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メリィ・クリスマス

作者: 千葉 与

ジングルベル、ジングルベル




はぁ、今年もこの日がやってきた。


まったく、くだらん。


キリスト教徒でも何でもないのに、浮かれやがって、実にくだらん。


ついこの間だって、近年やたらと日本にすっかり溶け込んできたハロウィンで、仮装をしては、意味もなくただただ集まって騒いでいたばかりじゃないか?


まったく、飽きないね〜、日本人は外国のお祭りごとが大好きなもんだ。そしてやたらとカップル向けのイベントとして企業もテレビも企画しやがる。


街じゃやたらとLED電球がピカピカして綺麗というより、むしろうるさいくらいだ。


そりゃあ俺だって子供の時は嬉しかったさ、ツリーを見るだけで胸が弾んだ。


だけど、今となってはそうでもない。そりゃこの歳でツリーを見てはしゃいでいたら変な男に思われちまうが、俺が言いたいのはそういう意味じゃない。


んー、うまく伝わるか分からんが、


冬の厳しい寒さに覆われた街の中で、クリスマスの飾りを見ると、ほっと心が温まるような感じ。


その年の終わりが近いことを感じつつ、どこか寂しさも感じ。


年に一度、この時だけ街にイルミネーションが灯り、駅や商店街に飾り付けがされる特別感という感じ。


まぁ、こんな感じだが伝わっただろうか?


だけど、最近のクリスマスはなんだか違和感でしかない。


俺の感じてきたクリスマスと何か違う。


外国発祥のクリスマスに「わび・さびも無い」なんて日本的な表現は変かもしれないが、なんかそんな感じがする。うん、俺が言いたいのはまさにこの感じ。




むしろなんだろう?最近のイルミネーションは派手すぎて良くない。


駅なんか何から何まで光りを放って、もうクリスマスだかテーマパークだか分かりゃあしない。


主役となる大きなツリーをドーンと飾って、それが一番目立つように配慮して、他はそのツリーを引き立てる程度の控えめな飾り付けがなんとも良かった。


今はイルミネーションのエリアが広域にわたっており、しかもそのどれもが主張している。そのため主役となる飾りがどれなのかいまいち分かりにくい。


家庭用のツリーなんかも電飾が内蔵されたファイバーで出来たような針葉樹の葉が、あたかも人工的な輝きを放っていやがる。


綺麗だとしても、俺は天然とかけ離れ過ぎたそのツリーをなんだか好きになれん。


俺が子供の時に見たツリーの感動とは随分と違うのだ。


じゃあどんなのかって?




仕方ない、なら俺がタイムスリップして小学生になったつもりで説明してあげよう。






ツリーは押入れの奥の方にあるんだ。だけど、子供じゃあ奥にしまわれ過ぎていて上手くとれないし、正確な場所も分かりゃしない。だから母親に頼むんだ。そろそろツリーを飾りたいから出してくれってね。


そしたら、もう出すのかい?まだクリスマスまでひと月近くあるよ?と言われてしまう。きっと面倒くさいのであろう。しかしここでアッサリ引き下がるはずもなくダダをこねて押入れの奥から大きな赤い箱を出してもらう。


少し箱が傷み、四隅の角が潰れているのは長年大切に同じツリーを使っている証だ。


クリスマスツリーなんか年に一度のイベントにしか表に出さないものだから、そうそう新しく買い替えるわけもなく、このツリーなんかおそらく、俺が生まれた時くらいに買ったもので、それをこうしてずっと大切に使っているのだろう。


箱を開けてみる。なんとなくだが押入れの独特な匂いがする感じ。それが懐かしい。


目の前には九十センチほどの深い緑色をしたクリスマスツリーが横たわっている。


幹の部分、つまりツリーの足の部分を準備したら、ツリーを立ててみる。


長い事箱の中に閉じ込められていたせいで、枝や葉の部分は拘縮して所々いびつな形をしている。その枝や葉を、娘の髪でも梳かすかのように優しく撫でながら形成する。


ツリーもそれに応え、それなりにモミの木らしくなってくれる。


ぺしゃがっていた枝や葉が広がって、少し離れて見てみるとモスグリーンをした鋭い三角形のシルエットがなんだかかっこよくさえ見える。


その三角形の枝や葉の上に、雪に見立てた綿を乗せていく。綿をちぎる大きさや、綿の毛羽立ち具合がまた難しくもあり楽しくもある。


つまり、綿の加減によって、毎年ツリーの雰囲気に変化をつけることができるのである。


次に俺は電飾を付けていたっけな。赤や緑や黄色や青やオレンジ色をした細い電球にギザギザの溝が入っている傘がしてある。コードの色はツリーと同化する濃い緑色だ。そいつをツリーに巻きつける。今思うと綿の雪を飾る前に、このコードを巻いた方が良さそうだが、今となってはどうでも良い。あとは金色や銀色の玉の飾り、赤い玉とかもあったかもしれない。


他にはクマやら四角い箱のプレゼントを模様した飾りやステッキなんかを針葉樹の葉に取り付けていく。そして最後にツリーのてっぺんに星の飾りを付けていたっけな、ん?最初に付けていた気もするが、これもまたどうでも良い。


ともかく飾り付けが済んだツリーは一刻も早く点灯させたい。


幹から出ているモスグリーンのコードをコンセントに差し込む。ツリーがピカピカと光りだす。ただそれだけなんだが、ガキの俺にはそれがすごく幻想的に感じられたっけかな?


わざわざ部屋の電気まで消してピカピカと鈍く点滅して輝くツリーをうっとり眺めてみたりしたような記憶が薄っすらある。




ツリーの飾りつけはだいたい母親と一緒にしていた。といっても大半の仕事は俺がやって、母親は飾りを箱から出したり、俺に飾りを手渡したりと補助的なことをやっていたっけな。


そんな母親も二年前に他界した。


膵臓がんだった。ふと自分の尿を注意して見てみたらしい。するとどことなく透明で泡立っていて、なんだか異様で怪しい気がしたらしく、念のために検査してみたらしい。


やはり怪しい尿であった。最初は糖尿病じゃないかとのこと。それから詳しく検査してみると膵臓がダメになっていやがった。


それからはあっという間さ、半年くらいだった。膵臓がんってもんは恐ろしいがんだね。


あまりに急なもんだから親孝行なんてろくに行えたもんじゃない。




雑誌かなんかの記事かテレビだかは忘れてしまったが、「あなたの余命があと五年しかないとしたら、何がしたいですか?」と聞かれて、答えた答えが本人が望む現実的な夢らしい。余命が数ヶ月の場合だと夢は違ってくるのかって?


そりゃあ短すぎるといろいろ物理的に無理が生じるだろうし、そもそもそれだけしか生きられない体力となると、その夢を叶えるだけの体力もなけりゃ、それを準備したりする時間が足りないらしい、だから五年という時間が一番その人の内心的な希望を聞き出すのに適しているだとかなんだとか云々。


この雑学を知ったのは母親が死んですぐのことだった。たまに思うよ、俺の母親ならなんて答えただろうか?ってね。


だからアンタも、親が元気なうちに聞いてみたらいいよ?「もし余命が五年だとしたら、限られた時間で何をしたいか?」ってね。


その答えに応えられたら、そりゃあ最高の親孝行に違いないだろう。うん、間違いない。




話しは変わるが俺は今行きつけのバーに向かって歩いている。もちろん一人だ。


もうお分かりだろうが、今日は十二月二十四日だ。


こんな日に一人でバーに出向くなんて、ただの寂しい男だとか、変わり者だとか思われてもおかしくなかろうから、俺に不信な疑問を抱く読者に向けて、俺の素性を軽く話しておこう。


身上を話すとは言ったものの何を話せば良いのか自分でもよく考えてないから、とりあえず名前と職業でも話しておけばこの場合良しとなるであろう。だからそれについて話すことにする。


俺の名前は高峰惣一。興信所で働いている。つまり探偵ってやつだ。探偵って時点で怪しまれることがよくあるが、俺も鼻から探偵なんかに成りたかったわけではない。


順序立てて話そう。俺はそもそもは警察官、もっと詳しく言うなら捜査一課の刑事だった。


警察ってのは民間の人にはちょっと想像もつかないような細かな規則や面倒な縛りがあって新卒一年目から窮屈に生きてきたし、他の社会人が普通に生きてりゃ味わうであろう色恋や、いや、そもそも出会いすらない、味気ない、あるのは血なまぐさい事件や、人間のしがらみや、上司の罵声、精神と肉体の鍛錬ぐらいなもんで、その上、人助けの為にやっていても、感謝されることよりも、どちらかと言えば煙たがられることが多い仕事であった。そうなると、仕事柄が煙たがられると言うより俺自身、つまり自分という人間がやたらと世間に嫌われているような、そんな気さえしてきやがる。


