第六話:サプリメントの断片
サプリメント【Supplement】
・補足
「望清大学」を後にし、「道楽遊戯」に戻った中道と楽座だったが、結局のところ、分かったのはほんの少しの情報だけだった。一体、伺去祐依は何者なのか、果たして「道楽遊戯」に手紙を出し、中道に相談事を打ち明けたあの伺去祐依と名乗っていた女性は本当に伺去祐依なのか。
「ちょっと待て!」
中道は「道楽遊戯」に入ってすぐに大声を出した。
「びっくりしたぁ……どうしたんですか? いきなり……」
楽座は目を大きくして、本当に吃驚した様子を見せた。
「あたしたち、伺去さんに会ってるんだよな?」
と中道は、楽座の方を見て問う。それに対し、楽座は「はい」と首肯を交えて答えた。
「じゃあ、なんであたしたちは伺去さんの住所をそのときに訊かなかったんだ?」
「それは、単なる訊きそびれじゃあ……」
「あたしたちは、依頼を聴く前に、依頼主から名前と生年月日、現住所を訊くだろう? じゃあ、なんで住所を聞かなかった?」
「だから……ミスじゃあないんですか?」
「陽ちゃん。彼女の依頼のことについてはちゃんとメモ取ってるよな?」
「はい」
「そのメモに伺去さんの住所は?」
「えっと……書いてないですね……あ、生年月日もですね」
「なんか尋常じゃねぇな……こうも訊き忘れってあるもんなんか?」
「でも……いつも依頼者に訊いてることをその時だけ忘れるってことはほとんど……」
「ないよな?」
中道は、「うーん」と考え始めてしまった。何故、いつも仕事柄訊いていることを、そのときだけ忘れることなんてあるのだろうか。
「中道さんらしくないミスですね」
「いや、実のことを言うと、伺去さんに会ったときのことを殆ど覚えてないんだわ」
「え?」
「陽ちゃん、伺去さんが『道楽遊戯』に来て、あたし達に依頼を申し込んだときのこと覚えてるか?」
楽座はしばらく沈黙した後。
「メモにはちゃんと訊いたことの答えは書いてあるんです……けど……彼女にあったときのことは中道さんと同じく、あまり覚えていないんです」
と言った。
「一体、どういうことだ? 時間が一部欠落しているのか? いや――」
記憶の欠落。どうしようもなくもどかしく、どうしようもなく歯痒く、どうしようもなく苛立たしい。
「伺去……一体、何者なん……」
だ。と言いかけた時、中道はふと事務所の隅のほうに置かれている、二人掛けのソファーの下に目をやる。そして、ソファーに近付いてしゃがみ込んだ。身を低くして下を覗き込み、おもむろに手を突っ込んだ。
「中道さん?」
楽座もソファーに近付いた。何かを取ろうとしている中道を見て、少々不思議そうな顔をする。
中道はソファーの下の何かを掴み、手を引き抜いた。その手には小さいスプレー缶が握られていた。スプレー缶には何も書かれておらず、見るからに怪しげで毒々しいイメージがする。
「スプレー缶ですね……中身はなんでしょう?」
中道はスプレー缶の吹き出し口の臭いを嗅いだ。そして、ハッとする。
「催眠スプレーだ。それも強いやつだ……軽く記憶障害を起こすくらいの」
「催眠スプレー? 一体誰が……?」
と楽座は驚いたように言った。そして「一体誰が?」と続ける。
「誰がって……一人しかいねぇだろうが」
中道はスプレー缶を見ながら、楽座に答える。楽座は何かを思い出したかのようにハッとして、
「伺去さん……」
と呟くように言った。
「でも、一体……何故?」
「そりゃあ――あの伺去が伺去じゃねぇってことだろうな。本物の伺去だったら催眠スプレーなんて必要ねぇだろ? 真剣な依頼をしに来たんだからわざわざ自分のことを隠す必要はねぇしな。伺去が偽物だったからこそ、こんな物を使ってあたし達を惑わさせたんだ」
