是害坊天狗 2
「さ、……せ、ま、……せん……わ!」
「!?」
「な!?」
――ことは、なかった。
なんと、倒れかけていた水奈がコンクリートを踏みしめ押し留まり、天狗に向けて手を伸ばしているではないか。そしてその手は、がっしりと天狗の身体をつかみ取っている。
「ば、馬鹿な!? 馬鹿なッそんなことが、そんなことがあるわけがないッ! 不完全とはいえ儂の顕現を、ただの、ただの小娘が阻むだと……ッ!?」
「私、は! ……貴方なんて、恐れない……! その小娘ごときに、油断して……足元をすくわれるような……その程度の、妖怪、なんて……! まったく、まったく怖くありませんわ!」
夜空に響き渡った宣言と共に、水奈の身体を覆いかけていた黒い糸状のものがほどけていく。
それに比例して、天狗の身体もほどけていく。その顔は驚愕一色に染まり、呆然自失としたままに。
やがてすっかり魂魄に戻った天狗は、そのまま水奈の身体の中に押し込まれて完全に見えなくなった。
一方晶はと言えば、痛みも忘れてただただその様子を眺めていた。目の前で起きていることが信じられなくて、唖然とするしかなかったのだ。
顕現を途中で止めることなどできない。それが彼女の常識だったのだが……。
「ふう……っ、はあ……っ! はあ……っ!」
顕現を抑え込んだからか、身体の主導権を取り戻した水奈が、荒い息をつきながらふらふらと歩き出す。
それを見てようやく我に返った晶は、慌てて彼女の下に駆け寄った。相変わらず身体は痛んだが、彼女は白い火をまとうことでそれを無視すると、倒れそうな水奈の身体を抱きとめ一緒に腰を下ろす。
「水奈! 水奈……大丈夫かッ?」
「ええ……なんとか……。意外と、やれるものですわね……うっ!」
「水奈!?」
一瞬晶に微笑みを見せた水奈だったが、次の瞬間胸を押さえて苦悶の表情を浮かべた。
彼女を抱きすくめながら、晶は改めて己の目的を思い出す。そして途中だった神の力を大急ぎで練り上げると、水奈の体内に注ぎ込んだ。
『ぬぅがあああぁぁっ!』
すると途端に、魂魄体の天狗が絶叫を上げながら水奈の身体から出てきた。同時に妖気の弾丸を乱射するという、荒業をしながら。
だが晶は天狗の出現を認識すると同時に、水奈を抱えて後方へ下がっていた。このため攻撃はいずれも命中することなく、彼女たちの手前で霧散した。天狗の舌打ちが響く。
『おのれ、おのれェイ! 儂の計画をことごとく邪魔しおってェェ!』
天狗が吠える。しかしくちばしをせわしなく動かし、わめき散らす様はいかにも小者といった風体である。
その様子を、晶は観察する。水奈も、外れかかっていた照妖鑑を整えて天狗を見据えた。
天狗の姿は赤ら顔に高い鼻を持つ、いわゆる大天狗ではない。服装は同じ山伏のものだが、人と猛禽類を足したような顔立ちと、限りなく黒に近い緑色の翼を持っていた。それは彼が古典天狗であることを示している
その天狗が、叫ぶ。
『が、しかし……! もはや逃げるしか道はないか……! しかァし、人間の身体を取り込みさえすれば、再起は図れる!』
「……っ! 待てェ! んなことさせっかあ!」
『ええい黙れ! 儂は必ずやこの国を落とすのだ! それまでは……ッ!?』
人差し指を向けられた天狗は、翼を広げて飛び上がろうとした瞬間に、突然言葉を切った。そして敵の前にもかかわらず、明後日の方角に振り返る。
その理由を、晶もまた悟っていた。辺り一帯が、霊的に遮断されたことを察知したのである。そう、結界が発動したのだ。
「……ったく、いっしーのやつ遅いんだよ」
そして晶は笑う。
彼女の言葉に、水奈もまた状況を理解した。だから自分も笑うと、支えてくれている晶の手を軽く叩いて戦いを促す。
