第十三話:アンイージネスの憂鬱
アンイージネス【Uneasiness】
・不安
・心配
植物は水を与えなくても生き延びるものもあれば、水を一日絶やしただけですぐに枯れてしまうものもある。大体のものは水を一日絶やしただけでは枯れず、ある程度生き延びるが、最終的には枯れてしまう。こまめに水をやることも大切だが、やりすぎると根が腐る。植物はとても繊細な生き物なのだ。
では、人間の場合はどうだろう。とある本によれば人間は一週間何も食べなくても生き延びるらしいが、それは個人差があるだろう。いや、そんなことはどうでもいいのだが、たとえば食べ物を与えすぎると人間は肥えていく。逆に食べ物を与えなければ人間は痩せていく。肥満になれば血液や臓器に支障が出てきて病に陥り、最悪死に至る。食べ物を食べなければ栄養が不足し、血液や臓器に支障が出てきて病に陥り、最悪餓死する。
与えすぎてもよくないし、与えなさすぎてもよくない。何事も限度とバランスが必要なのだ。
今例に挙げたのは人間の肉体に対する部分であるが、精神ではどうだろう。
悪い環境の中にいれば精神状態も悪化するだろうか。あるいは慣れてしまい苦痛に感じなくなることもあるだろう。
良い環境の中にいれば精神状態も良好なのだろうか。あるいは慣れてしまい苦痛に感じてしまうこともあるだろう。
精神に関して、この時点では限度は関係ないといえるだろう。必要なのはバランスである。
ただそのバランスは人それぞれ違う。ある一定の力を与えただけでバランスを崩す人とバランスを崩さずにいられる人。むしろ、バランスの崩れそうな人を支えてあげるだけの余裕がある人もいる。しかし、そんな余裕のある人でも極端な力が与えられればバランスが崩れることもある。
つまり、人間は肉体的にも精神的にも限度とバランスが常に付き纏っているのだといえる。
■ ■ ■
「先生。これ拳銃じゃないですか!」
明衣子が美和の代わりに試験を受けている間、式部の部屋に匿ってもらっていた美和は式部の机に平然と置かれている拳銃を眼にした。木製の机に重圧的な拳銃はシックな色合いからか妙にマッチしている。
式部は部屋の中央に置かれた黒い皮製のソファ(応接用の物)に座り、新聞を読んでいた。ソファの前にはテーブルが置かれており、テーブルにはコーヒーの入った白いマグカップが二つと何本か捻り消された煙草の入った灰皿が置かれている。式部は新聞を読みながら時折、コーヒーを口にし、煙草を吸っていた(大学内は禁煙だが講師の部屋は禁煙ではない)。
「ああ……」
と、短く返事をする式部。
「本物ですか?」
恐る恐る美和は拳銃を眺める。手には取らずに机に置いたままの状態で、まじまじとその――重圧を見る。手に取るほどの勇気は出なかった。
「コルトM1903。アメリカのコルト社が作った、セミオート式の拳銃だ。銃にしては小型で930gと軽量だ。」
「……はぁ……」
美和は拳銃を見るのも初めてだし、もちろん拳銃の事なんか知るわけが無い。式部に今時分の目の前にある拳銃のことを説明されても、全く分からないし、また知ろうともしなかった。ただ、本物かどうかを知りたかっただけだった。
「これって、持ってちゃ拙いんじゃないですか?」
美和は拳銃を軽く人差し指で突いた。
「ああ、持ってることは確かに犯罪だ……別に、少し障ったくらいじゃ発砲はしないよ。メンテナンスを間違っちまうと、暴発すっけどな」
「えっ!?」
美和は式部にそう言われて、焦った。式部のメンテナンスが正しいかどうかまでは知らないが、そう言われてしまうと冷や汗が出る。もし、暴発したらそれでこそ替玉受験よりも重大な事件になる。
だが、拳銃のこと以前に、既に美和は冷や汗を浮かばせている。この替玉受験が滞りなくかつ誰にもばれずに旨く行くかどうか。それが一番の心配だった。
