らいながら細い道に入ると、次の大通りに出て

そのまま西日を眺めながら進んだからである。

 目的地のテーレウス神殿は、通りの突き当たりにあった。

 威容を誇るヴァルネス神殿とは違って、太陽母神を祭るそこ

は周囲の住宅に馴染むようにして建っていた。

「いつ来ても地味な場所だな……。ま、ここでは信者も少ない

 から仕方ないか」

 頭に手をやりながらつぶやくと、軽い足どりで門をくぐり神

殿の内部へと足を踏み入れていく。

 思った通り参拝客の姿も無く、正面奥に飾られたテーレウス

神の像も夕光を浴びてわびしく見えた。

 寂しいよな……ってヴァルネス神殿の神官戦士の言う事じゃ

ないか。でも、あたしはここで育てられたからな。

 そのまま神像の前まで進み出ると、かつてしていたように頭

を下げて祈りを捧げる。

 正義ある闘いを司る神に仕える身でも、<全ての母>に対す

る敬意を失った事は無かった。

 後ろでかすかな声が上がったような気がして、エレンはすぐ

に振り向いた。

 西日の差し込む出入り口に、人影が立っていた。

 よく目立つ栗色の髪に、小柄な体をテーレウス神殿の巫女服

で包み込んだその少女は……。

「ルイーズか。久しぶりだな」

「エレン?どうして貴方がここに?」

「ちょっと休みを貰ったから来てみたんだ。相変わらず人の来

 ない神殿だよな」

「貴方の所と一緒にしないで。これでも一生懸命布教している

 んだから。……でも、立派になったわね。噂は聞いてるわ」

 ふっと表情を緩めて、ルイーズ=リーニュは言った。

 薄桃色のベールで半分覆った髪が残光を浴びて輝く。

「神殿で一番犯人を捕まえているそうね。孤児院の<仲間>と

 しては鼻が高いわ」

「でも、休まされる事もあるんだぜ。働き過ぎだってさ」

「え? どうして……?」

「さあな」

 もう一度テーレウス神の像を眺めてから、エレンは踵を返し

てルイーズの元に歩み寄った。

 きゃしゃな肩に手をかけて言い切る。

「というわけでしばらく世話になるぜ。異論は無いな」

「そ、そんな急に言われても困るわ。こっちにも都合があるん

 だから」

「寝る場所なら心配いらないぜ。あたしの部屋、まだ空いてる

 だろ? そこに居候させてもらうぜ」

「勝手な事言わないでよ」

 振り切るようにして、ルイーズはエレンから離れた。

 目をつり上げ、怒ったような口調で反論する。

「貴方はもうここを出た身なんでしょう? なのに都合が悪く

 なると戻って来るなんて。勝手じゃないの?」

「少しぐらいいいだろ? 神殿に寝泊まりしてるからあそこに

 いると休んでいられないんだ」

「でも……」

「わかったよ。直接神殿長様に掛け合うよ。許しが出たら居さ

 せてもらうからな」

 相手の返事を聞くよりも早く、エレンは歩き始めた。

 自分の話をほとんど聞いていない事にすっかり腹を立ててい

たルイーズだったが、居住殿の方から神殿長のジュルメーヌ=

アルゼンが歩いて来たので、表情を元に戻した。

「あら、久しぶりね。エレン。今日はどうかしたのかい?」

「神殿長様。ちょっと頼みがあります。あたしをしばらくここ

 に泊めさせて貰えませんか?」

「いいけど……。どうかしたのかい?」

「しばらく休むように言われたんです」

 高位の巫女でもあるアルゼン神殿長の顔に、かすかな驚きと

困惑が同時に浮かんだ。

 しばらくの沈黙の末に、探るように口を開く。

「……ならば頼みたい事があるんだけど、いいかい?」

「はい。神殿長様の頼みならなんでも」

「まずはこれを見ておくれ。ルイーズ、貴方もよ。怒ってる場

 合じゃないんだよ」

 アルゼンの言葉に、不思議そうな表情を浮かべたエレンだっ

たが、受け取った手紙を一読して。

 顔色を変えた。

「拝殿のテーレウス様の像を盗む!? しかも今夜……!」

「どういう事なんです!? 大事なご神像を盗み出すなんて!」

「窃盗の予告状らしいね。最近はこんな大胆な事をする泥棒も

 いるのかい?」

 少女たちとは対照的に、神殿長は落ち着いていた。

 しかし、直情的なエレンの心は既に新たな敵の出現にすっか

り燃え盛っていた。

「初めてだな。こんな手口を使う奴なんて聞いたことないぜ。

 予告してきたのは<怪盗・紅風>か。くそっ、一度神殿に戻