しかし、そんなことは割り切れるもんで、罵声を浴びようが野次を浴びようが慣れてしまうもんでねぇ。


辞めるきっかけになったのは、そんなことも理由にあるかもしれんが、急に嫌気がさした次の出来事じゃないかと思う。




C坂で起きた女子大生殺害事件だ。


その事件を担当していた時は参ったね、事件の感心が高かっただけにマスコミも必死で情報を得ようとするもんだから、俺までマークされちまって、仕事から帰ってきちゃ、毎日俺の家の前にマスコミやら記者やらが待ち伏せていて、俺を見つけるやいなや事件について聞かれる。翌朝仕事へ向かう時も居るもんだから参ったね。どうせ何にも話すこたぁないし、話すはずも無いんだが、家の前であーまでされちゃあ休みも休めたもんじゃあ、ありゃしない。


その事件が解決した後に俺は依願退職をしたわけよ。




それから普通にサラリーマンに成ろうと思ったよ。だがね、警察って仕事はぜんぜん潰しが効きゃしない。肩書きだけで、扱いづらいカタブツ扱いされているのが採用面接の時点で直ぐに分かってねぇ、そこでも改めて自分が刑事に染まってしまったことに気がついて呆れたよ。


それで、結局、似たような類いの人間が集まる興信所に身を寄せたわけだ。


案の定興信所には元刑事だらけだった。


浮気調査がメインかと思っていたし、男女の縺れたドロドロの現場探りなら、きっと面白い出来事にお目にかかれるだろうと、好奇心から最初は警察より気楽なもんだと思っていたが、甘かった。


依頼人が調査に支払う金額は百万なんてのは安い方だ。そんな金額を受け取るもんだから、決められた日数以内になんとしても成果を上げなければならない。


しかしだ、そんな金額を叩いて調査する人物となると、皆さんの想像の範疇から、更にちょっと逸脱した程度の人物ではなく、恐らく皆さんにはなかなか想像するのが難しいであろう一癖ある厄介者が大半なのだ。時に事件絡みなんてことも珍しくはない。


だから、もちろん精神的にも肉体的にも当初俺が想像していたよりも過酷だったよ。


それに探偵の尾行は、公安じゃない為、第三者から不審がられたら説明が面倒くさい。


ある日調査をしていてこんな恥ずかしいことがあった。


これは俺の尾行が溶け込めていなかったせいだが、尾行中、俺を見かけた地域課の巡査に怪しまれて職質を受けたことがあるのである。その時は探偵手帳を見せ説明したが、情けなかった。元刑事がパトロール中の巡査にかくかくしかじかと事情を話さなきゃならないもんだから、警察が鬱陶しくなったよ。手短には済ましたが、おかげで危うくターゲットを見失うところだったよ。


最初に話したように一癖ある人物をつけた時なんか本気で死ぬかと思ったことがあった。尾行していたターゲットの動きが非常に早く、常日頃から警戒していたのだろう、やけに読みにくかった。そいつを見失わないように追跡したんだが、動きについていくのが必死だったせいで、俺は注意力が疎かになっていた。このターゲットはヤクザと絡んでいたのである。そうとは知らず、追うことばかりに夢中になって迂闊に尾行した結果、俺は、街のあらゆる所で俺を警戒をしていたヤクザ達の存在に気づくのが遅れ、我ながら情けないことに複数のヤクザに囲まれてしまうということがあった。いや〜、あの時は冷えた、冷えた。下手すりゃ此処で命を落とすかとさえ覚悟したね、そしてその時程警察の時に持ってたピストルの存在が有り難く、恋しくなったことはなかったね。まあ、うまく逃げ出せたから今こうして笑い話しで話せるわけだが。やれやれ。




ついでだからもう少し話そう。


今夜はクリスマスだから、ある男のことについて話したい気分だ。


ある男、そいつは俺が刑事だった頃、同じ部署で働き、同時期に警察を辞めた四つ年下の後輩のことである。


そんな彼について話しをしたい。


俺はその男のことを岩さんと呼んでいる。


年下なのにこの呼び方なのは、彼がどう見ても俺より老けているからだ。岩さんとは警察仲間の中で、いや、友達全部ひっくるめても、一番親しい関係かもしれない。


まずは彼との出会いである。もう十年以上前のことだ。


あれは俺が刑事になる為に必要な知識や技術を身につけ、より一層の精神力と体力の向上をはかる為、短期間だが警察学校に行くように命令がくだった時の事である。


まあ、つまりは勉強して来い。という訳だ。


テレビのニュースで沖縄付近でゆっくりと北上する台風の動きが云々と警戒を呼び掛けている夏も半ばに差し掛かった最中、俺は再び警察学校の門をくぐった。


警察学校内の練習交番を過ぎた所で、紺色のスーツをピシッと着て、ゴキブリの羽のようにピカピカと綺麗に磨かれた革靴を履いた男と出会った。軽く会釈し、無言のままその場で待っていると、担当者らしい制服警官がやって来た。制服の袖を見るとその担当者らしき男の階級は警部であった。警部は俺たちを警察学校内の寮へと案内してくれた。そして部屋割りがあり、俺はその紺色のスーツの男と同じ部屋を使うように言われた。


そう、その同室となるこの紺色のスーツを着た男こそ岩さんであり、これが俺と彼との初めての出会いだった。


部屋に入って荷物を整理しつつ、俺が受けた最初の彼のイメージはとにかく真面目なやつだった。詳しくは真面目そうだが愛想がなく対人スキルに欠けているイメージであった。


表情もこれといった変化はなく、ただ口が『への字』で険しく閉じている。その仮面を見て、益々俺の持つイメージは低下した。もはや真面目などといった少しばかりの陽的印象すら消え去り、無愛想で扱い辛そうなカタブツでしかなかった。


軽く面白味もない挨拶を交わしたことで彼の名前が分かった。彼は岩田正義という、いかにも堅そうな名前だった。


俺がリラックスさせる為に何かと気楽に会話を投げかけてみると、カタブツは真面目だか緊張しているのか何だか知らんが、への字を小さく開き終始、よそよそしく、かしこまった硬い口調で話すのだった。


この警察学校って場所が、警察官として最初のスタート地であるから、「訓練」というイメージが脳にすり込まれ妙に緊張感があるのか、それともこの男が、かつてこの地で血反吐を吐くほど教官にシゴかれ、恐怖に怯えた苦い警察学校時代の記憶でもトラウマとして持っているかもしれないせいだかは知らんが、もう俺たちの階級も警部補と巡査部長である。(ちなみに俺が警部補である)少しは柔らかくしてもらいたい。もう警察学校時代の配属先も決まっていない、初任科課程の頃の巡査ではないんだから、少しは俺が気楽に話したくなるような受け答えをしてほしいものである。


だから、つくづく「こんな奴と同じ部屋で過ごすなんて参ったぜ」と思っていたが、そう思っているうちに、なんだか急に変な考えが浮かんできた。


俺が滅入るなんてバカバカしい、むしろ最初から空気を重くするこいつが悪いんだ。逆にからかってやろうと。




ちょうどこの日は明日の準備をするだけで比較的自由であった。俺たちは明日からの課業に備え制服にアイロンをかけた後、短靴や半長靴を磨くようにした。


ちなみに警察官というものは靴を磨くように言われる。どうやら官職(警察官、消防官、自衛官、海上保安官)と呼ばれる職業の者はどれも決まって靴磨きをさせられるようである。


訓練中の身分においては磨いた靴が少しでも汚いと注意されてしまう。注意というより罰に近い。磨いた靴はそこらに投げ捨てられ、磨き直しと、肉体の鍛錬というペナルティーが課される場合が珍しくない。


腕立て伏せや持久走、時には始末書なんていう、過剰と言いたくなるようなペナルティーのある恐ろしい縦社会なのである。みんなそうして靴を磨く技術と習慣を身に付けていくのである。でも正直面倒くさい。


そんな靴磨きも馴れてくると靴磨きの時間をより短く、そして楽しくしようと、その中での娯楽を探すようになるのが人間である。


俺はどれだけ簡単な手際でピカピカに磨き上げるか試すようになっていった。そして終いには靴墨以外の物を塗りたくって艶を出すことに妙な快感を覚えていた。


特にマヨネーズを塗った時は面白かった。


短靴のつま先に塗り込み、そのマヨネーズの油で、靴墨ではなかなか出せないであろう、自分の顔が映るのではないかと言わんばかりにウルウルと漆のように光り輝く革靴のつま先を上司が見て、「お、高峰はよく靴が磨けているな、初心を忘れずにいて偉いな。感心、感心」なんて言われた日には可笑しくて仕方がなかった。


マヨネーズを塗った革靴を褒められているのだから当然である。考えてみたまえ、君の近所の交番で偉そうにしている警察官の靴が実はマヨネーズが染み込んで輝いているのだとしたら。笑いたくなってこないか?