「だから、住所と生年月日を聞き逃し……でも、待ってくださいよ。今までの質問形式は住所や生年月日を訊いた後、本題に入るじゃないですか? 僕のメモには本題の方はちゃんと書いてありますよ?」
「あのな。本題ってのは手紙にも書いてあったんだから、あらかじめ書いておくことも出来んだろ?」
「書いた記憶が……それに伺去さんの容姿については忘れてませんよ?」
「だから、書いた記憶が消えてんのはこの催眠スプレーのショックで忘れてるだけだろ。『伺去と名乗っていたやつ』の姿を覚えてんのは、あたし達の中で『伺去と名乗っていたやつ』を今、まさに探しているからだ。やらなきゃならねぇことは一応記憶は少しだけど残ってんだよ。人間の脳みそ侮るんじゃねぇ」
「じゃあ、『伺去と名乗っていたやつ』は何故、伺去と名乗らなければならなかったんです?」
「考えられることは二つ」
中道は、ドサッとソファーに腰掛けた。そして、続ける。
「一つは『伺去を誘拐しようとした、あるいは誘拐した人物』つまり『犯人』だったから。『犯人』がわざわざ依頼してくるのも変な話かも知れねぇが、だいたい誘拐犯ってのは愉快犯だ。人が焦っているのを端から見て笑うような奴だ。今、あたし達が思い悩んでいるような状態を見て、汚く笑うのが好きなんだよ。『犯人』は『愉快犯』であり、『誘拐犯』であるという説。もう一つは『伺去がどうなったかを知りたがってる、伺去の友人や知人』。まぁ、基本的にあたし達は『人探し』はしてねぇ。受け付けてねぇから、本人に成りすまして、依頼して。自分の素性を隠して、解決した後で何食わぬ顔でまたあたし達の前に姿を現せば、犯人を知ることが出来る。『人探し』はしてねぇけど、『犯人探し』はしてるからな。そして、その犯人に詰問する。もちろん、死ぬ覚悟でな」
中道は、スプレー缶をポンポンと放り投げてはキャッチしながら言う。
「犯人か友人……」
「あるいはその両方ってのもあるけどな」
はぁ、と溜息を一つ吐いて中道は立ち上がった。そして「浴室」の方へと歩いていく。ドアノブに触れた瞬間、何かを思い出したかのように中道は楽座の方を顔だけ向いた。それを見て、楽座は少々吃驚したような反応をする。
「な、なんですか?」
「……」
何かを考えている様子の中道。顔はとても真剣だった。今までの事件のことを思い返しているのだろうか。そういう意識からか楽座の心臓は速くなってい……。
「バスタオル用意してくれ」
ったのはまさに、「骨折り損」だった。中道はさっきの真剣な顔は一体なんだったんだろうかと言うくらいに満面の笑みを浮かべている。楽座は漫画のようなこけ方をした。
「おぉ、初めて見た。リアルでこけてるやつ」
「……」
笑う中道を尻目に、顔を真っ赤にさせた楽座が無言のまま体勢を直す。
以前の依頼と今回の依頼で、緊張感が続いたこともあり、楽座は心身ともに疲労していた。そのため、仕事でもミスを連発したり書類製作中に居眠りをしてしまったり、バイクで移動中に転んで大怪我をしたりした。そんな楽座を見て中道は何とか楽座の疲れを取ってあげたいと思っていた。中道はズボラでいい加減な性格と思われがちだが、やはり事務所の責任者でもあり雇用主でもあるから、それなりに従業員に対しては愛情を注いでいる。飲みに誘ったり、休日に遊びに行ったり。それに中道は美人である。リップまで黒いのは少々いただけないが、美人の元で働けて、なおかつ飲みに行ったり、遊びに行けるというのは至れり尽くせりのように思う。逆に中道が疲れているときは楽座が中道を癒そうとする。だいたい、飲みに誘うことが多く、中道は疲労というものはどこに行ったんだといわんばかりに張り切り始める。環境的にも「道楽遊戯」というのは道楽であり遊戯である。