 って……無理だな。休みって事になってるからな」

「神殿長様、まさかエレンに頼みたいっていうのは……」

「神像の警備だよ。一人でも十分だと思うけどね」

「無理です。ヴァルネス神殿に通報して人をよこして貰うべき

 です」

「その心配はいらないぜ。あたしが警備するからには絶対に守

 ってみせるからな」

 ルイーズの言葉をさえぎって、エレンは自信に満ちた表情で

言い切った。

「こう見えても盗賊逮捕はお手の物だぜ。奴らの手口なんてた

 かが知れてるからさ」

「エレン……」

「だったら頼んだよ。もし必要なものがあったらなんでも言っ

 ておくれよ。私にはそれしか出来ないけどね」

「ああ。後で言うよ。まずは部屋で休ませてくれないか?」

 神殿長は何も言わずに頷くと、ルイーズに案内するように命

じて、そのまま立ち去って行った。

 その後ろ姿に、夕方の赤い光が弱々しく寄り添う。

「……変わってないな、アルゼン様も」

「そうかしら? 今日はずっと様子がおかしいのよ。貴方が来

 たからなおさらね」

「人を疫病神扱いするなよ」

「似たようなものでしょう? それより、案内するからついて

 来て。どの部屋に泊まったらいいか分からないでしょう?」

 たおやかな外見からは想像もつかない程、言葉尻のきついル

イーズに促されて、エレンはしぶしぶ従った。

 それでも、心の中では今夜の盗賊退治の為の作戦を考え始め

ていたのだった。


 吹き続けていた夜風が、息を潜めるかのように凪いだ。

 それに気づいて、テーレウス神の神像の前に座り込んでいた

エレンはわずかに眉をひそめると、剣の柄を握る手に一段と力

を込めた。

 そろそろだな。間違いない。人もすっかり寝静まった頃だ。

ちょっと音をたてても誰も気づいたりしないからな。

 警戒しながら、ゆっくりと辺りを見回す。

 夜になる直前からずっと張り込んでいたので、どこに何があ

るのか、昼間のように分かったが、少女神官戦士はそれでも満

足していなかった。

 油断できないな。<紅風>なんて盗賊は聞いた事が無いし、

言っちゃ悪いけど、この神像には大した価値なんて無い。きっ

と他に狙いがあるはずだ。

 エレンが一番気にかけていたのは、まさにその点だった。

 何らかの<罠>が張られている事は確信していたが、誰が何

の為に仕組んだのかは皆目見当がつかないままだった。

 なに、きっと突き止めてみせる。この神殿はあたしが生まれ

変わるきっかけを作ってくれたんだ。絶対に汚させたりしない

からな。

 ふと、ルイーズのことが心に浮かぶ。

 訳あってこの神殿付属の孤児院に入ったエレンが最初に仲良

くなったのが、病気で両親を失ったルイーズだった。

 あの頃から顔に似合わず過激だったな。でも、あたしの事を

いつも気づかってくれて。だからあたしはヴァルネス神殿の神

官戦士になれたようなものだ。でも……。

 剣を握りしめる力が少しだけ緩んだ。

 ヴァルネス神殿の同僚や上司、そして犯罪者には決してみせ

ない弱気に満ちた表情で俯くと溜息を漏らす。

 言えないよな。あたしの<過去>なんて。アルゼン様にもシ

ュルツ様にも話してないんだ。それに、この事を知ってるのは

今はあたしだけ。今更言えるわけが無い……。

 一度完全に凪いだはずの風が再び、吹き始めた。

 その中に人の気配を感じた瞬間、エレンは弱気を全て吹き飛

ばすと当たりをの様子を窺った。

 すぐに、正門に通じる出入り口付近に人影が立っている事に

気づく。

 わずかな光に浮かぶその姿は、若い男のように見えたが、顔

は覆面をしているのか判別できなかった。

「誰だ!」

「一人だけか……。舐められたものだな。俺は怪盗<紅風>。

 そこにあるテーレウス神像は頂く!」

「させるか!」

 吐き出された言葉が闇に散るよりも早く、エレンは行動を起

こしていた。

 剣を抜き払うと、そのまま一直線に謎の男……怪盗<紅風>

へと突撃して行ったからである。

 一見すると力任せに突っ込んでいるようにしか見えなかった

が、少女の瞳は怪盗の姿を捕らえ続けていた。

 真っ直ぐに突っ込めば左右どちらかに避けようとするはず。

しかしあたしはすかさず踏み込んで一気に仕留める。真っ直ぐ

突き進むだけが能じゃない!