それから俺は調子に乗ってマヨネーズ以外も試したことがある。にんにくチューブである。


これはダメだった。にんにくの繊維らしいものがうまく革に溶け込まなく、輝きが鈍い。そして何よりも臭かった。当たり前だが臭かった。


にんにくの匂いも足下のつま先くらいなら大したことなかろう、気付かれぬまいと思ったが、鼻のいい奴になると、どこかしらから臭うにんにくの匂いに反応を見せるのである。


まあ、それもそれで面白い。


まさか俺のつま先からにんにくの香りがしているとは思いもしないだろうから滑稽である。




俺は岩田の磨いている半長靴の片方をさりげなく手にとり、マヨネーズを付けて塗り込んだ。ちなみに靴磨き用のアイテムとして俺は小さめの容器に入った靴磨き用のマヨネーズを持っているのである。


そして、そのマヨネーズを塗り込んだ彼の片方の半長靴をまた元の位置にそっと戻しておいた。




岩田は片方を磨き上げると、もう片方を何も知らずに手にとった。俺は岩さんの反応に期待していたが、それは思いもよらぬ反応であった。




「あれ?これは…高峰警部補、やりますね。マヨネーズ持っているんですか?」




これには驚いた、まさかまさかマヨネーズを見破られたのである。




しかもどうやら彼も俺と同じでマヨネーズで磨いたことがあったらしい。


このことから会話が膨らみ、はじめのそれは同種嫌悪というものだったようで、俺と近い感性を持った男だと知り、今の関係性に至る仲になったのである。




それから数年後、彼にとって無類の友であった俺が警察を辞めたことで彼も触発されて辞めたのかどうかは不明だが、少なからず俺が関係しているのは間違いないであろう。岩さんに辞めた理由を聞いても、「んー、なんとなく時が来たからです」なんて言うもんだから、全く変な奴である。


とまあ、彼と俺はそんな関係で、刑事っぽく言うなら友達と言うよりも、相棒みたいな関係だったと思う。


そして似た者同士、自信満々で退職したものの、こいつもいくつか民間会社を受けてはみたもののウケは良くなかったらしい。




ちなみに岩さんだが、現在は防衛省の情報本部で諜報員として働いているらしい。らしいと付けたのは彼の組織があまりに秘密を含んだ組織である為、どこまでが本当であるのすは不明瞭だからである。しかし無類の友である岩さんが俺に嘘をつくことは考えにくいことから、彼の言うことは全てが真実でなくとも、事実に沿ったことなのであろう。


彼は話しのところどころをサニタイズしながらではあるものの、仕事の内容について話せる範囲で話してくれる。


彼の話しによると、彼はC国やR国の情報収集やら、空中を飛び交うモールス信号なんかの傍受、分析やらをしているそうである。エリントだかシギントだとかいう、まあいわゆる電子、電波系の情報を取り扱っているらしい。


しかし、これ以上は守秘義務とやらで話してはくれない。


俺はその話しを聞いた時に、「三次元レーダーだかガメラレーダーだか詳しい名称は知らんが、日本の各地に配置されている球体やら亀の甲羅の形をしたレーダーサイトで情報をキャッチできるだろ。なぜモールス信号なんて古臭いことやってるんだい?」と聞いてみた。


すると彼は「三次元レーダーの電波は真っ直ぐ伸びていて、その先にある情報しか掴むことはできないんです。つまりレーダーサイトから伸びた電波の一直線上にある情報のみしか取れないんです」


「レーダーサイトは日本各地にあるだろう?それで充分じゃないのかい?」と俺は聞き返した。


「実は駄目なんです。だって地球は丸く出来ていますからね。だから水平線からの先の情報は一直線上に伸びたレーダーサイトの電波から外れてしまうんです。しかしCW(彼はモールス信号のことをCWと言う)はそうじゃなく、地球の丸みに対応出来るんです。日本の裏側、つまりブラジルの情報なんかも私の耳でキャッチすることができるんですよ」


「よく仕組みは分からんが、なるほどね、モールスなんてトン(短符)、ツー(長符)の組み合わせのくせに、なかなか凄いもんだな」




俺が先輩な事もあってか、彼の話しを聞いて冷静に分かった素振りを演じたが、正直なかなか驚かされた。そもそもよくよく考えてみるとトンという短符号とツーと長符号の組み合わせで文字や数字が組み立てられているという基本的な事自体に驚かされる。


そして、その組み合わせを全部覚えていることにも感心するが、彼の話しによると、受信するためのヘッドホン越しに超高速で流れてくる、トン・ツーの組み合わせを瞬間的に解読し、文字に起こせるというのだ。まさに人間受信機である。


これだけでも随分と神経を擦り減らす仕事のように思われるのだが、岩さんの話しによるところ、実際のモールス信号は様々なエフェクト(フェージングやらエコーやら、デリンジャー現象)とかの障害を受けているらしく、実際の現場となると、これまた更に難解極まりないようであるのだ。妙な仕事をしている彼に俺の好奇心や探究心が燻られ、それから先も聞こうと散々試みたが、岩さんはそれ以上のことは一切口を割らなかった。こんなところは見た目通りのカタブツである。




お、さてさて、こんな思い出話しをしていたらもう目的のバーに着いた。


このバーは俺の隠れ家みたいなもんだから、名前も場所も明かすつもりは、はなはだ無い。店内の様子は淡橙色の照明で薄暗く、アンティークなインテリアに囲まれていて、欧州の古い図書室のような雰囲気になっている。ちなみにカウンター席しかない小さな店だ。


ここは単に酒を飲むだけじゃない、程よくリラックスを味わいながら身を置ける数少ない場所だ。


俺はカウンターの長い一枚板が直角に曲がる、その角席に腰をおろした。


「マスター、ジン・トニックを」


そう注文したあとで、懐からラッキーストライクを取り出し一本咥え、カウンターに置いてあったマッチで火をつける。


俺の最初の一杯は爽やかなジン・トニックからはじまり、徐々に度数を上げていく。それが俺の飲み方であり、徐々に強い酒に移っていくその段階がまた楽しみであり、俺の思うバーの正しい嗜み方だ。




ところでさっきの岩さんだが、彼にはクリスマスにもってこいのエピソードがある。


せっかくクリスマスなんだから、その話しをこの場で話さない訳にはいかないだろう。


そもそも最初からそのつもりで先ほどから、岩田について云々と話しをしたのだから。




それは二年前のクリスマス・イブのことだ。


彼には今の俺と同様、彼女もなく、家で過ごすのも虚しいからと、一人で飲みに向かっていたそうだ。


彼には目的地に向かうまでの密かな楽しみがあった。


それは電車だ。


電車と言っても、彼は電車に詳しいわけでも、鉄道マニアでもなんでもない。


彼の楽しみとは、電車内での人間観察なのである。


彼曰く、電車の中の人間は不思議な人間が多いらしく、そうした人間をまじまじと観察することが何よりも興味深く楽しいらしい。


例えばこんな感じだ。


ボソボソと奇妙な呪いかのような独り言をつぶやく男。真っ赤な野球帽を目深に被り、それに合わせたのか真っ赤なタンクトップ、真っ赤なハーフパンツを装い、そしてなぜか靴下だけは白のスクールソックスで、そのソックスをめいっぱい引き上げ、足元は黒のローファーという独特な個性的ファッションの男。吊り革で懸垂をしだす男。小説に蛍光マーカーでラインをひき、ページを破って口の中に放り込み噛み続ける男。など、彼は電車の中で、彼の興味を惹きつける一味変わった人物によく遭遇するらしいのである。


ただ彼はこのような変わり者の男にばかりを観察することが楽しみかと聞かれればそうではない。もちろん女性もしっかり観察しているようである。


とは言っても女性に関しては妙な女を追うわけではなく、露出が多い女や、胸の大きい者、岩さんの好みに合った者を中心に観察しているようだが…


やれやれまったく、彼も助平なもんだ。




岩さんがこのような目的で電車を楽しみにしていることがお分かりいただけたところで、さて話しを続けよう。


その二年前のクリスマス・イブ、彼は一人で飲みに行くために電車に乗っていた。


この時折彼が乗った電車は車内の側面に沿って座席が設置してあった。


十人程であろうか、それがしの人数の人間が並んで座れる青色のロングシートが設置されたタイプの電車であった。彼は乗降口側の反対の壁際にある、その長いシートの真ん中あたりに腰をかけていたそうだ。


