女郎蜘蛛 1
日も落ちた頃合い。東京郊外の人気のない街並みを、晶と水奈は連れ立って歩いていた。件の少女が被害に遭ったコンビニにほど近い住宅街である。
水奈の肩には、石燕から受け取ったショルダーバッグ。その視界に映り込むフレームの一部にまだ多少の違和感を持ちながらも、彼女は手にしたスマホを眺めていた。
それは彼女のものではない。機関の仕事をする際はこれ、と石燕から出がけに渡されたエージェント専用のものだ。
彼いわく、一般に出回っているものより高性能、かつ専用のアプリが入っている特別仕様だという。今はそのうちの一つが起動しており、画面には様々な情報がリアルタイムで逐次表示されていた。
ちなみに私用のほうは、父親からの再三の呼び出しが鬱陶しいので電源が切られている。
「例の少女の名前は神咲日由、十二歳。町立第二中学校の一年生。ただし一学期の終わり頃から不登校で、学校には一切行っていない……と」
一通り情報を確認し終わった水奈は、その内容を口にしながら照妖鑑をくいっと指で押し上げた。
「不登校って……いじめられてたのか?」
「そのようですわね。元々小学校の頃からいじめられていたようですわ。中学校に上がっても当時の同級生も一緒なので、それがそのまま継続してしまったとのことです」
「……そりゃまた、魂魄妖怪が選びそうな子だなぁ。その子が毎日嬉しいとか楽しいとか思ってりゃ対抗できるけど……」
「あまりこう言いたくはありませんが……難しいのではないでしょうか?」
「だよなぁ……。間に合うといいんだけど……」
眉をひそめてそう言うと、晶はため息をつく。
それから何か言いたげに口を動かすが、結局うまく考えがまとまらなかったようで、最終的にはがしがしと頭をかいて終わった。
「あ……晶さん、ここのようですわよ」
「んあ? おう、もう着いたのか」
一軒の家の前で水奈が立ち止まり、その姿を見上げた。晶も彼女にならう。
それは今どき珍しくない、一般的な建売の一軒家だった。周りの家とほとんど大差ない小ぢんまりとした外観に、申し訳程度の庭が付いている。庭には覆いをかぶせられた自転車がたたずんでいた。
しかし、家に明かりは灯っていない。
「ここが日由ちゃんちか。……間に合わなかったかな、気配がねーぞ。……って、待てよ、そういやご両親は?」
「共働きで、どちらも客商売らしいですわ。出勤時間が遅い分帰宅時間も遅いということで、今は石燕さんが保護を……っと、噂をすれば」
会話の途中で、手にしていたスマホが震えた。相手の名前を確認しながら、水奈はスピーカーを耳に当てる。
『うぃーっす、関係者の確保と周辺地域の封鎖、終わったぞ……と、言いたいんだが、どうも見つかってない子供が一人いて、超絶不安になってるところ。そっちはどうだ?』
「ちょうど今、彼女の家に着いたところですわ。晶さんいわく気配がないとのことですが、どうしましょう?」
『しばらくそこで待機しててくれ。日由ちゃんは封鎖の過程で捕捉してるから、そっちに向けて誘導させる。威黒ももうすぐそこまで行ってるはずだ』
「了解いたしましたわ。石燕さんは?」
『行方不明の子供を探すさ。情報は今送ったから、万が一そっちで見つけたら最優先で保護してくれ。その場合、晶や妖怪を目撃されるのはやむを得ないものとする』
「ええ、わかりまし……」
『あっ』
「え? 『あっ』って石燕さん、石燕さん?」
不意に石燕の声が途切れた。それがあまりにも突然で、水奈は思わずスマホを握る手に力を込める。
ただ、電話が途切れたわけではなく、通信状態は維持されている。どうも石燕が電話口から離れたようだった。
「……どうしましょう、晶さん……って、晶さん?」
一向に石燕が電話口に戻ってくる気配がないので、しびれを切らした水奈はスマホは耳に当てたままで振り返り……目を丸くした。
晶が両手をそれぞれの耳に当て、周囲をゆっくりと見渡していた。顔は真剣そのもので、ふざけている雰囲気ではない。
彼女の様子から、水奈は周辺の音を探っているのだろうと判断した。そのまま晶の隣に並ぶと、視線で意図を問いかける。
「……いやさ、悲鳴みたいなのが聞こえた気がしたんだ」
数秒の間を置いて晶が言ったその内容に、水奈は首を傾げた。一緒にスマホも傾く。
「悲鳴? 私は聞こえませんでしたが……」
そこで水奈も、スマホを降ろして耳を澄ませてみる。しかしそれらしい声は、一切聞こえなかった。
だが彼女は、気のせいと言うのは早計と判断する。かんなぎである晶の感覚が、一般人である自分よりも鋭いのではないかと思ったのだ。
だから彼女は声を出さず、筆談を試みるべく懐から手帳を取り出そうとした……その時。
『水奈! おーい水奈、超やべぇ!』
下げていたスマホから、石燕の声が聞こえてきた。
タイミングの悪さにため息が出そうになった水奈ではあったが、明らかに慌てた様子の声だったので、急いでスマホを耳に当てる。