 まるで金色の風のように突っ込んで来る少女神官戦士に驚い

たのか、怪盗は慌てて右側に回避した。

 相手が罠に落ちた事を確認して、エレンは内心勝利を確信し

ながら剣を叩きつけようとしたが……。

 次の瞬間。

 怪盗の姿が視野から消えた。

 剣は完全に空を切り、石造りの床とぶつかって火花と甲高い

金属音を散らしたが、動転したエレンは何が起こったか確かめ

ないまま怪盗の姿を探す。

「なっ……!」

 倒すべき敵の姿はすぐに見つかった。

 さっきまでエレンが座り込んでいた場所に立ち、悠然とテー

レウス神の像に手をかけていたからである。

「甘いな。お前の動きは見切っていた。その程度の動きでは俺

 を捕まえる事などできない」

「馬鹿にする……な!」

 挑発的な盗賊の言葉に、エレンの全身の血が沸騰したのはそ

の時だった。

 一瞬の内にヴァルネス神への加護の祈りを終えると、再び剣

を構え直して突っ込んでいったからである。

 常人ならば回避するのは難しい、まるで疾風のような攻撃だ

ったが、怪盗はまるで風に舞う木の葉のように避けてみせる。

「動きが丸見えだ。噂よりも大した事は無いな」

「なんだと!? こうなったらお前だけは絶対に倒す!」

 攻撃を避けられたとはいえ、さっきよりも間合いが詰まった

事を確かめて、エレンは攻撃方法を変えた。

 剣を構えながらも、相手に対して円を描くようにして間合い

を詰めたからである。

 素早い動きで死角を突き、相手を確実に仕留めるつもりだっ

たが、怪盗は相手にしたりしなかった。

 覆面からわずかにのぞく目だけで笑うと、テーレウス神像を

掴んで、そのまま真上へ逃れたからだった。

「なっ……!」

 エレンが驚きの言葉を漏らした時には遅かった。

 怪盗は狙った品物を手に入れて、天井と壁の間を貫く柱を足

場にしていたからだった。

 どう考えても、普通の人間の動きとは思えなかった。

「お前、まさか魔法使いなのか!?」

荒れてきた呼吸を整えることなく、少女は叫ぶ。

 愛用の剣をなおも構え、瞳には激しい感情が宿っていたが、

怪盗を捕らえる機会を逃したという事実が重くのしかかりつつ

あった。

「オレは魔法使いなんかじゃない。ただの盗賊だ。しかし、面

 白い事を知っているので教えてやろう」

「何が言いたい!」

「今から五年ほど前の話だ。この街を<金色の悪夢>と呼ばれ

 た怪盗……いや、強盗が荒し回ったことがあった」

 突然。

 エレンの瞳から光と感情が消えた。

 剣の切っ先が細かく震え、構えも崩れていく。

「そいつは一人だけだったが、手口は荒っぽいものだった。目

 についた家に押し入っては金品を奪い、家人に見つかると片

 っ端から傷つけた。そいつはいつも鮮やかな金色の髪を揺ら

 していたからいつしか<金色の悪夢>と呼ばれるようになっ

 た。しかし……そいつはある時突然姿を消した」

「……言うな。それ以上、言うな……」

「それと同時に、この神殿に付属する孤児院に一人の少女が保

 護された。金色の髪を持ち、罪を犯す人間を憎む正義感厚い

 その少女の名前は……」

「言うなぁぁ!」

 口では叫びながらも、エレンは剣を落としてその場に崩れ落

ちていた。

 心の奥に封じてきた悪夢のような日々が一気に蘇り、地獄の

業火の如き罪悪感が全身を焦がす。

「<金色の悪夢>の正体を知っているのはお前だけではないと

 いう事だ。このテーレウス像は頂いていく。お前のような罪

 深い神官戦士が守るようなものではない」

 生きる価値の無い命を見下ろすかのような強烈な軽蔑を最後

に残して。

 怪盗<紅風>は闇の奥へと姿を消した。

 しかし、かつて<金色の悪夢>という二つ名を持っていた少