このとき、岩さんの向かい側の席が人間ひとり分だけ空いており、おそらくは次の駅で乗り込んできた人が自分の向かい側の席に座るものであろうと推測していたらしい。


彼はこの向かい側の席の人との偶然的な出会いに浪漫のようなものを想像する性癖を持っており、いつか運命的な巡り合わせでもあるのではなかろうか、もし何もなかろうとも向かいに美女が座っているというそのシチュエーションはまるで恋愛のはじまりのような、そんな一縷の望みを含んだ淡いときめきを秘めており、青春のような甘酸っぱさとまでは言わずとも、少なからず精神的な若返りを感じるようであり、彼好みの美女が座ることを楽しみにして待っていたそうだ。




岩さんを乗せた電車が走り出し、まもなくすると次の停車駅に着いた。


電車が徐々に速度を落としていく。


もう間も無くで電車が完全に停車するという時折だった。


そのゆっくりゆっくりと流れる景色の最中、彼の眼に入ったものは車窓越しの、それはそれは美しい美女であった。


そしてそのプラットホームに立つ美女の前を電車に乗った岩さんの身体がじんわりと味わうように通過したところで完全に電車が停車した。


彼から見て左側の乗降口に、その美女は立っていた。


岩さんはこう思ったそうだ。


「次に扉が開けば、その美女は同じ車両に乗り込んでくる。そしておそらく、その美女は俺の眼の前のひとり分空いた座席に腰掛けるだろう」と…




ここまで話しを聞いたとき、俺は吸っていたラッキーストライクの煙草の火を、ルフランという喫茶店のテーブルの真ん中辺りにある灰皿に押し付けながら、(そう、俺たち二人はこの話しを二人の行きつけの喫茶店でしているのである)目の前のソファーに浅く腰掛け、ブレンドコーヒーを片手にピースの煙草をぷかぷかとふかしながら話す岩さんにこう言った。




「待て待て、言うな。俺はこの話しのオチが分かったぜ、岩さんにしては随分と浅はかな考えだ、美女を前にしたせいか、初歩的なことを見逃してるじゃないか」


俺がこう言うと、岩さんはニヤリと笑みを浮かべ、まあ、続きを言ってごらんよ。とでも言いたげな表情を見せた。


その挑発的に見えた表情が少し鼻に付いたものの、構わず俺は続けた。


「結論から言うと、岩さんが自分の眼の前の空席に座るはずだと思った美女は、残念だが君の前には座らなかった。きっと君の、二人以上左隣に座っている乗客がその駅で降りたんだ。そして、その客と入れ違いに乗車してきた美女はその客がさきほどまで座っていた席の方へと座った。そしてそれが君から二人以上離れた左隣の席だったもんだから、君は結局その美女を眼の前の特等席で優雅に楽しむことはおろか、人間数人の間隔を置いた真横の席に座るもんだから美女を見ようにしても人間の壁が邪魔してままならなかった。といったところだろう。そして君がわざわざ俺に話すほどモヤついてるのを見ると、きっとその美女は綺麗な脚の持ち主で、短いスカートを履いていたのだろう。そしてあわよくば、君はその美女の脚の間から逆三角形の白い布が見えることを期待していた。どうだい?すべて当たりだろう?」




「あはは、さすがは峰さん、見事な推理ですね〜」と笑いながら岩さんは言った。


ちなみにこの頃から俺は岩さんからは「峰さん」とよばれていた。「高峰警部補」や「高峰さん」と呼ばれていたのは最初のひと月くらいだっただろうか…もう忘れてしまった。




「峰さんの推理は、四つ、いや、四つ半は当たっていますよ」




「四つ半?そりゃまた中途半端なところだな、おい」




「あはは、まあ、聞いてください。一つ目は結論からして、その美女は僕の前には座らなかったこと。二つ目は美しい美脚の持ち主であったこと、三つ目はその女が極めて短いスカートを履いていたこと。四つ目は私がその女の下着が見えることを期待していたこと。そして、残りの○・五点分の四つ半目はその美女を見ようにも人の壁が邪魔だったこと。なぜ半分減点なのかはこれから順に説明していきますね」




「まず、電車の扉が開いてからのことからお話ししましょう」


そう言うと岩さんは新しい煙草にジッポで火をつけ、コーヒーをちびっと浅くひとくち飲んでからまた話しを続けた。




「その美女は電車に乗り込んで僕の前の席が空いているのを確認すると、僕の方へ体を向け、そのまま一歩を踏み出したんです。そこまでは完璧だった。まさに僕の予想した通りの流れ。自分に置き換えて想像してみてくださいよ峰さん。数分前に自分の空想した通りに、自分好みの女が、しかも自分の望む服装で現れ、自分の思惑通りに動くんですよ?だから、驚いたというのはもちろん、このまま僕の思いのままに、この女を操れるんじゃなかろうか?とさえ錯覚するほど、自分の女のような、そんな気さえしてしまい、はたまた僕に不思議な力でも宿ったようにさえ思いましたよ。そこまでは!ほんと、そこまでは…」




熱く語った後にすっかり最後はしおらしくなった岩さんを見ると、女の特徴をこと細かに言わなくとも、よほどの岩さん好みの美女だったのだろうと安易に想像することができた。


そうなると、容姿を語られない分、俺の方がその美女の容姿について気になりはじめてしまった。これでは岩さんの話しの内容なんかより、その美女が気になって、これからどれだけ岩さんが熱く語りかけようが話しが入ってこないだろうと踏んで、彼に聞いてみることにした。




「すまない、岩さん。その美女ってのがどうも気になってしまう。その美女はどんな人だったかい?」




こう質問をした後で俺は直感的に感じた。これほど熱く語りかける岩さんにこんな質問をしては、見たこともない美女の容姿について長々と熱弁され兼ねないこと。そうなるとそれはそれで面倒だな。と…


そう瞬時に思い、すぐに質問を訂正した。




「あ、その美女は芸能人で例えるなら誰に似ていたかい?」




「芸能人ですか?そうそう、似た人がいるんですよ」




岩さんは、待ってましたと言わんばかりの対応を見せた後に答えた。




「白石麻衣ですよ!そっくりです」




「白石麻衣?」




俺には誰だか分からなかった。




「悪い、岩さん、俺には白石麻衣が誰だか分からない。写真でもあれば見せてくれないかい?」




そう頼むと


彼は「乃木坂も知らないんですか?」と聞いた。




「乃木坂?俺渋谷に住んでたからよく知ってるぜ?」




「峰さん、ダメですね〜いけませんよ。私が言っている乃木坂は、乃木坂46っていう女性アイドルグループのことですよ。そのグループに白石麻衣は居るんです」




俺があまりに無知すぎて岩さんから呆れられたのであろうか、半ば説教染みた口調で乃木坂46についての説明を受けた。


なんだか俺には岩さんがアイドルオタクなのではなかろうか?とさえ思えてしまう迫力であった。


俺は機転を利かせたつもりの質問が、逆に間違いだったのかもしれないと感じ得ずにはいられない気分がしてなんだかヤキモキした。




岩さんはスマートフォンを取り出し画像を俺に見せた。




「この人が白石麻衣かい?」




「そうです、美人でしょう。峰さん」




「お、おう」




写真を見せられ、平平淡々と素っ気なく流したものの、実は想像していた以上に俺のタイプでもあったこと、そして岩さんが白石麻衣の画像を保存していたことに驚かされたのである。




ともかく、俺が抱いていた美女への好奇心は、彼の証言を信じる限りではたいそうな美女であったということでとりあえずけりをつけた。




「で、結局それからどうしたんだい?」俺は話しを元に戻した。




「あ、そうですね。横道に逸れてしまいました。続きをお話ししましょう」




そう言って彼はまたコーヒーを軽くひとくち飲んでから話しを続けた。




「その麻衣やん(どうやら彼はさきほどの美女にかってにあだ名を付けたようである)が座ろうと歩みはじめた時です。反対側の乗降口から勢いよく乗り込み、そのまま猛烈に駆けだして俺の前の空席を…そう、麻衣やんを追い抜くようにして座り込んだイノシシが現れたんですよ」




