第一話:プロローグの序曲
プロローグ【Prologue】
・口上
某県某市に「琴原駅」という駅がある。出入り口は一つしかない。その駅から出て市役所のほうを目指して歩いて行く。緑の美しい街路樹が日の光を心地よく遮る。車通りは多くもなく少なくもなく走り、路線バスも走っている。
「琴原駅」から歩いて約十分。新しいビルに挟まれて相当年期の入ったビルが見えてくる。所々に罅割れとシミがあり、ビルの看板は一文字だけ欠落してかつてそこに何の文字が掲げてあったのか分かるような痕がついている。このビル――「傘倉ビル」(一文字欠落しているから「傘ビル」と呼ばれている)は四階建て。ビルの入り口を入るとすぐにコンクリートの階段が目に入る。やはり、階段も所々に細い罅割れがある。上り始めたら崩れるんじゃないかなと思えるほどだ。
その階段を三階まで上り、すぐ左に折れる。すると、ビルと相まってボロボロな鉄製のドアがある。以前入っていた業者の看板が何度も付けられては、剥がされているようで、接着剤の痕や無理矢理剥がした時に出来たと思われる塗装のはがれが目に付いた。そんなドアには「道楽遊戯」というプラスチック製の看板が貼ってある。
「道楽遊戯」……一見すると、何の事務所かわからない。
事務所内は中央に黒い長椅子が二つあり、それに挟まれて天板がガラスで出来ているテーブルが置いてある。
窓の方に目をやると、机が向かい合わせにおいてある。だが、その机の様子は両極端。片方は書類がちゃんと整理されており、髪の毛も埃も落ちていないほどにきれいなのだが、片方が書類は乱雑に置かれ、パソコンのキーボードも押せないほどに書類やボールペンが置いてあり物凄く汚い。
綺麗な机に一人の青年が座っている。髪が肩に掛かるほど長く、若干茶色い。顔は幼い少年のような青年で、黄色いTシャツに黄色いハーフパンツと全身黄色で固めている。一見すると中学生にも見えるが、これでも十九歳である。名を楽座陽太郎と言う。
一方、汚い机にも一人の女性が座っている。髪は背中に掛かるほど長く黒い。目はキリッとしていて、鼻は小さい。黒い口紅を塗った唇が輝いている。黒いキャミソールに黒いショートパンツを履き、青年と同じように同じ色で全身を固めている。一見すると、二十代前半に見えるが――ビンゴ。彼女は二十四歳である。名を中道凛と言う。
中道は自分の机に座り、手紙に目を通していた。その傍らにはその手紙が入っていた封筒が落ちている。封筒には綺麗な字でこの事務所の住所と、その下に「道楽遊戯様」と書かれている。片隅には小さな字で「伺去祐依」と書かれている。
「本当に出るんですかね……誘拐犯」
丁寧な口調で楽座が書類の整理をしながら、呟くかのように言った。
「さぁな。でも、困ってる人がいんだからよ。現れる事を前提でこの問題に掛かってくしかねぇだろ」
楽座とは反対に、少々乱暴な言葉で手紙を見ながら反応する中道。だが、その手紙のとある一説の部分で妙に引っかかっている様子だった。
「さっきから同じ場所ばかり読んでますね」
楽座が上目遣いで中道を見ながら言う。
「なんか、引っ掛かんだよな」
中道は頭を掻きながら、手紙を読んでいる。
「陽ちゃん、ちょっとこれ読んでみ」
あまりに納得がいかないようで、中道は楽座に白い手紙を手渡した。その手紙には綺麗な字で「相談事」が長々と綴られている。
「何処ですか?」
「上から七行目ぐらいのところを読んでみな」
中道に指示されて、楽座はその手紙の上から七行目を読んでみる。
「『四月十二日火曜日の午後五時十一分に貴女を攫いに行きます』と書かれた手紙が送られてきたんです……? 四月十二日?」
「今日は六月十二日だよな?」
「曜日や時間まで細かく書いてあるくせに、日にちはもう過ぎちゃってますね」
「そこなんだよ……依頼人を疑るのはあたしの信念に反するんだけどよ、ここまで時間が過ぎていることを今更になって相談するってのは、どういうことなんだ?」
「来年の四月十二日ってことは有り得ませんか?」
「来年って、まだ随分先のことじゃねぇか。くそっ、依頼人に会う前にちゃんと手紙に目を通しておくんだった。そうすればその事についても聞けたのにな」