女は、何もできずにただ自分の罪を受け止めているのだった。


 無造作に振り下ろされた剣に斬られて、年老いた男性が床に

崩れ落ちた。

 致命傷は負わせていない。

 しかし、傷口からは鮮血が吹き出し、男性の口からは苦痛に

まみれたしわがれ声が洩れる。

「大人しく出さないからこうなるんだよ。ヴァーユ様にでも許

 しを得るんだな」

 戸棚の裏から男性が差し出したなけなしの蓄えに左手に持ち

ながら、エレンは毒づいた。

「ヴァーユ様は寛大だぜ。泥棒だって守ってくれるんだ。だか

 らあたしは活動してる。これは布教活動の一種だな」 

 返事は無い。

 老人は床に転がって、傷口を手で押さえていたが、吹き出す

血が新たな痛みをもたらし、意識が混濁しているようだった。

「残るのは奥の部屋だけだな。何も無いとは思うけど、家捜し

 だけはさせてもらうぜ」 

 剣と銀貨の袋を持ったまま、蹴りで扉を開け放つ。

 寝台が二つ入れば一杯になるような小さな部屋だったが、そ

こには人がいた。

 一人分の粗末な寝台に横になった少女だった。

 突然の闖入者にも驚く様子をみせず、何かを訴えかけるよう

にエレンを見据えてくる。

「まだ人がいたのかよ。何だ? じじいの娘か?」

 少女は答えなかった。

 かつては健康的だったはずの薄い小麦色の肌は弾力を失って

荒れ果て、茶色の髪も縮れて、正視できそうにない。

 それでも、黒茶色の瞳だけは自分の命の在り処を現すかのよ

うに光を湛え、<金色の悪夢>と呼ばれる少女も少しだけ息を

呑む。

「何が言いたいんだ? 有り金があるなら大人しく出せよ。あ

 たしは女に興味なんか無いぜ」

「……貴方は、何をしたのです?」

 喉の奥から絞り出すような小さな声。

 かつては明朗に響いたはずだったが、今では小さな部屋の空

気を震わせるのにも苦労しているように思えた。

「何をしたかって? 決まってるだろ? 有り金を残らず頂い

 てたんだ。そこにいたじじいなんか抵抗するから斬ってやっ

 たんだ。お前も同じ目に遇いたいか?」

 言い切って、エレンは右手に持ったままの剣の先を寝台の少

女に向ける。

 自分と同い年ぐらいに見えたが、傷つけるのを躊躇う理由は

まったく無かった。

 少しでも反抗的な素振りを見せたら罰を与える。

 それが<金色の悪夢>エレンの主義だった。

「ならば、お願いします」

 しかし、決して崩れないはずの主義は、死出の旅路に向かい

かけている少女によって簡単に崩された。

「見て分かる通り、私はもう長くありません。おそらく、後一

 月もすれば冥府のファドル様の元に行く事になります。なら

 ば、今の内に止めを刺して下さい」

「なっ……」

「私はかつて、貴方の敵であるヴァルネス神殿の神官戦士の見

 習いでした。ヴァルネス様はこう言われていました。どうに

 もならない時は、運命に身を委ねよ、と」

「まさか、ここであたしが斬り殺すのがお前の運命だと言いた

 いのか?」

「その通りです。ようやく、楽になれます。私の病気は神々の

 奇跡でも直せないものなのです」

 言い切った瞬間、病床の少女は笑った。

 既に覚悟は出来ている、と言わんばかりに。

「貴方ならば出来るはずです。貴方はどうやら躊躇い無く人を

 斬れるようですね。だったら、斬って下さい。そして、私の

 命を終わりにして下さい」

 エレンの心が震えていた。

 生まれてから感じた事の無かった程の恐怖が広がり、剣の先

が細かく震える。

 生きる事に執着する人間ならば斬るのは簡単な事だった。

 自分の圧倒的な優位を十分に確かめてから、笑って剣を振り

下ろせばいい。

 しかし、目の前の少女はその命を投げ出す事によって、エレ