「イノシシ?」




「もちろん本物のイノシシじゃないですよ、でも本当にもう、まるでイノシシでした。猪突猛進!体格もイノシシのような女でしたから」




「人間。しかも女かよ!笑わせてくれるな、まったく」




「いやいや、峰さん。笑い事じゃないですよ!」




「ただのイノシシなら私もこんな話しを峰さんにしませんよ」




岩さんは自分の人称に「私」を使い紳士な物腰であるものの、その紳士的な一人称には不釣り合い口の悪さであるからまた面白いのである。




「そのイノシシの態度ときたら、極めてふてぶてしいったりゃありゃしない、肥えた尻を右に左に振り両サイドの乗客をかき分けるようにして座ったと思いきや、鞄をゴソゴソとしている。何を取り出すかと思いきや、手にしたのは菓子パンでした。でもそれが可笑しいんですよ」




「何がだい?」




「持っていた菓子パンというのがクリームパンなんですけどね、イノシシのよく肥えた手自体がクリームパンそっくりで、クリームパンがクリームパンを握ってるみたいなんですよ。そしてこれまた食べるのが早い早い。よく太っている人がカレーは飲み物だなんて言いますけど、もうクリームパンすらもこの女、あ、もとい、イノシシにしてみたら飲み物でしたね」




俺はこのとき、そのイノシシで楽しんでおきながら、ここまで口悪く言う岩さんにも驚いたが、どうやら彼をここまでさせたのにはこれからの続きがあることだろうと踏んで大人しく続きを聞いてみることにした。




「でね、峰さん、腹ごしらえが済んだイノシシはまた鞄をゴソゴソ。次は何だ?と思いきや、今度は鏡とポーチを出してきたんですよ。そして鏡を広げ、メイクをするんですが、この顔の醜いこと。半開きにした眼をピクピクと細かく震わせながらアイラインを引いているんですが、なぜか鼻の下を伸ばしていて、元から大きい鼻の穴を、更に大きく縦に広げているんです。


そしてそれと同時に口も縦に開け、唇はその口の形に沿って巻き込むかのように口腔内に入っており、強張った表情をしているんですから、いや〜〜あれは眼の毒です。口直し為らぬ眼直しに、麻衣やんを見ようとしたのですが、麻衣やんは私の席の真横側に位置する乗降扉にもたれかかるようにして立っていました。しかも生憎、麻衣やんは私の方に背を向けており、その美しい後ろ姿しか見られませんでした。もちろん私が真横を向かないと麻衣やんを拝むことができない訳ですから、長いこと見つめていようものなら私の隣に座っている人間がチラとこちらを横目で見て警戒するもんですから、麻衣やんを見ようにも見ることができないわけであります。だから渋々視線を正面に向けるのですが、そうするとまたイノシシが醜い姿を晒しているもんですから、萎えるったりゃありゃしません」




「じゃあ、視線を落として、顔を見なけりゃいいじゃないか?それか本でも読むが良かろうに」




「私は電車での人間観察が好きなものですから、もとから本など持っておりません。ですからもちろん峰さんのおっしゃる通り、視線を落としましたとも。ですが、それが最悪な事態を招く引き金だったのです」




「最悪?」




「はい、私は視線を電車内の通路に落としました、するとチラチラと、全くくびれてなんかいない足首とは言い難い足首の影が動くのです。その足の動きがどうも集中を害すものですから、私は視線をイノシシの膝あたりまで上げました。するとあろうことか、このイノシシ、先ほど座った時よりもスカートの丈が短くなっているのです。おそらくイノシシが足を動かしたり、メイクの最中に上体を屈めたことなどでスカートが大腿部を露わにするまで上がったのでしょう。そもそも肥えた下半身ですからスカートに余分な生地が少なく、上がりやすいはずだからわきまえてほしいと思いましたね」




「あはは、それはとんだ災難だったな」




「いやいや、峰さん、災難はこれからです。あろうことかイノシシはこのあと脚を組んだのです」




「え、それは、まさか…」




「安心してください。見てませんよ。と言うより見えませんから」




「???」




「まあ、分かりにくいでしょうから順を追って説明しますね」




「ああ、そうしてくれ」




「峰さんはこのイノシシが脚を組んだことで、私の眼に私が見たくもない物が飛び込んできたと思ったのでしょう?」




「ああ、そうだよ。違うのかい?」




「違います、違います。むしろそれで見えるのならば、いっそのこと見えた方が後々私の気持ちも幾分か良かったかもしれません、そして見えたなら、それだけまだマシな脚だとさえ思ってしまうほど、私は精神的にやられたのですから…」




「おいおい、岩さんどうしたんだい?全く意味がわからんぜ?」




「ああ、これはこれは、本当にすみません、ついつい独り言のように嘆いてしまい、私としたことがどうにかしていました」




「しっかりしてくれよな?で、脚を組んだ後、いったい何があったんだい?」




「はい、そのイノシシが組んだ為、私はその大腿も視界に入ってまいります。悲しいかな、不思議とこういう場面において、男という生き物は見たくないと分かっていても不思議と見てしまうものです。でも、それは見たと言うより、見えたと表現するのが正しいのですが、さてさてこのイノシシの場合はどちらにも属さないのです。イノシシが大腿を擦り合わせた瞬間、本来普通の人間ならば両膝との間から逆三角形が、もしくは上げた方の大腿とシートの境目から、それはチラと眼に入ってくるものでしょう。しかしイノシシは違いました。どちらも大腿にしっかりとついた脂肪がその隙間を綺麗に遮ってしまい、全く隙間なぞ見えないのです。ですからもちろんその奥の『秘の部分』が見えるはずもありません。しかし、イノシシは脚を組んだ後になって、自分の、無駄にフリルがあしらわれたスカート丈が上がってきていることに気がついたのでしょう。脂肪のせいで隙間なんてないにもかかわらず、その隙間なんてない箇所を鞄で隠しだしたのです。私が視線をあげてイノシシの顔を見てみると、そのイノシシは完全に私を警戒したように睨むのです。私はたまったもんじゃない、こっちだって見たくもないし、そもそも肥えすぎて見えないわ!と思いつつ携帯でニュースでも見ようとズボンの右ポケットに入れた携帯に手を伸ばしました。右の肘が右隣りの乗客にぶつからないように気をつけながら携帯を取り出したのですが、ポケットが中で二重構造のように複雑に携帯を包んでおり、座っていることも加勢しなかなか上手く携帯が取り出せませんでした。複雑に引っかかっていた携帯をやっとこさ引っ張りあげ取り出したのですが、その反動で携帯を落としてしまいました。その携帯は床でくるくると回転しながら、私とイノシシの丁度真ん中辺りで止まりました。私は前屈みになってその携帯を拾いあげました。その行動の一部始終をしっかりと見られている気配を感じたので、イノシシの方へ眼をやると、イノシシは再び私を睨みつけており、何やら口が動いていました。何と呟いたのかまでは分かりませんでしたが、その口は確かに私に対しての侮辱か、不快な気持ちを下品な言葉で吐露したものには違いありませんでした」




彼はここまで話して、また新しい煙草に火をつけ、珈琲をすすり再び話しを続けた。




「なんとなく敵視された視線を感じ尚更不快に思いつつも、電車は目的の駅へ到着しました。電車が止まるとイノシシも立ち上がったので、私と同じ駅が目的地だったようです。イノシシは扉が開くと小走りで出て行きました。私がのんびりと改札口へ向かおうとしていると、十一時の方向から駅員がやってきて、突然『すみません、少し伺いたいことがありますので、よろしいでしょうか?』と声をかけられたんです。『はて?』と思いつつ、改札口のすぐ隣にある小さな部屋へ案内され、『確認の為にお尋ね致しますが…』とひどく申し訳なさそうな、それでいて私をできる限り刺激しないように配慮した様子ではじまりました。『先ほど他のお客様から、不快な視線を終始感じ、下半身を覗きこんで見られ、もしかしたら携帯電話で撮影をされたかもしれない。との相談を受けまして…それで大変申し訳ございませんが、万が一、何かの誤解もあるかもしれませんし、確認の意味も含めて万が一、万が一に備えてお尋ねしたのですが、なにか心当たりはございませんでしょうか?』それを聞いて、すぐにイノシシが脳裏に浮かび、怒りがこみ上げ顔が真っ赤になるのが自分でも分かりました。私は『あんな肥えた太々しい女なんかちっともいやらしい眼で見る気すら起こらんし、ましてや盗撮なんかするはずない、自意識過剰もいい加減にしてもらいたいですね。ほら携帯も確認していいですよ』と駅員に八つ当たりするかのような口調で応えました。いや、実際八つ当たりしていましたね、お前もあんなイノシシが相談しに来た時点でそれは自意識過剰だろと思うだろ!ってね」