中道はチッと舌打ちをし、椅子の背もたれにもたれた。ギシギシと軋む音がする。頭の後ろで手を組んでぼーっと窓から入ってくる風に靡くカーテンを見ている。
「……四月十二日……火曜日……」
中道はポツリと呟くと、ハッとカレンダーを見た。天井に届きそうな大きい本棚の隣に備え付けられた簡単な棚。その他なの天板にはテレビがドカッと居座っている。そのテレビの上の壁に、この事務所の上――つまり、四階に入っている会計事務所が去年末にくれたカレンダー(もちろん、会計事務所の名前入り)が貼ってある。一枚に二月分が載っているカレンダーで、今は五月と六月が出ている。五、六月のカレンダーの上に小さい文字で三、四月のカレンダーが書いてある。
中道は前のめりになって、カレンダーを見た。中道の席からカレンダーは約六メートル半離れている。事務所の面積は七メートル×十三メートルで中道の後ろの壁からカレンダーの貼ってある壁まで七メートルある。三、四月のカレンダーの文字は一文字につき1センチメートル×1センチメートル。常人並みと言えそうだが……。
「木曜日か……」
確認し終えた中道は再び背もたれにもたれる。
「木曜日!?」
中道はハッとしてもう一度カレンダーを確認した。確かに四月十二日は木曜日になっている。
「陽ちゃん、来年の四月十二日は何曜日だ?」
「えーと、ちょっと待って下さいね……」
楽座はカタカタとパソコンを打ち始めた。カタカタと言う音以外、窓から入ってくる風の音しか聞こえない。
「来年の四月十二日は金曜日です」
「金曜日だと……? 四月十二日が火曜日だったのは何時だ?」
再びカタカタとパソコンを打ち始める楽座。
「閏年なども考えて計算すると、四年後の四月十二日は火曜日ですね」
「四年後……? 伺去さんは未来予測者か?」
「いえ、それは無いと思いますが」
「あ、伺去さんがじゃねぇや。誘拐犯が未来予測者だ」
「いえ、それも無いと思います」
中道の予想にやたらと否定的な楽座。
「冗談だよ……んなわけねぇだろ」
チッと舌打ちをして中道は言う。そして、「まったく、冗談も通じねぇのかこの子は……」と心の中で呆れた。
「この間の事件みたいに、依頼人が俺たちを騙してるって訳じゃ……」
楽座はポツリと呟いた。その言葉に中道はキッと楽座を睨みつける。
「あ、すみません……」
慌てて楽座は謝る。が、
「いや、案外そうかもしれねぇな。前回のに比べりゃ随分とあからさまな嘘だがな」
中道はすくっと自分の席から立ち、後ろの窓から外を眺める。
空は青く澄み渡り、雲がゆっくりと流れている。風は心地よく吹き、小鳥は可愛らしく唄う。ビルから少し離れたところにある高校のグラウンドで、部活動をしている生徒達の威勢のいい掛け声が微かに聞こえる。今、自分たちが抱えている問題とは全く正反対の風景と音が中道に飛び込んでくる。
「はぁ……」
中道は深い溜息をついた。中道が溜息を吐いたのを初めて見た楽座は、ただ中道の背中を見るしかなかった。
「しょうがねぇ、依頼人に会ってくっか」
「あ、中道さん?」
中道が出かける準備をするため動き出そうとしたとき、楽座が中道を止めた。
「何だ?」
「あ、いえ。依頼人の自宅の住所は分かってらっしゃるんですか?」
「うわぁ、ここでボケかます? かましちゃうの陽ちゃん?」
楽座は中道にそういわれ、キョトンとする。
「はい。手紙には何を書かなきゃいけないんだっけかな?」
「えっと……送付先の住所と名前、郵便番号と……差出人の住所と……あ」
楽座の頭に「!」マークが見えた。
「アホか、おめぇは」
「あ。いた……あれ?」
頭を叩かれた表紙に手紙に目がいく楽座。何か書いてあることに気付いた。
「中道さん。行かなくてもいいんじゃないですか?」
「あ?」
楽座は手紙を手に取り、中道に見せた。
「『六月十五日にお尋ねします』って書いてありますよ?」
「あ……」
その日、楽座は中道が頭を下げて謝っている姿を初めて見たという。
2009年3月22日
「イントロダクションの序章」から改題。