「晶さん……後は、思う存分やってくださいまし」
「……水奈。……ああ、わかったぜ」
そうして晶は、水奈からそっと離れて天狗へと向かい立つ。その足音で、天狗がようやく晶に向き直った。
彼の顔は、やや青ざめていた。
それは怒りか、それとも焦りによるものか。晶には判別できなかったが、どのみちやることは変わりない。
「そろそろ腹くくれよ? 年貢の納め時、ってやつだぜ」
『小娘が……その程度の力で儂を抑え切れると思うでないぞ! この儂を、偉大なる是害坊様を怒らせたこと、後悔させてくれるわ!!』
逃げ道がなくなった天狗――是害坊はそう吠えると、どこからともなく刀を構えた。日本刀ではなく、古式ゆかしい直刀である。
それと同時に、晶も残る力を振り絞って叫ぶ。仕切り直しとばかりに、高々と。
「憑依降臨!」
『させぬわあぁぁ!』
天高く掲げた腕から炎の竜巻をほとばしらせ全身を包み込むと、神の力が晶に降りてくる。
それを阻止せんと、是害坊は刀を数度振るった。するとその剣先から真空波が放たれ、炎に包まれた晶を襲う。だがそれに、一か所に集中した神の力を吹き飛ばすだけの威力はなかった。
確かにいくつかの炎が切り裂かれ、晶の身体には裂傷がいくつも走った。だが、憑依降臨は止まらない。彼女の血をも吸い込んだ火炎は轟音を上げながら逆巻き、やがて彼女の身体へ還元されていく。
そこで是害坊が、舌打ちしながら駆け出した。是が非でも憑依降臨をさせぬと、血走った眼が神火を睨みつけている。だが彼は、既に一手遅かった。
『ぬううっ!』
刀が晶に迫る直前。彼女を覆っていた炎が爆散し、是害坊は吹き飛ばされた。彼はすぐに体勢を整えるがもはや遅く、その正面には憑依降臨を終えた晶が身構えていた。
先端が赤く染まり、陽炎のように揺らめいて見える頭髪。
炎と同じ揺らぎと色を宿した、力強い瞳。
両手の甲に刻まれた文様は黒々と冴え、その手はまさに神の炎に包まれている。
そして、夜のとばりを煌々と照らす、烈火の翼。それは是害坊の翼よりも一回り以上大きく、また美しい。夜闇を暖かく照らす赤い光は、さながら迷い人を導くかがり火のようでもあった。
その姿は、先ほどまでの焦っていた姿と変わっていないはずなのに、水奈にはなぜか、今の晶の姿がこの上なく神々しく見えた。
だが、その見た目に反して、晶はやはり晶であった。
「行くぜ!」
『ちィ……よかろう、かかって来るがよい!』
是害坊が応じるより早く、一直線に彼に飛びかかったのだ。翼をはためかせ一駆けで迫ったかと思えば、火の粉の輝きを引いた拳をお見舞いする。
しかし大言するだけはあり、是害坊はその攻撃をあっさりと直刀の腹で受け流した。鈍い音が一つ、夜空に響く。
「おぅりゃッ!」
それでも晶は驚くことなく、身体をひねりもう一方の拳でアッパーカットを放つ。隙間を縫うようにして、是害坊の顎へ拳が伸びる。
これを是害坊は、あえて避けなかった。そのまま前進し、晶の狙いであった顎ではなく腹で受けて見せたのである。
そこには濃縮された妖気が待ち構えていた。それを殴りつけた晶は、拳に走った痛みに飛びのいた。
「――ぃ痛ってー!? なんだそれ、妖気ってそんなこともできんの!?」
『クカカカ、儂をただの天狗と思うでないわ! 大陸一の大天狗、是害坊様よ! よいか、儂はこの世のあまねくすべての天狗の頂点に……』
「知るか……よっ!」
『ぬおおっ!?』
だが是害坊は、晶の声に気をよくしたのか、そこで動きを止めて御託を述べようとした。
傍から見ていた水奈には、それがおかしくて仕方がなかった。
(この是害坊とかいう天狗……本当に大したことがないのでは?)