ンの立場をいとも簡単に崩してしまったのだ。

 込み上げてきた驚怖は、<弱い>他者を踏みつける事によっ

て自分が生きてきた事を知らされた事に起因していた。

「お願いします。私を殺して下さい。死ねばファドル様の許し

 を得てヴァルネス様の許にも行けます。そうすれば、もう苦

 しまずに済むのです。お願いします……」

 剣を握る力が無くなりつつあった。

 奪い取ったばかりの銀貨入りの袋が床に落ちて、小さな音を

たてたが、それがエレンの心を刃となって斬り裂いた。

 自分でも何が何だか分からないまま、いきなり少女の元から

逃げ出したからである。

 <金色の悪夢>という二つ名や、弱者をいたぶり生きる自分

からも逃げたかったのかもしれない。

 気がついた時には、決して近寄ろうとはしなかったテーレウ

ス神殿の神像の前で倒れていたからだった。

 そこを保護してくれたのが、孤児院にいた少女・ルイーズで

あり、神殿長のアルゼンだった……。


「ねえ、エレン。どうして黙ってるの? 話してくれたってい

 いじゃない」

「うるさいな。何度も言ってるだろ? 怪盗の奴に気絶させら

 れて何も覚えてないって」

 執拗という言葉がよく似合うルイーズの追及を受け止めなが

ら、エレンは久しぶりに寝台の上に体を起こした。

 怪盗から告げられた言葉、そして気を失っている間に夢で見

た昔の出来事に苦しめられて、さすがの少女神官戦士も体を満

足に動かす事はできなかった。

 ……どうなってるんだ? なんであいつはあたしの過去を知

ってるんだ? 誰も知らないはずなのに……。

「エレン、聞いてるの!?」

「聞いてるって言ってるだろ? そんなに大声を出すなよ。あ

 たしは病人だぜ」

「その原因が分からないから困ってるんじゃない。原因が分か

 らなくてはテーレウス様でも治療は出来ないわ」

「テーレウス様なら何でもお見通しだろ?」

「屁理屈を言わないで。今日は事情を話さない限りここを動く

 つもりはないわよ」

 テーレウス神殿の一角にある小さな部屋。

 寝台と粗末な机と椅子しかないそこに、エレンは担ぎ込まれ

て療養させられていた。

 なぜかアルゼン神殿長が姿を見せないのは気になったが、代

わりにルイーズに張りつかれて、正直辟易していた。

「アルゼン様がおかしな事をおっしゃられていたのよ。貴方の

 事は貴方が一番分かる。直し方も知ってるはずだって」

「アルゼン様が?」

「そうよ。どうも最近おかしいのよね。この前盗賊に神像を盗

 まれたのにヴァルネス神殿に届けてもいないのよ」

「そんな恥さらしな真似が出来るかよ」

「アルゼン様らしくないじゃない」

 ルイーズはいつになく興奮していたが、それに反比例するか

のようにエレンの心は醒めていく。

 一度起こした体を再び横たえると、目を閉じたからである。

 やっぱり罠だったんだな。怪盗はあたしの過去を知っていた

から予告状を出したんだ。でも、釈然としないのはなぜだ?

 理由はすぐに浮かんだ。

 神像を盗んで得するとは思えないのと、アルゼンの不明瞭な

態度だった。

 どうもアルゼン様は何か知っているような気がするな。そう

でなきゃ今になっても姿を見せないのはおかしい。でも、怪盗

と結託してるなんて……。

 それが一番信じられなかった。

 アルゼン神殿長は人格も円満で、<金色の悪夢>としての過

去を捨てた自分にも、まるで本当の母親のように接してくれた

程だった。

 全てお見通しだった、とは考えられないか? でもアルゼン

様があたしの過去を全て知ってるとは思えないな。だいたいあ

たしがあの少女に会った事を知ってるのは、あたしとあの時斬

ったじじいだけだ。まさか、じじいがアルゼン様の知り合いと

いう事なのか……?