私の対応に対し、駅員もイノシシの自意識過剰であったと思っていたのであろう、私がしていないと否定しただけで、駅員からの尋問はあっさり終わり、深く謝られ、携帯の確認もないまま、私は小部屋から解放され、再度深く頭を下げられた。駅員も大変である。きっとこの駅員もイノシシに相談を受けた時、『誰もお前のパンツなんか見たかないよ』と思ったのであろう。しかしイノシシがしつこく確かめてきて注意するように迫ったのが目に浮かびましたよ。駅員の質問によって不快な思いをしたはずなのに、その駅員に同情してしまいました。まあ、あの駅員もきっと私に同情しているでしょうから、仲間意識というか、二人ともイノシシの被害者という共通の理解だったと思います」




「いや〜、まさかそんなことまであったとは、君も駅員も散々だったね」




さて、彼との思い出の中の過去の俺が労いの言葉をかけたところで、一旦中断させてくれ。


酒が無くなったんだ。あと何か食べたくなってきたな。




「マスター、角ハイと…グリルソーセージの盛り合わせ…あと野菜スティックを」




そう頼むとマスターは無駄のない慣れた手捌きでドリンクを作り私のもとへ、そのグラスの縁にはスライスされたレモンが添えられている。マスターは俺がハイボールを飲む際レモンをグラスに沈めて飲む事を知っている。レモンを沈めつつ軽くこついて香りを付けた後、ひとくち味わい、舌の上で丹念に味を確かめていたところで注文したソーセージの盛り合わせ、野菜スティックが目の前に置かれた。最高のつまみである。


せっかくだから少しだけマスターを紹介しよう。もしかしたらマスターの紹介をした事で、この俺の隠れ家的バーがどこのバーなのが見破られるかもしれないが、もし見破った自信がある者は、マスターにこう聞いてみてくれ。


「ねぇマスター、マスターの名前は宮下智一ですか?」ってね。


さて、宮下智一というここのマスターだが、このエロオヤジ、極めて渋い。エロオヤジと言っても岩さんのような助平を意味するエロではないことを念頭に置いてほしい。


ダンディズムでありセクシーなエロさだ。自分のことをハードボイルド寄りな男だと自負する俺が、嫉妬するほどの男の色気だ。チクショウ。


このマスターについてはいろいろと事細かに言うよりも、「渋い」とひとことで表した方がこの男の性格にもぴったりな気がする。


これからもまだ伸びるであろう目尻の皺とほうれい線、ところどころ白髪の混じった髭、茶褐色の店のランプがこの男の頬にある、吹き出物の窪みに影をつける。この青春の跡までが、この男の若かりし頃の想像を掻き立たせ、それでいて男らしくさせている。


正直、年老いても尚かっこいい、まだこれから年齢を重ねる毎に、今とは違う魅力を放ち続けるであろう。年齢とうまく向き合って、自分の良さを理解し、過去の経験を全て己の糧にしている、そんな魅力が感じられる。見習いたいものでありそういう歳のとりかたをしたいものである。


これ以上言うと、どんどん宮下智一を羨ましく、嫉妬してしまうからもう言わない。ともかくそんな渋くかっこいい男だ。




さて、話しを戻そう、俺が岩さんと駅員に労いの言葉をかけたところまで話したっけかな?


うん、そうだ、そこまで話した。ではまた岩さんの話しをしよう。






彼は駅の改札口を出たそうな。するとイノシシが見える。身体が肥えた上に、やたらとフリルが付いた甘ったるい服を着ている分余計に目立ったそうだ。


そしてよく見ると、となりに男がいる。


年齢は二十歳前後だろう、黒のジーンズにねずみ色のパーカーを着て、その上から黒のモッズコートを羽織り、眼鏡をかけている。色が白く、ひょろっとした男だ。


イノシシと何か話しながら歩いている。大方、先ほどの電車の中での愚痴だろう、男がイノシシの頭をポンポンと撫でるような意味も含み軽く叩いた。イノシシの怒りでも宥めているのであろう。この様子を見る限り彼氏なのだろう。


そう思った岩さんは「なんだろうこの違和感」という気持ち悪い複雑な感情が湧いたそうな。


自分が一人ぼっちのクリスマスを過ごすのに対し、あんなに嫌って見下していたイノシシにも、彼氏の質はどうであれ、イノシシ自体が幸せそうなクリスマスを…少なくとも俺のように孤独でなく過ごせるという事実において、勝ち負けを競うわけでも、口惜しいわけでもないにも関わらず、それなのになぜか負けたような気がしたのであるそうな。




そしてなんだろう、同じ男としてだが、イノシシにも彼氏がいたことに驚くより、イノシシを彼女にした男の方に驚いたらしい。




この後彼は店をいくつか周り時間を過ごし、孤独と今日の鬱憤を晴らすべくお酒もうんと飲んだそうな。




岩さんはその日に走る最後の急行電車に乗って帰る予定であった為、その時間が許すまで彼は酒を楽しんだ。




その急行電車の発車時刻が迫ってきたので、彼は店をあとにしてほろ酔い気分のまま駅へと歩いた。足どりはしっかりしていたが気分は高揚していたそうである。


彼の眼にはサンタクロースが映った。夜の街にはサンタクロースの衣装に身を包む女達がいたのである。


これからクラブにでも行くのか、何かしらのクリスマスイベントなのか、飲み会の後なのか、まあそういった類いの人間であろう。彼は夜が更けても賑わい溢れる街の中、電車の時刻も迫っていたため、それらの誘惑に負けぬよう、あまり視線を移さず、ただただ駅を見据えて黙々と歩いた。


ところが、一人の女が偶然眼に付いた時だった。


その女がこれまた岩さんの好きそうな、この季節には似つかわしくないほど胸元の開いた、サンタのコスチュームを身に纏い、いかにも妖艶でボリュームのある立派な深い谷間を持っていたのである。女は寒そうな格好の割に鳥肌が立っている様子もなく、血色もよい胸元であった。


彼は歩む速度を落とし、チラりと横眼でその大きく膨らんだ胸を見たそうな。




するとこの女には男がいた。よからぬ男であった。この男も、この季節に似つかわしくない日焼けした肌であった。背丈は一七一・二センチといった平均程度であったが、筋肉が隆起した厚い胸板と太い二の腕を備えており、茶褐色の黒光りした肌がこの男を随分と野蛮に思わせていた。


首筋には何かしらの刺青がちらっと見えるが、服に隠れており何の刺青かまでは分からない。


「なに人の女ジロジロ見てんだ?」と酒臭い息を吐きながら岩さんに迫ってきた。




「ジロジロとは見ていない。ちらっと見ただけだ」と返答した。




謝って関わらずにおれば良いものを、岩田という男は馬鹿正直に対応したのである。


そしてあろうことかこう続けた。


「ちらっと見たが、女として見たのではない。露出された胸元と短いスカートからのぞく脚をちらっと見ただけで他に興味はない。だから安心しろ」


この言葉がより一層男を怒らせてしまった。


もう一度確認のために言うが、この岩田正義という男は真面目にふざけた男であるのだ。


俺が岩さんと初めて会った時と同じである。岩さんは真面目だかふざけているのか分からないのである。初対面の人間には読めない男なのである。


たしかに彼は事実をそのまま素直に言ったまでであるが、それは彼がどういうつもりで言っているのかは分からない。


ただ彼自身もここで馬鹿正直に返答をしては相手を怒らせることくらいは当然理解していたはずである。岩田は本当に空気が読めないという事はないのだ。そうであれば刑事なんて勤められやしないからだ。


なら何故かって?