中道は「浴室」のドアノブをひねり、ガチャっと開けた。そこで中道の動きがピタリと止まった。それを見ていた楽座は中道の異変に気付いた。
「どうしましたか?」
「…………ちょっと、こっち来てくれ」
楽座は少々疑問な面持ちで「浴室」の方に向かった。そして、中道の後ろに立ち中を除く。
「――ッッ!!!」
楽座は目を大きく見開いた。そこにあったもの。「浴室」にあったもの。
「ぐぅっっ」
楽座は口を手で押さえた。何かがこみ上げてきてしまったらしい。そして奔って「給湯室」へと向った。
「陽ちゃん!? 大丈夫か?」
「ぐえぇぇぇぇぇぇぇっっ!!!」
「給湯室」からは液体がシンクに叩かれる音と、楽座の辛苦な呻き声が聞こえた。
「はぁっ! はぁっ!」
あまりの苦しさに楽座は肩で息をしていた。胃の内容物を一気に外へと吐き出し、今見たものに対しての耐性を作るとともに、自らの体勢を直した。
楽座が吐くほどのものが「浴室」にあった。それは、ある程度の耐性が無いと楽座と同じようになるもの。《者》が《物》になったというそんな流れをはっきりと見せ付けられる瞬間が今、起こった。
「な、中道さん……」
青白い顔色をした楽座が「給湯室」から壁をたどりながら出てきた。
「陽ちゃん……大丈夫か?」
中道は大変心配そうに楽座を見て、肩を抱き、優しく楽座に声をかけた。
「こ……これは一体……どういうことなんでしょうか?」
「どういうこと……それが分かったら、この話はオシマイなんだが……そういうわけには簡単に行きそうもねぇな」
中道の言葉が終わるか終わらないくらいに「ふぅ……」と楽座は深い溜息を吐いた。
非常に疲れきっている楽座をソファーに座らせ、自分の机の方に戻った中道は白い固定電話の受話器をとり、電話を掛け始めた。
「あ、恋春? 中道だけどさ、ちと悪ぃんだけど面貸してくんねぇかな?」
と話し始める。
「あ? 違ぇよ。殺人だ殺人。この間みてぇに報告しなかったら、てめぇらまた五月蝿ぇからよ。律儀に報告してやってんじゃねぇか――は? なんでそんなに連れてくんだよ、少人数で頼むよ。この事務所の沽券に関わるからよ……ああ、頼むぜ」
簡単に話し終えて、ガチャリと受話器を置いた――と思ったら、また受話器をとり何処かへと電話を掛け始めた。しばらくして、
「お、慧か? あたしだ。悪ぃんだけどさ、ちょっと面貸してくんねぇ? ちっと問題発生しちまってよ。これからサツが来るんだよ――は? 違ぇよ。何であたしが捕まんなきゃいけねぇんよ? ああ、そういうことだから、ちっと来てくれ――悪ぃな」
今度も簡単に話しを終えて、受話器を置いた。慧というのは中道の友人、榛葉慧のことだ。
楽座を目で見てから続いて「浴室」のあるものを見る。その「浴室」にあるもの――楽座が吐くほどに残酷で気色の悪いそれ。「浴室」には本来あることはないのだが、それは「浴室」の床にごろりと転がっていた。それ自体は元々肌色なのだが、時間が経って白くなっている。元々全ては一つに繋がっており、「浴室」にあるような繋がりが全て途絶えた状態はないということ。それ自体、自分の意思で簡単に動かせるもの。
「浴室」には、人間の手、肩から肘にかけての部分と、肘から手首にかけての部分、頭、腕と脚のない胴体。股関節から膝にかけての部分と、膝から踝にかけての部分、そして足。こんなこと細かに説明しなくとも、一言で済ませることも出来る。
人間のバラバラ死体だった。
2009年3月22日
「アードの断片」より改題。