 テーレウス神に仕える巫女らしさを取り戻したルイーズの声

が聞こえてきた。

 また猫を被ってるな、と下らない事を考えていると聞き慣れ

た野太い声が聞こえてきて、エレンは目を開いた。

「シュルツ様……?」

「久しぶりだな、エレン。具合はどうだ?」

 神官戦士らしい強固な体に、剃り上げた頭、そしていかつい

顔立ちの副神殿長は珍しく穏やかに笑っていた。

「あ、申し訳ありません。今起きます」

「無理はしなくてもいい。話はアルゼン様から聞いた。謎の怪

 盗にやられたそうだな」

「はい……。情けない話、全然でした。あたしはまだまだ修行

 が足りないようです」

「それが言えれば上等だ。確かにお前は修行が足りない」

 控えめに言ったはずの言葉を正直に返されて、エレンは内心

むっとした。

 神殿で一番優秀な神官戦士としての誇りが傷ついたような気

がしたが、シュルツは淡々と言葉を続ける。

「剣の腕前、そして信仰心。お前には優れた一面が沢山ある。

 しかし、どうにも足りない部分もある。これを機会にそれを

 考えてみるのだな」

「あたしに足りない点がある? それは……」

「自分で考える事だ。私は手出ししない」

 蚊帳の外に置かれた形になったルイーズが複雑そうな表情を

浮かべていた。

 何かを悟ったものの、言えずにいるようなもどかしさが感じ

られて、エレンは次第に腹が立ってくる。

 なんだかあたしだけが除け者にされているみたいだな。くそ

っ。ただでさえ苛立っているっていうのに。

「ところでエレン、お前に大事な話がある」

 内心毒づいていると、シュルツが真剣な顔で言った。

 横になったままだったが姿勢を正し、次の言葉を待つ。

「まずはお前の休養を今限りで解く。体調が戻ったらすぐに復

 帰するのだ」

「休養を解く? いいのですか?」

「もっと重大な理由があるのだ。つい先程、神殿に手紙が届い

 た。<今夜、ヴァルネス神殿の神像を盗み出す>。<紅風>

 と名乗る怪盗からの予告状だ」


 夕方になる頃には、体の調子も元に戻りつつあった。

 テーレウス神殿の中庭で、剣の鍛練を終えたエレンは額に浮

かんだ汗を拭うと、階段に腰掛けているルイーズの方を見た。

 シュルツ副神殿長が帰ってから、ぼんやりしたままだった。


「なあ、どうしたんだよ。あたしが急に回復したのがそんなに

 面白くないのか?」

「違うわよ。怪盗の事を考えたのよ。どうしてこんな事をする

 のか気になるから」

「気にしなくてもいいぜ。あたしが捕まえて締め上げてやる」

「相変わらずなのね……」

「これがあたしだぜ」

 言い切って笑って見せる。

 しかし、心の中ではまったく笑っていなかった。

 ……昔と変わらないな。<金色の悪夢>はあの時死んだ。し

かし、今度はヴァルネス様の力を借りて暴れ回ってるだけかも

しれないからな。

 なぜ逮捕の時にあんなに犯罪者を痛めつけるのか?

 簡単な話だった。

 <金色の悪夢>の時と同じように、自分の絶対的な優位を確

かめたいからに過ぎなかった。

 確かアルゼン様から教えられた事があったな。弱い犬程よく

吠えて、自分を強く見せると。あの時は聞き流したけど、もし

かするとあたしの事かもしれない……。

 自分が弱いとは思いたくなかった。

 というより、弱いと生きていけない世界に生まれ、生計を立

てる為に犯罪に手を染めていたのだから、自分の弱さを認める

事は死に繋がりかねなかった。

 ……でも、それが次第に変わっていったんだな。犯罪を犯さ

なくても生きていけるようになったのに、自分の弱さを認めた

くなくて<金色の悪夢>になったぐらいだからな。

「エレン」

「何だ?」

「怪盗を捕まえる自信は……どれだけある?」

「そうだな。十割だな。捕まえて、裁きを受けさせるぜ」

「……」

 西の空から差し込む弱々しい日の光を受けるルイーズの顔は

愁いに満ちていた。

 瞳には何かを責めたてるような光が浮かび、エレンは内心怖

じ気づく。

「そんな顔するなよ。あたしの実力は知ってるだろ?」

「そういう問題じゃないの。……もっと、勇気を持って」

「勇気?」

「エレンは優秀な神官戦士だと思うけど、勇気が足りないの。

 もっと勇気を出して。私には……それしか言えないわ」

「おい、ちょっと待てよ!」

 薄桃色の巫女服を翻し、神殿の中へと消えていくルイーズを

追いかけようとしたエレンだったが、足が動かなかった。

 言葉が楔となって、心に打ち込まれたからだった。

「どういう意味だよ、勇気を出してって言われてもな……」

 つぶやいてみたものの、答えは出てきそうにない。

 重大な意味があるのは分かったが、それをどう生かせばいい

のか見当もつかなかった。

 ……こういう時は動くしかない。見てろよ、怪盗<紅風>。

きっと捕まえてやるからな!