「大丈夫だ。暴発はしねぇよ」
「でも、何でこんな物を?」
「ああ、それはな……」
と言ったところで、式部は言葉を濁した。
「あ……すみません」
「あ? 何がだ?」
「え?」
「銃を持っている。つまりは犯罪に手を染めようとしている。そういう解釈をしているようだな」
「……」
ずばり言い当てられた美和は言葉を見つけられなかった。
「そいつを持ってる時点で犯罪だがな、俺には持ってなきゃいけねぇ理由がある」
式部は読んでいた新聞を畳み、自分の隣に置いた。ソファからゆっくりと立ち上がり美和の傍までゆっくりと歩いていく。そして、自分の机に置かれたその銃をおもむろに手に取った。
「理由……ですか?」
「ああ」
式部は「ちょっと悪ぃな」と言って、美和を少し退かせた。そして机についている引き出しの一番下にその銃をしまった。
「俺はそのうち殺される」
「――?」
式部のあまりに唐突で、あまりに冗談のような理由に美和は無言で少し表情を曇らせた。
「命を……狙われてるんですか?」
「まぁ、そんな大げさなもんじゃねぇよ。俺はデューク東郷じゃあねぇし、ましてやジェームズ・ボンドでもねぇ……だがな、殺されるって気はしてんだよ。今、ちまたで有名な殺し屋がいっからよ」
「殺し屋ですか?」
美和にしてみれば、ジェームズ・ボンドはギリギリ分かったが、デューク東郷は全く分からなかった。そして、殺し屋という、まるで小説に出てくるような、スパイなら他国にいっぱいいるかもしれないが、そんな殺し屋などという実際にいるかどうかも疑わしい存在に疑問符をたくさん頭の上に浮かばせた。
「ま、別にお前は知らなくても、生きていけることだからな。心配はいらねぇよ」
「は……はぁ」
式部とはそんな話をしていた美和だが、無事に「望清大学」への入学を果たした。美和は母親に殺されなくて済んだという解放と自分を入学させてくれた姉への感謝を抱いて、「望清大学」の校舎へと通った。当初、「望清大学」の近くにあった「メゾン・クサギ」というアパートに住み、そこから大学へ通うはずだったのだが、母親の猛反対にあい、しぶしぶ自宅から通うことにした。元々、そのアパートは明衣子が大学へ通っていたときに住んでいた。その時、母親は最初反対していたのだが最終的に許可を出し、明衣子はアパートから大学に通っていた。だが、母親は美和の申し出に対して、全く折れなかった。美和に対して、結構当たりが強かったりする。
それは母親が望んでいた子ではなかったということが大きく影響していたのだという。母親としてはやはり、自分の会社を継がせるのは男の子の方が良いと考えていた。明衣子が生まれたときは「次こそは男の子」と思っていたのだが、次に産まれた美和も女の子であったこと。エコーをとって見ても、性別がハッキリしていなかった。そんな赤ん坊に対して、必ず男の子であってほしいという思いで母親は出産に臨んだのだが、かなり厳しい難産で産んだ後母親は二度と子供を産めない体になってしまったのだ。そして、産まれてきた子供は女の子。この事で、母親は美和に辛く当たるようになったのだという。自分の意思で性別を決定したわけではないのに、随分と酷い仕打ちである。
美和が「望清大学」受験で苦悩していた時に明衣子に相談したことがあった。
「お母様は私のことが嫌いみたい」
と美和が零した。すると、明衣子は
「確かに、お母様はあなたのことが嫌いみたい」
とずばり言い放った。その言葉に美和の表情が凍りつく。だが、その表情もその後明衣子が言った言葉で明るさを取り戻したのだった。
「でも、私はあなたのこと大好きよ。お母様よりもあなたが好き」