恐らく、彼が酒を飲んだことで気が大きくなっていたことと、今日のイノシシの件で彼の中で発散されないまま心に残ったフラストレーションがそうさせたのであろう。


その結果彼は男に胸ぐらを掴まれ細い路地へと拐われてしまった。






まあ、この先の喧嘩を話そうにも、実にあっけなく勝負つくのでさらりと流そう。


何より正面からの攻撃に的が絞られる狭い路地へと連れていった時点で勝負ありだ。


岩さんの勝ちである。彼は武道家でもあり、逮捕術では県警の代表に選ばれる程の腕前であった。特に合気道と剣道に至っては、「岩田が素手ならば植芝盛平、剣ならば中倉清」などと噂される程の腕前であった。


そのため、男の繰り出す打撃はスルリスルリと岩さんにかわされた。全く当たる気配が無いのである。男は打撃を繰り出す毎にそのまま、その拳のベクトルが向く方向へ上半身から泳ぐようにして流されるのである。五発程殴りかかった後では随分と息が上がっていた。自分の拳に引っ張られるようにして上半身が泳がされ、それに遅れるようにして脚が付いていくため、まるで操り人形のような状態であり、たった数発殴りかかるだけでも不思議な程に体力を奪われるのである。


男は余裕が無くなった。次に繰り出した拳をかわされると、男は体を捻り、岩さんの腕に噛み付こうとしてきたのである。


しかし男の奇襲も虚しく、岩さんに簡単に足を掛けられ転んでしまった。それでも男は諦めない。自尊心だけは立派なようである。狭い路地に転がる小石を投げ、ゴミ箱の蓋を武器にしふりかかってきた。岩さんもこれは仕方がないと思ったのであろう。封印していた打撃を繰り出した。それは実に挙動の小さな、シンプルな前蹴りであった。しかしその前蹴りは男の急所を捉えていた。男は睾丸を抑えたままその場にうずくまった。あまりに苦しそうである様子から、岩さんは携帯している常備薬を、うずくまる男の背中に置いた。


それはバファリンであった。鎮痛作用はあるだろうという岩さんの優しさであった。


バファリンの半分は優しさで出来ていると銘打ってあるが、まんざらでも無いように思えた。




そして岩さんは踵を返し、急いで駅へ向かった。しかし、結局、彼の目的の急行電車には間に合わなかった。それで渋々、のらりくらりと時間をかけて、普通電車に乗って家路についたようである。まさに不運なクリスマスであったそうな。




そんな岩さんだが、今年のクリスマスは違うのである。


彼女と過ごすようなのである。


これも順を追って話そう。


それは夏休みに俺が実家に戻った時の話しだ。


俺は別段これと言って何かをすることもなく、夕方になって母親が飼っている柴犬のオサムと近所を散歩することにした。


懐かしい道の思い出を分かるはずもないオサムに説明しながら歩いていた時だ。


前から女が犬を連れて歩いてきた。


二人と二匹の距離が縮まり、相手の犬種がはっきり分かるようになるまで近づいたころ


「あれ?惣ちゃん?高峰惣一さんじゃない?」と声をかけられた。


予期しない出来事にビクりと驚きつつ、その女の顔を見た。


「私のこと分かる?」と女は続ける。




「もしかして咲良ちゃん?」


懐かしい名前が瞬時に出てきた。




「そうそう、懐かしいね、何年振り?元気してるん?今何してるん?」




「俺が高校卒業してから見てないから二十年以上くらいかな?まあ、ぼちぼちかな、情報関係の普通のサラリーマンしてるわ」




職業を聞かれた時、俺はいつもこう応えている。探偵だなんて身分はそうそう明かさない方が何かとスムーズに済むからだ。




「咲良ちゃんは元気?仕事は?てか、もしかしてもう結婚しとるん?」




「ウチは元気よ。いま小学校で先生してる。それがまだなんよ、こんな田舎じゃね、出会いが少ないし、紹介とかお見合いとかもしたんだけれど、なかなかいい人は見つからんから、まだ独身なんよー」




「惣ちゃんは結婚は?いま何処に住んでるん?」




「あいにく俺もまだやな。ここから車で二時間程のK市に一人で住んでる」




「あらま、惣ちゃんかっこいいのに結婚こじらせて勿体無い。ウチが誰か紹介しよか?」




「それを言うなら咲良ちゃんだって、美人やのに勿体無いやないか、むしろ俺が紹介しよか?」




「本当?じゃあ、惣ちゃんの知り合いならいい人そうやし、お願いしようかな」




「分かった、任せとき!」




と、まあ、これから先も近況やら懐かしい話しで盛り上がったことは簡単に想像がつくだろう。


この咲良という女だが、俺の小学校からの幼なじみの山下信彦という男の妹である。


信彦とは毎日のように遊んでいた。よく家にも行った。その時折、俺や信彦より五つ下の咲良とも一緒に遊んでいたのである。




この日の二十年以上振りの再会から、連絡先を交換し、帰省から戻ってもしばしば連絡をとり続けた。


そして、あの日の約束通り、咲良に男を紹介したのである。その男こそ、岩さんなのである。




岩さんは一目見て咲良のことを気に入ったようであった。咲良は器量が良いし確かに美人であるし、スタイルも良い女であった。


ならなぜ俺が咲良に立候補しなかったのかって?


それはここだけの話しだが、あと十年早く会っていれば俺が立候補していたかもしれない。


しかし咲良も三十半ばの女である。女として、俺を充たすだけの残りの寿命を考えると、どうしても俺には足らなかったのだ。だから岩さんに紹介したのである。


「許せ、岩田よ。許せ、咲良よ」


かつての友の妹をそのように、自分の満足を充たすことを中心に考えるなんて、俺は最低な男かもしれない。きっと咲良を自分の女にすることは容易くできたであろう。


しかし、俺は咲良を、俺を慕っている咲良をその時の欲に負けて、その時折の自分のものにはしなかった。


「そこは褒めてくれたまえ、そして安心してくれたまえ、岩田よ。俺は君を尊重したのだ」




そして俺の判断は二人にとって最良である予感がする。二人がうまくいくことを切に祈っている。




そんな秘密の心中を腹の中に隠していた時に、岩さんから相談を受けた。






山下咲良に告白をしたいという相談であった。


どうやら不器用な岩さんは、言葉では上手く言い表せないということで、手紙を書いてみたらしい。


その手紙を渡すか、読み上げるという計画らしく、実行に移す前に、一度どこか変でないか俺に眼を通してもらいたいというものであった。




岩さんらしい、シンプルな封を開くと二枚の手紙が入っていた。そこには下手とも上手いとも言えない男らしい文字が並んでいた。しかし、一文字一文字がどれも丁寧に書かれていて、どの文字もしっかりと「止め、跳ね」がなされていた。


言っては悪いがそこまで力の入った文字になると、念のようなオーラさえ纏っているようで、二人の間に恋の感情が芽生えてなければ一方的な恐怖郵便にさえ感ぜられるであろう。と思ったが、真剣な岩さんを眼の前にして勿論そのようなことが言えたものではなかった。




俺はその気迫に押され、一文字一文字、意味を逃さぬようしっかりと眼を通して咀嚼した。


恋愛なんて下手くそな岩さんからは想像もつかない程、実に素晴らしい手紙であった。


ちなみに後から知った話しであるが、この手紙は岩さんがこれまで観て感動した恋愛映画のセリフをいくつか偸盗したもので構成されていたものであったのだが、この時の俺はそんなことだと思いもしないもんだから、彼の秘められた文章の才能に舌を巻いたものだった。




しかし、俺が気になった文章は、彼自身が自力で書いた文章であった。


それはこんな短い文字列だった。




「この気持ちを最後の恋にしてしまいたい。もう恋なんて他にしたくないのです」




というものだった。


彼がこんなにも情熱的な恋愛家だとは思いもせず、読んでいて俺自身が恥ずかしい気持ちになってしまった。


そして俺はこの情熱の意味について迫ってみた。




「この意味は、もう咲良以外に恋はできない、だから咲良と結婚したいって意味なんだろ?」




すると岩さんは俺の予想を超えた応えをみせた。




「やっぱり結婚って思いますよね。良かった、実はそうなんです。でも本当は少し悩んでいるのです。本音を書いたつもりですが、よくよく考えると咲良さんを騙しているのです。


女性はそのようなロマンスを含んだ文章にはもちろん弱いものでしょう。そして言葉より文章の方が残るし読み返せる上でも手紙で告白する意味は大きな意味があるでしょう。手紙だと誓約書のようにさえ思えてくるもんで、下手にプレゼントをするよりもずっと喜ばれるし、喋る言葉よりも誠実にも思わせるんですから、文字の力には驚かされます」




「なるほど、それは確かにそうかもしれんが、そんなことより岩さんは、つまり咲良とはどうなりたいんだ?本音だけど、実は騙しているだとか云々言われても、俺にはよく分からん。手紙の効果で咲良と付き合い、その誠実な手法から安心させておきつつ、その間に咲良以外の女性とも恋がしたい。と言ってるようにも推測できるが?」