「一体どうなさいましたの?」
『緊急事態だ、行方不明の子供が日由ちゃんと……』
「……あっちだ!」
『……遭遇しちまったんだが、晶のやつ今なんつったよ?』
「あっちだと叫んで、走り出しましたわ……私も追いかけます!」
『あっ、おい! あーもう、気をつけろよ!? 下手なことはするなよ!?』
「わかっておりますわ!」
息つく間もない展開に一度深呼吸をしてから、水奈は走り出した。
その前方には、ぐんぐんと遠ざかっていく晶の背中。このままではあっという間に引き離されてしまいそうだった。
彼女はどうやら、住宅街の奥のほうへ向かっているようで、街灯の数が少しずつ減っていく。結果、彼女の姿はほどなくして夜闇に溶け込んで見えなくなってしまった。
だがそこに、少年の悲鳴が聞こえてきた。
「うわああぁぁーっ誰かああぁぁー!!」
聞こえたほうへ水奈が顔を向けると、夜空に駆けあがる晶の姿が目に飛び込んできた。夜とはいえ、数は少ないとはいえ、街灯の並ぶ住宅街だ。その姿は離れていてもなんとか視認できそうである。
とりあえず見失うことはなさそうだと考えた水奈は、心中で気合を入れ直し、同時に己の脚に力を込めた。
晶たちが悲鳴を聞く、ほんの少し前。
少女――神咲日由は家から少し離れたコンビニに来ていた。そう、晶たちが見た映像にも出てきたコンビニである。
水奈が晶に説明していた通り、日由の両親は共働きで帰宅は夜遅い。そのため、夕飯はコンビニ弁当という日々が多かった。
それが毎日というわけではないが、この日はその例に漏れない日であり、日由はそこで弁当を買い求めるべくいつものようにコンビニに来たのだった。
だが、そこに人は一切いなかった。客だけでなく、店員もだ。完全な無人のコンビニに迎えられて、日由は少しだけ面食らう。
明らかに異常な事態だったが、これは石燕の手引きでこの辺り一帯から人が遠ざけられていたからだ。
正確には完全な無人ではなく、この後日由――と言うよりは、取り憑いている妖怪――を晶に対峙させるよう誘導するため、皇機関のエージェントが各所に潜んでいる。
「……仕方ない、よね……?」
人気のない店内を眺めて数分後。日由は、自分に言い聞かせるようにして、手にした弁当の代金をカウンターに置いてコンビニから退出した。
その瞬間、周辺に潜み監視をしていたエージェントたちが一斉に動き出す。
彼らは逐次情報を上司、つまり石燕へと送り、石燕は問題なく監視と誘導が進められていることを確認して水奈へ連絡を入れた。
自分が渦中どころか問題の中心であることを認識していない日由は、両手で大事そうに弁当を抱えてのろのろと歩いている。顔に覇気はなく、眼もどこかうつろで、焦点が合っていない。
そして、等間隔に並ぶ街灯に照らされて、時折彼女の身体からは黒い妖気がちらちらと漏れ出ていた。
だがそんな彼女が突然、びくりと身体を振るわせて足を止めた。そしてそのまま動かなくなる。視線が、ある一点に向けて固まっていた。
彼女の視線の先。そこには、人影が浮かび上がっていた。それがずんずんと彼女に近づいてきている。
「ぅ……あ……」
それを見て、日由は震えだした。まるで化け物にでも出会ったかのように、恐怖に顔を歪めて。
しかしほどなくして日由の前にぬっと現れたのは、彼女より一回り以上大きいだけで、いたって普通の少年だった。野球のユニフォームを着て、肩にはバットがかけられている。
その少年が、にいっと笑いながら声をかけてきた。
「あっれー? やっと人に会えたと思ったらチビじゃねえか。奇遇だなあ?」
「……っ」
「んだよ、せっかく声かけてやったのにシカトかぁ?」
「…………」
「まったく、小せえやつは頭の中身も少ないんだなあ。ろくに挨拶もできないなんて、学校でなにやってたんだ」
言いながら、少年が笑う。
一方で、日由は震えながら顔を伏せて、唇を噛むだけだ。彼女は理解しているのだ。迂闊なことを言えば、もっと面倒なことになるということを。
そう。少年は、小学校時代から日由をいじめていた人間の一人であった。日由にしてみれば、下手な化け物よりよほど出会いたくない相手だ。
始まりがいつだったのか、きっかけがなんだったのかは、日由にはわからない。恐らく、少年自身も覚えてなどいないだろう。
だが、口が悪く、地声が大きい彼が発端だったことは覚えている。そこから日由がいじめられるようになるまで、ほとんど時間がかからなかった。
小柄で口下手な日由には、それに対抗することができなかった。彼女に唯一できたのは、学校に行かないという選択だけだった。
「まあいいや。それよかチビよう、この辺何がどうなってんだ? なんか警察みたいなやつらがこの辺を封鎖してて入れなかったんだ。俺は秘密の抜け道使ってここまで来たんだけどさ……何か知らねえ?」