 行き場のない感情をぶつけるかのように、決意を固めている

のだった。


 いつかの夜と同じように、風の無い静かな夜だった。

 ヴァルネス神の像を祭った部屋の中央で、エレンはまんじり

としない時を過ごしていた。

 正直なところ、人間離れした実力を持つ怪盗<紅風>を逮捕

する自信は無かった。

 テーレウス神殿での攻防を何度思い浮かべても隙があるよう

に思えなかったし、何よりも色々と迷っていたからだった。

 ルイーズの奴、なんで勇気を持てなんて言ったんだ? あた

しはいつも勇敢に戦ってるぜ。

 ここまではいつも通りだった。

 しかし、今までと違うのはすぐに弱気の虫が顔を出してきて

全身をはい回る点だった。

 違う。ルイーズが言いたいのはそんな事じゃない。あたしに

何かに気づいて欲しいんだ。でも、それが何なのか分からない

んじゃ……意味無いな。

 すでに夜も更けて、警備に神経を集中しなければならない頃

合いだったが、エレンはひたすら考えていた。

 ルイーズの言葉が何かを暗示してるような気がしたが、どう

しても分からなかった。

 無理してでも聞き出せば良かったか? 無理だな。答えてく

れないだろう。これはあたしが解決すべき問題だ。

 いつもなら警備に当たる神官戦士のいるヴァルネス神殿だっ

たが、この日に限って神殿の周囲は誰も巡回していなかった。

 シュルツ副神殿長の命令によるものだろうが、意図的なもの

である事は明らかだった。

 みんな真実を知ってるのにあたしだけ仲間外れかよ。まった

く、いい度胸してるぜ。

 どうでもいい結論を出して、大きく息を吐いた時だった。

 肌が覚えている気配を感じたかと思うと、開け放たれた出入

り口に人影が立っているのに気づいた。

 見覚えのある覆面は、怪盗<紅風>のものだった。

「そこにいるのは分かってるぜ。まったく、この前と同じなん

 て芸が無いな」

「お前も同じだろう? また剣を構えて突っ込んでくるだけじ

 ゃないのか?」

「ま、そういう事だ。あたしにはこれが一番お似合いだぜ!」

 軽い口調で言いながらも、エレンは剣を抜くと走り出した。

 まずは攻撃を仕掛けて様子を見るつもりだったのだが……。

 怪盗は抜き払った剣で難なく受け止めた。

「今度は避けないのかよ!?」

「俺はこう見えても色々極めているのだ。今日はその力を見せ

 てやろう!」

 軽く力を込めただけで、怪盗はエレンの剣を押し返した。

 慌てて構え直した少女神官だったが、猛烈な風と共に剣が突

き出されて、辛うじて回避した。

「なんだ、今のは……!」

「俺が本気を出せばこんなものでは済まない。どうだ? いた

 ぶられる気分は」

「上等だぜ。相手して……うわっ!」

 いきなり。

 間合いを取っていたはずの相手が目の前に現れた様な気がし

て、エレンは剣を落としそうになった。

 体勢を立て直そうとしたが、その時には剣を首筋に突きつけ

られていた。

「こ、こんなのありかよ……。まるで見えなかったぜ」

「かつて<金色の悪夢>に傷を負わされた普通の人たちはどう

 思ったか分かるか? 絶対敵わない相手になぶられ、傷つけ

 られる恐怖。それを今お前は体験している」

「また過去の話かよ。関係ないだろう!」

「過去があるから今のお前がある。今のお前は神官戦士だが、

 やっている事は過去と変わっていない」

 今度は心に剣を突きつけられた様な気がした。

 怪盗は、全てを見通しているとしか思えなかった。

「弱い人間をいたぶって自分の存在価値を確かめのは人間とし

 としては最低の所業。そんな事でよく神官戦士でいられるも

 のだな」

「くっ……。言いたい事を言いやがって!」

 心を激しく揺さぶられた挙げ句、壊されそうな気がして、エ

レンは必死になって反論した。

 しかし、声は震えて言葉もよく通らなかった。

「あたしにはそれしか方法が無かったからだぜ。みんなやって

 るだろう? あたしだけが特別じゃない!」

「そうだ。しかし、多くの人間はお前の様に卑劣な事はしてい

 ないはずだ。なぜだか分かるか?」

 さらに首筋に剣が突きつけられる。

 首筋に一筋の赤い線が流れ、月の青白い光と混じり合う。

「わ、分からないぜ」

「分からなかったら死んでもらう。俺の本当の目的はお前を抹

 殺すること。お前は多くの人間に恨まれている」

「そうだと思ったぜ。殺すなら殺せ。あたしは何も分からない

 愚かで弱い人間だぜ」

 エレンの口から、開き直りに似た言葉が吐き出されたのはそ

の時だった。

 心の中は真っ白になっていたが、その中をルイーズの言って

いた勇気、という言葉だけが駆けめぐっていた。

 なぜなのか分からない。

 ただの偶然かもしれなかったが、少しずつ気持ちが前向きに