彼女がそんなことを思ってしまうのも、無理はない。
当然だが、戦いの最中で自慢話をされて遠慮する人間などいない。晶も遠慮などせず、是害坊の横っ腹に強烈な蹴りをぶち込んだ。インパクトの瞬間に炎を放つことも忘れない。
爆発音が響いた。それによって是害坊の身体に烈火が走り、その分だけ彼の魂は痛みに焼かれる。
『ぐぬうぅぅ、小癪な真似を!』
「戦いの最中によそ見する奴に言われたかねーよっ!」
そして両者は再びぶつかり合う。
この頃になってようやく、水奈は是害坊に憑かれていた影響から脱して立ち上がっていた。
そして冷静に戦いの様子を写真に収め、石燕に送付する。石燕から、是害坊なる天狗について情報を得ようとしたのである。
『水奈、無事だったか!』
返事は電話で来た。気遣ってくれる石燕の言葉は嬉しかったが、今はそれよりも情報が欲しかった。
石燕はまだ踏んだ場数も少ない上に、一度取り憑かれた直後にもかかわらず、冷静に行動する水奈に内心舌を巻く。
『是害坊だと!? 是害坊っていうのは二千年も前から存在する古典天狗で、こんなところにいるのが不思議なくらいの大妖怪だぞ!? そいつ、本当にそう言ったのか!?』
「ええ、間違いなく言い切りましたわよ?」
『おいおいマジかよ……とんだ大物じゃねーか……。
いいか水奈、是害坊は自惚れ屋に見えるかもしれんが、その実力は女郎蜘蛛なんて目じゃないレベル、乙種に当たる。魂魄状態なら全力は出せてないだろうが、なめてかかれるような相手じゃねえぞ!』
しかし石燕の答えに、水奈は首を傾げた。傾げながら、晶と戦う是害坊に目を向ける。それでもなお、あれがそんな恐ろしげな存在とは、水奈には思えなかった。
何せ今、晶とぶつかりあう是害坊は、常に何かしら言いながら戦っているのだ。
それが余裕を感じさせる鷹揚なものならば違う感想を抱いたのだろうが……あいにくと、是害坊が発する言葉は、おおむね不平か罵倒か自己正当化だ。戦闘中にそんな無駄口を叩いている奴が、果たして本当に強いのかと水奈には思えてならなかった。
だが彼女は、それを「限りなく近いところで相手を観察できたからだ」と結論付けることにする。最悪の場合は想定しておいたほうがいいだろう、と。
『……水奈? 何を考えてるかは知らんが、変な気は起こすなよ? もうちょっとでそっちに着くから。な?』
「わかっていますわ。今の私では、これ以上お役に立てることはなさそうですもの」
『わかってるならいいんだ。それじゃあ一旦切るからな』
そうして電話は手短に切れた。
沈黙したスマホを懐にしまう水奈だったが、その唇は色が変わるほどにかみしめられていた。石燕にああは言ったが、何もできないということがやはり悔しかったのだ。
そんな彼女を尻目に、晶と是害坊の戦いは激しさを増していく。両者ともただの攻撃だけではなく、炎の刃を振るったり烈風を放ったりと、あらゆる能力を出し惜しみせずだ。
だが決定打はどちらもまだなく、周囲には攻防に伴う激しい音が響いている。
「おらあぁぁっ!」
『何ィ!?』
その時、晶の拳を受けた是害坊の直刀が砕けた。
晶はそのまま、是害坊を殴りぬける。打点は頬。そこに、容赦なく拳を叩きこんだ。
『ぬがあぁッ!』
その衝撃で、是害坊の身体が吹き飛ぶ。しかしそこはさすがと言うべきか、吹き飛びながらも縦一閃に真空波を放っていた。
追撃しようと前へ出た晶はその直撃を食らい、鮮血のあだ花が咲き誇る。
「――っぐ!」
「晶さん!」
「これくらい大丈夫だ……っ、ていやあぁぁ!」
だが晶も負けてはいない。痛みにひるむことなく、掌底を突き出した。
それ自体が標的を捉えることはなかったが、そこから放たれた掌状の火炎は、真空波の余韻で弱りながらも是害坊を焼いた。
『ぬううぅぅ! 儂の顔をよくも焼いてくれたな……!』
体勢を立て直した是害坊の顔は、顎を中心に下半分が焼け爛れていた。一層険しい表情を浮かべた彼の目には、隠しようのない怒りが宿っていた。
『ぬうぅぅぅ……ッ、かああァァー!!』
「!?」
その是害坊が怒号を放ち、しこを踏むように足で地面を叩いた瞬間である。その身体が七色の玄妙な輝きに包まれ、ずくんずくんと奇妙な拍動の音が周囲に響き始める。
ただならぬその様子に大技の気配を感じ取った晶は、備えることなど考えず、即座に是害坊へ殴りかかった。
しかし。
『クカカカカッ、もう遅いわあぁー!!』
「!?」
是害坊の勝ち誇ったような声が轟く。その刹那、彼の身体が景色に吸い込まれて消えた。
相手を見失った晶は急制動をかけて立ち止まると、身構えながら周囲に目を配る。だがそれをあざけるように、背中に衝撃が走って突き飛ばされた。その先には、銀色の大きな貯水槽。
なんとか直撃の寸前に空中で体勢を整え、直角を描いて上空へと舞い上がる晶。しかしそれすらも見越していたのか、彼女の身体に裂傷が走った。
それでも構わず、攻撃が飛んできた方を殴りつけた晶だったが、手ごたえはない。そうこうしているうちに、今度は前から突き飛ばされた。
『クカカカカカッ! さあどうだ!? 貴様にこの術が破れるかァ!?』
ここまで読んでいただきありがとうございます。
是害坊、昔話にも登場するくらい歴史のある天狗なのですが、実はその昔話からしてヤムチャな感じの天狗だったりするのはここだけの話。