とはいえ、無人の夜の街という状況は、さすがのいじめっ子も不安を隠せないようだ。ちらちらと落ち着かない様子であてどなく視線をさまよわせている。
しかしそんな彼の存在は、日由に潜む妖怪を捕まえるべく奔走しているエージェントたちにしてみれば、邪魔以外の何物でもなかった。
問題地域の住人で、子供が一人行方不明と言う連絡は全員が共有していた。最悪の場合、現場にそいつが現れる可能性も視野に入っていた。
それでもその「最悪の場合」が、現実のものとして彼らの前に現れていたのだから、誰もが心中穏やかではなかっただろう。
状況は即座に石燕に伝えられ、ただちに少年を回収しろと命令が下るのだが……。
「……おいィ、聞いてんだろ。シカトしてんじゃねえっての。あん?」
震えたまま無言で立ち尽くす日由に対して、少年が手を伸ばした。
この瞬間、事態は完全に手遅れとなったと言っていいだろう。
(ああ……今日は厄日……せめて殴られなきゃいいなあ……)
日由がぎゅっと目を閉じて、心の中でそうつぶやいたのだ。
と同時に、それに応じる声が彼女の脳裏に響き渡る。
『本当に? アンタ本当にそれでいいの?』
日由にはまったく聞き覚えのない、女の声だ。にもかかわらず、なぜかどこか聞き覚えのあるような、そんな声。
そう、彼女に宿っていた魂魄妖怪が、顕現のために動き始めたのだ。日由の身体からそれまでとは比べ物にならない量の妖気があふれ出し、少しずつ地面周辺にたまり始める。
こうなってしまっては、訓練されているとはいえ、かんなぎのような戦闘力を持たないエージェントたちは、迂闊に手が出せない。
前後して、日由は身体の自由を失った。自分の身体が自分のものでなくなってしまったかのように、一切動かせなくなったのだ。
突然の異変に、日由は強い恐怖を感じた。そしてそれが本当の重圧になったかのように、がくりと膝をつく。それまで手にしていたコンビニ弁当が、かすかな音と共に地面に転がった。
「あぁん? なんだお前急に……まさか土下座ぁ? ははっ、おめでたいやつだな!」
いきなり目の前で伏した日由に、少年が笑う。
そして顔にその笑みを張り付けたまま、彼が日由の背中を踏みつけようとした、その瞬間。
「あ、……ああっ、ああぁぁぁ……っ!」
日由の身体から、大量の妖気が一気に噴出した。空にまで巻き上げられた妖気は、黒い夜の帳をさらに黒く染め上げる。
それと同時に、彼女の背を突き破るかのように次々と細長い脚が出現した。蜘蛛の脚だ。
蜘蛛と呼ぶにはあまりに大きいその脚が、即座に日由の手足に沈みこむようにして同化する。この間、一秒にも満たないわずかな時間だ。
そして。
「うわっ!? な、なんだ!?」
猛烈な速度で、日由の右手が少年の足首をつかんで止めた。
「な……っ、おまっ、何しやがる! 離せこの……っ!」
いきなり受けた抵抗に、少年は苛立ちを隠そうともせずわめき、日由の手を振り払おうとする。
だが、彼がどれだけ力を籠めようと、日由の手は小揺るぎもしなかった。万力に捕まれたかのように、彼の足はピタリと止められていたのだ。
明らかに日由の見た目と釣り合わない力に、少年はさっと顔色を悪くする。今まで考えもしなかった悪い想像が、彼の脳裏に広がっていく。
『キャハハハハッ! いいわ、いいわあ! ついでにこいつの悪感情もいただきっ!』
そして、少年の恐怖、不安といった感情を見るや否や、日由の身体の中から女のけたたましい笑い声が響いた。
『もう少しね! もう少しで顕現できるわ! 小さくてもいいわ、もう一回何か切っ掛けがあれば……うふふっ、それはやっぱり、あなたがやらないとね!』
「ひぃっ!?」
続けられた、姿の見えない誰も聞こえない言葉と共に、日由がぐんと顔を上げた。それを見て、少年が悲鳴を漏らす。
日由の顔は、それまでとまるで異なっていた。限界まで見開かれた目玉は血走り、その中の瞳は極度に小さい。表情は様々な感情が混ぜ合わさったみたいに不揃いで、下手な人形のよう。
「ア……は、はは、あハハハハ……っ!」
そして、まさに操り人形のように、日由がかたかたと笑った。あまりに異様な光景、尋常ならざる様子に、少年はもはや声もない。
「『さあ、復讐を始めましょう?』あ、あぁぁオォォ、そう、すルうぅぅ!!」
そして日由は、猛然と立ち上がった。その勢いのまま、夜の街並みを闊歩し始める。
「うわああぁぁーっ誰かああぁぁー!!」
その手に、少年をつかんだままで。
ずるり、ずるりと彼が引きずられていったその後に、忘れ去られたコンビニ弁当が寂しく転がっていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
ジョロウグモって、結局女郎蜘蛛が正しいのか絡新婦が正しいのか。
いやどっちも正しいんでしょうけど、どっちがより正当性があるのかなって・・・。