なってきたエレンは次々に言葉を叩きつける。

「人間なんて駄目な生き物なんだ。武器の一つでも無ければ生

 きられないのにそれを隠しているからな。そして、他人に対

 して優位に立とうとする。それがあたしだ。悪いか?」

「悪いな。ヴァルネス神殿の神官戦士にあるまじき悪人だ」

「元から悪人だから今更気にしないぜ。あたしは好き勝手にや

 ってきた。今死んでも悔いなんか……あるぜ!」

 ほんの一瞬だけ怪盗の剣先が離れた事に気づいて。

 エレンは素手で剣を振り払った。

 鋭い痛みが走り、一瞬顔をしかめたが、すぐに構え直すと力

任せに自分の剣を叩きつける。

 確かな手応えを感じると、犯人を逮捕する時のように膝蹴り

を相手の腹部に食らわせ、もう一度剣を叩きつける。

 怪盗は、抵抗しなかった。

 為す術無く受け止めて……床に崩れ落ちる。

 一瞬の逆転劇だった。

「あたしは弱くて卑怯だ。それでも生き続けてみせる! これ

 があたしの答えだ!」

 素手で剣を振り払った傷から血をしたらせながらも、エレン

は心の底から叫んでいた。

 完全な開き直りだった。

 それでも、生まれた時から心の底に淀んでいたとてつもなく

醜い何かがゆっくりと動き、流れ出すのを感じていた。

「弱くて卑怯なのは人間誰でも同じ。だったらあたしは開き直

 って生き続けてやる。怪盗のお前なんかに指図されたりしな

 いぜ!」

 心からの叫びに合わせるかのように。

 外に通じる出入り口から少し強い夜風が吹き込んできた。

 突然の出来事に、エレンは構えを解いて受け止めたが、異変

が起きたのはその時だった。

 倒れたままの怪盗<紅風>の体に風が当たった瞬間、その全

身が細かい砂となって崩れ始めたからだった。

「なっ……。どうなってるんだ!? それに、この気配は……」

 優秀な神官戦士らしく、すぐに感じ取れた特徴ある<気配>

に、エレンはようやく真相に気づいた。

 自分が相手していた怪盗の正体は……。

 間髪を入れず導き出された結論に、少女神官が呆然としてい

る内に。

 怪盗<紅風>だったものは、風に巻き上げられる砂となって

消えていた。

 後に残されたのは、暗い過去を清算しつつある一人の少女と

月明かりだけだった。


「……やっぱり釈然としないぜ」

 市が立って賑わう通りを歩きながら、神官戦士のエレンは今

日何度目かの言葉を繰り返した。

「だって、結果的には騙されたんだぜ。あたしが昔会った病床

 の少女も怪盗<紅風>も、風神ヴァーユ様の変身した姿だっ

 たからさ。れっきとした神様がそんな事をするなよ」

「でも、アルゼン様やシュルツ様の解釈では、ヴァーユ様の兄

 上でもいらっしゃるヴァルネス様が仕掛けを頼んだ事になっ

 ているんだから。ありえるんじゃないの?」

「ヴァーユ様ってそんなに悪戯が好きなのか……? 待てよ」


 不意に、エレンは足を止めた。

 きっとんとした面持ちでルイーズも横に並ぶ。

「あたしは<金色の悪夢>の時にヴァーユ様の名前を使いまく

 ったな。泥棒の神だからさ」

「だから懲らしめたくなったんじゃないの? 神の名を悪用す

 るなって」

「ありえるか……。でも、お蔭であたしは本当の自分を知る事

 が出来たから感謝しないといけないのか」

「素直になったわね、本当に。自分の醜さや限界、実力を知る

 勇気が新しい道を開くのね」

「でも騙されたのはやっぱり釈然としないな」

 再び歩き出しながら、エレンは悪態をついた。

 しかし、その顔は笑っていた。

 勇気と共に自分と向かい合うまでは、自分を笑えなかったが

今では簡単な事だった。

「いつか仕返しをしてやる。死んで天界に召されたらまずはヴ

 ァーユ様に挨拶だな。色々言いまくってやる」

「その点だけは変わらないのね」

「これがあたしだぜ」

 片目を閉じて、自信満々言い切る。

 その影の無い笑顔に、ルイーズは心の中でヴァーユ神の仕掛

けた悪戯に感謝の祈りを捧げたくなっていた。

 ヴァーユ様、貴方のお蔭です。これからもエレンの事を見守

っていて下さい。

 人込みの中でから、荷物を抱えた男が必死の形相で飛び出し

てきたかと思うと、神官たちの前を走り抜けていった。

 追いかける様に「ひったくりだ! 捕まえてくれ!」という

声が飛んできて、すかさずエレンが反応する。

「ちゃんと捕まえるのよ! 乱暴は駄目だからね!」

「分かってるぜ! 待て!」

 心ある正義を執行する人間に相応しい笑みを残して、少女神

官が走り出した。

 その後ろ姿には、少しずつ新たな勇気が宿り始めているのだ

った。


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