「はあ、さすが峰さん、仰る通りです。手紙を使うこと、特にその文章の中の『最後の恋にしたい』というフレーズは咲良さんを私の女性にするためのとっておきの策なのです。しかしそれを書いた後になって、どう向き合っても、本当に最後かと聞かれたら首を横に振る私がいるのです。きっと文章中の『最後の恋』に信念はないのです。しかし、それは男としての性というか、素直な気持ちだとも思えるのです。男のズルさです。同じ男なので、峰さんにだけは話しますね。私は電車で好みの女性を眼で追うような男ですから、咲良さんの手紙に最後の恋と綴ったところで、後先長い人生ですし、たぶん他の若くて美しい女に対して恋心を抱き兼ねないと思うのです。いや、きっと抱くでありましょう。私はモテない男ですが、どうやら色ボケした人間で、人一倍恋をしていたい人間なようなのです。むしろモテないからこそ、それがダメ元の恋という、一種の安心感となって恋に走らせるのかもしれません。しかし、再び恋を繰り返すと想像してみても、今の私の気持ちは変わらず、咲良さんが欲しいのです。これだけは紛れも無い真実で、欲しいとはその時ばかりではなく、一緒になりたいという意味です。妻君として咲良さんが欲しいのです。咲良さんと一生共に肩を寄せ合って生きていきたい覚悟なのです。とても愛しているのです。そういった本物の恋と言ったらいいのでしょうか?そのような恋の意味合いでは、やはり『最後の恋』というフレーズが当てはまるのです。矛盾していますし、支離滅裂で、都合の良い悪い男になってしまい困っているのです」




それを語る岩さんの眼は真剣であった。


ここまで素直に打ち明ける分、余計に奇妙にも思われたが、世の中の不倫など隠れて行われていることを思うと、誰しもが持ち兼ねない、そのタブーとされている秘密の欲望について、岩田は情熱的に向き合って語ったのである。


彼はまだ浮気も不倫も成立する立場でもない癖に、こんなことをいちいち考え悩めるほど天才的に純粋なのである。


気持ち悪い反面、ある意味可愛い男である。




自分の未来の恋心を予め予想し、それに自分であれこれ理屈をつけて悩んでいるのである。




しかも叶わぬであろう恋心に罪悪を感じつつもそれを正当化しようとする自分の精神を俺に打ち明け答えを求めているのである。


でも俺には答えは出せないのである。




しかし、俺は安心した。


岩田は咲良にとってみても、至極安心な男だと改めて思った。


そして相変わらず「天才気質」な変わり種な男だとも思った。


こいつは真面目なバカなのだ。バカな天才なのであろう。俺はそれで一人で納得した。


このバカは今、咲良と出会って恋に溺れているのだ、恋愛に未熟なバカだからこそ出来る仕合わせな悩みなのだ。だから俺はあえて放っておいた。




そんな事が事前にあった彼の告白は見事に成功した。ちなみに、手紙に含ませたロマンスも、物の見事に彼の計算通り運び、来年には式を挙げるようである。




そんな岩さんは、告白が成功してから直ぐのこと、俺に礼がしたいと俺を誘った。


次に会う時の岩さんは、随分と柔らかくなっていた。咲良を妻君とした安心感から、仕合わせに満ちているのであろう。当初心配していた、目移り癖の叶わぬ恋も、矛盾を含んだ手紙の一件も無かったことのように彼の中で小さなことになっていた。




そんな彼の惚気話しを聞かされつつ、夕食と、バーでの酒を御馳走になった。


ちなみにその時に奢ってもらったバーが俺が今居るこのバーである。


その時の酒と空間がめっきり気に入ってしまって、それから常連になって、勝手ながら隠れ家にさせてもらっているわけなのだ。




そんな俺は、岩さんを紹介した代わりか、咲良から、咲良の友人である香澄という三十二歳になる女性を紹介された。


香澄とメールでのやりとりをした後に、二人の都合の良い時折を調整して会うことになった。


会ってみると愛想もよく、人なつっこく愛嬌がある女であったが、それでいて知性的な女でもあった。なかなか博学であり会話をしていて勉強になるし、直感といったらよかろうか、勘が鋭く物分かりが抜群に良いため話していて楽なのである。


そのせいか香澄は俺と話しがよくあった。


香澄もそう思ったらしく、いや、それ以上に想っているようで、ここ最近では表情や声のトーンから察するに、明らかに俺に対する慈愛に満ちているようである。


今日の外出も、香澄に誘われてのことである。


これから会う予定だからなのだ。


そしてこのバーを待ち合わせにしているのである。


ここで皆さんは俺と香澄の間にロマンスを感じているのではなかろうか。


だが残念ながら俺にその気はないのだ。


ここまで香澄と息が合うと話した後だと、非道だと批難され兼ねないが、はっきり言おう。


顔が好みでないのである。いや待て、顔も決してタイプというわけではないが、他に何か根本的な部分が違うのである。


けっして香澄がブスという訳ではない。どちらかといえば、持ち前の愛嬌も加味し、可愛いという方に振り分けられるであろう。


スタイルは普通だが、いかにも女性らしい脂肪の付き具合で、その肉づきは母性に満ちたように柔らかみがあり、むっちりと膨よかで顔を埋め甘えたくなるような、官能的な胸を備え持っている。健全な男なら、きっと香澄の裸を見たいと思うだろう。


そしてきっとその母性溢れる香澄は多くの男を惹きつけるであろう。


だが俺の中の及第点にはどうしても届かないのである。それは俺が若い女を好む性分だからである。乙女の匂いがいいのだ、香澄は魅力的ではあるが、付き合うなり、結婚するなりしたら、俺には女というより、直ぐにお母さんにしか見えなくなってしまうだろう。


ごめんよ、香澄。僕はおまえの気持ちには応えることはできないんだ。そしてかなしいことにおまえがどう努力してもそれは変わらない事なのだ。振られる香澄に非はないのだ、全部僕のくだらない性癖が悪いのだ、ごめん。


俺が昔に読んだ、太宰治の代表作『斜陽』では『二十九までの女には乙女の匂いが残っている。しかし三十の女のからだには、もうどこにも乙女の匂いがない。』というような、とても女に対しては厳しく残酷な表現があったのを覚えている。


その文章を眼にした時に、太宰は非道なことを書きやがる、全く酷い男だ。と思ったが、よくよく俺自身で考えてみると、俺もその通りで、『乙女』を好む男だとはっきりと自覚させられた。


その刹那、非道だと思った太宰治を実に素直な男だと、直ぐに訂正した記憶がある。


三十過ぎても尚、見た目が若く、乙女のように見えたとしても、俺の中では乙女の匂いはないのだ。


きっと今ので俺は、多くの女性を敵にまわしてしまったであろう。


それを分かっていて言うのだから、嫌われる勇気ではないが、俺も自分で思っていた以上に素直な男なようである。


女から言わせれば俺の考えは浅はかで、全く現実が見えていない男に感じるであろう。きっと結婚を逃し、後々になって後悔するであろうと思うであろう。


しかし、仕方ないのだ。男は馬鹿な生き物だ。俺はその馬鹿を心得ているから妥協しないのだ。若い女と楽しみたいのだ。若い女と結婚して、長い時間、妻を女として楽しみたいのだ。そうなると、どうしても譲れない条件が発生するのである。それだけなのである。


そんな考えは世間の倫理的におじさんに位置づけされた俺なんかには贅沢だって?


いいじゃないか。


俺だって頑張って仕事して、一生懸命に生きているんだ。


結婚がやや遅れたけれど、自分の好きな女像を求めたってもいいじゃないか。


たくさん苦労してきたんだ。社会と戦ってきたんだ。家に帰った時に、外で見かけた若い娘に対し、うしろ髪ひかれるような未練もなく、どうせなら思いっきり自分の妻君で癒やされたいって思うじゃないか。残りの人生、楽しみたいじゃないか。


それなのに、世間は俺に妥協をしろと言っているんだ。






おっと、そんなことを話していたら香澄が来た。気合いが入っている。


どうやら今日の香澄はきっと俺を帰さないつもりだろう。


香澄を悲しませるな。と言われそうだが、それは第三者が口を挟むことじゃない。


香澄は俺のように馬鹿じゃない、香澄も判っているはずだ。俺は道徳的な男ではある、これから先に何があろうが、香澄の承知な上であることは先に言っておく。


ただ、今日はクリスマスだ。


泊まる場所が空いてなく、クリスマス難民になって二人して聖夜の街を彷徨い、結果的に何もなく終わるかもしれない。


そうなりゃ香澄はがっかりするだろうが、俺にしてみりゃ、それはそれでよい。




じゃあ、香澄がそろそろ俺と話したいみたいだからこの辺でお別れしよう。




ん?最後に俺の好みを教えてくれだと?


仕方ない、しかし岩さんには内緒だぞ?




それは、あの日あの時の一件から、俺はすっかり白石麻衣がタイプになっちまってんだよ。俺が結婚こじらせてるのは岩田のせいかもな。ははは…




はぁ、来年はもう君たちにこんな話しせずに済みたいね…




俺も来年は四十一だ。好きな女性と過ごしたいもんだぜ。




それでは皆さん良い夜を…




「メリィクリスマス」

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