母親には強く当たられていた美和だが、姉・明衣子や家に仕えている召使いから救いの手が差し延べられていた。美和がこの日まで生きてこれたのは母親のおかげではない。姉や召使いのおかげなのだ。
「お姉様……」
美和の目には涙が溢れんばかりに溜まっていた。
この姉妹は非常に仲が良い。顔は双子のように似ているが実際は双子ではない。しかし、お互いの気持ちは誰よりも深く知っている。ほぼ一心同体と言っても過言ではない。姉は妹を大切にし、妹は姉を敬う。この家は恵まれすぎている。それが苦境を生み出しているのだが、この家の姉妹は二人力を合わせて苦境を乗り越えてきたのだ。もちろん、二人だけでは解決できないことも多々あったが、それは召使いの力も借りて突破してきた。
――今までは。
――この日までは。
――この日が過ぎたあと、美和、明衣子に苦境では治まらない「地獄」がやってくる。
ある日のこと、美和は三時限目の講義を終え休憩に入っていた。四時限目は講義が入っていないため、昼食をとることにした。食堂は二階にある。三時限目は三階にある教室で行っていた為、美和は階段の方へと歩いて行った。
三階には休憩室がある。そんなに広くない自販機といくつか長椅子が置いてあるだけの本当に休憩するためだけのスペース(ちなみに禁煙)。階段の方へ行くにはその休憩室の前を通っていくことになる。
美和が休憩室の前を通り過ぎた時、ふと誰かの声がした。美和が立ち止まり休憩室の中を覗きこむとそこにはクラスメイトの伺去祐依、津村由貴子、日野杏奈がいた。三人で何か話をしているようだ。ただ、美和が通り過ぎようとした時に聞こえた「受験のとき」という言葉で美和の足が止まったのだった。
「なんかちょっと雰囲気が違うような気がするんだよね」
と言ったのは日野だ。
「副戸さんでしょ? そんな感じはしなかったけど……」
少し考えるような仕草をして津村が言う。それに続いて伺去も言う。
「それ、他の子も言ってたけど、受験の時と比べてちょっと違和感があるんだって」
美和の体に少しだけ冷や汗が浮かんだ。まさか、替玉受験のことがばれた?
「もしかして、お姉さんか妹に替玉してもらったとか?」
と津村は少々驚いた口調で言う。
「でも、双子じゃないと顔も似ないし」
「聞いた話だと、副戸さんにはお姉さんがいるみたいよ。しかもすごくそっくりなんだって」
「副戸さんって、『フクドコーポレーション』のお嬢様なのかな?」
三人の口から出てくる言葉は全て的を射ている。何処から出た情報なんだろう。誰から聞いた情報なんだろう。美和は青ざめ、体は冷や汗が流れる。いてもたってもいられなくなり、美和は気づかれないように休憩室から離れていった。
二階に降り、食堂に行ってもあんな事を聞いてしまった後だからか食欲が無い。少しだけでも何か食べようと思い、菓子パンを買ったが全く喉を通らなかった。それから何分かは椅子に座りうつむいたままだった。
封を開けてしまった菓子パンの袋を無理矢理縛り、トートバッグの中に入れて食堂を後にした美和は一階に降りて校舎を出た。校舎内の空気が何となく嫌になり、外の空気を吸いたくて外に出たのだが、かえってそれは良くなかったのかも知れない。
あの三人とばったり出くわしてしまったのだ。
三人は休憩室で話をしたあと、大学近くのコンビニへ行き昼食を買ってきたところだった。
「あ、副戸さん」
と日野に声をかけられる。そして、
「五時限目が終わったら、ちょっと話があるからさ、三階の休憩室に来てくれるかな?」
と言われた。
美和は「用事があるから、ごめんね」と言おうとしたが、言えなかった。口に出せなかった。逆に怪しまれるかもしれない。そう思った。美和は黙ったままコクリと頷いてしまった。
三人は校舎内に入っていく、美和は一人、ロータリーの様になっている校舎前の広場にあるベンチに座り、唇をかみ締めていた。