「いのちの値段」
この物語は、フィクションです。
「いのちの値段………か」
あたし達の目の前のベンチに座る、名乗らないままの「老人」は。
手元の紙をいじりながら、ぽつりとそう呟いた。
「私のいのちの値段なら、一億か。私が死ねば保険会社が支払われる金がそうだろう。この証書にもそう書いてある。もっとも受取人であった妻は、3ヶ月前に事故で死んでしまった。そして、受取人の書き替えはしていない。だがそこらへんはあんたが巧くやるんだろう」
視線を受けた死神が、うさんくささ全開の営業スマイルで頷く。
けれど訊ねたものの、その実どうでもいいようで。老人は死神からふいと視線をはずすと、またどこともわからない虚空をみながら手元の紙―――彼が先ほど言った通りならば、保険証書か、をいじっている。
「いのちの値段なんてものは、相対的なものだ。時や場所や、それらをひっくるめた状況でいかようにも変わる。死ぬ人間がなに者であるかなぞ、あまり関係ない。私は長年会社を経営していたが、半年前に経営権、株式その他諸々すべてを元部下に譲渡した。
だから、半年前ならば私の命の値段に付加されただろうそれらは、いまは他人のものだ。引退した際に財産その他もほとんど整理したから、それもない。あるのはこの、」
唐突にそこで言葉をきると彼は、こちらに向かって弄んでいた証書をぴんと弾いた。
「ちょっ」
彼からすこし離れて立っていたあたしだったが、一歩踏み出し身をかがめて、なんとかそれを受け止めることができた。
「汚れるじゃないの!」
以前の仕事のなごりで、証書や書類なぞは、1点の傷や汚れなどなく保管する。を旨としていたあたしにすれば許されないその行為を抗議しても、彼は目線すらあげない。
もうそんなものに、興味なぞないというように。
あたしは彼のそんな態度にまた憤慨しながらも、彼が「ターゲット」だと言われた時から覚えていた違和感の答えをみつけた気がした。
目の前に座る、呼んではいるものの老人と言う呼称に似つかわしくない男。
たしかに目じりや口元には深いしわが刻まれ、証書を手ばなし、いまはゆるりと組まれた大きな手にも、しわやシミがある。
でも。
いまは重力にまかせて丸めた背にピッタリとそうジャケットや、投げ出された足をつつむ仕立ての良さそうなパンツ。
誰かの手で丹念に磨かれているような飴色の革靴。
ワイシャツの手元を飾るカフス。
時計。
そういったものすべてが、彼の持つ相応の富を、あらわしていた。
そしてなによりも、うすい唇から紡ぎだされる、硬質な、低い声と明確な話し方。
彼が先ほどぽろりと漏らしたように、半年前まではその背をそらし、胸をはり。幾人もの部下を統御して、望むもの、必要なものすべてを手にしていたのだろう。
いまはその残滓でしかないものを。
あたしがひとりそう納得している間にも、老人―――依頼人Aと呼ぶことにしよう。彼の話はつづいていた。
「いのちの値段なぞ、相対的だ。それが生まれたての赤子であっても時として国ひとつに相当する価値をもつこともあれば、一国の首相の命が、じゃがいも一個以下の価値しかないこともある」
イヤイヤおじさん、それはさすがにないって。
お客さんが話している時は、できるだけ遮らない。そのモットーにしたがって心の中だけで突っ込んだはずなんだけれど。
あたしの表情で言わんとすることがわかったのか、依頼人Aはすこし上体をおこすと、しわはあるものの、綺麗に爪先まで手入れされた指を一本たてた。
「じゃあ例をあげてみようか。君がたとえば、生まれたての赤ん坊だったとしよう。食事や立つことはおろか、寝返りさえ自分ではうてない君自身には、なんの価値もない。両親、それから祖父母などの血縁者をのぞけば、君の生き死にを心配するものなぞいない」
両親や祖父母であっても、心配しない場合もあるけどね。
そんな悪態に似た想いを今度は表情に出さないように気をつけて、あたしは神妙に頷いてみせた。
「だがその赤子が、テロの人質となったとしたら、どうだろう?それを世界中のメディアが報道したとすれば?いま時はインターネットの普及でなにかを隠し通せなくなりつつあるから、ひとつのメディアが、それがたとえ個人のものであろうとも、その情報を入手し、それがニュース性のあるものならば、野火のごとくあっというまに広まるだろう」
まぁそうよね。
好奇心って言えば聞こえはいいけど、物見高さ、詮索好きと同義だし、それは人間の性だもの。
そのニュースに対してなにをするわけでも、なにができるわけでもないのに。簡単に「共有」する術を得た現代では、クリックひとつで拡散させる。
それが衝撃的であればあるほど。
「話題になる」ものであればあるほど。
「その赤子自体にはなんの価値もなく、その親兄弟親類縁者に、身の代金や犯人の要求に答えられるだけの金持ちや権力者がいなかったとしても、だ。世界中が注視している以上、国が動くしかなくなる。自国民を助けない、もしくは助ける能力のない国は、軽蔑され、信用されなくなるから。
だから国が威信をかけて、税金と人員、その他すべてかけられるものを使って、その無力な赤子を助けようとする。それが、その赤ん坊のいのちの値段となる」
いやいやいや。そんなスチュエーション、なかなかないですって。
真面目な顔でそう言うおじ様に激しくそう突っ込みたかったけれど、まぁ依頼人の話をきくのも仕事のうち。そう考えてやっぱりあたしは黙っていた。
それに彼には、もうそんなに時間がないはずだから。
まるで気配を消すようにして傍らにたつ死神をちらりとみやると、片頬だけで笑った。
「逆に、君がたとえ一国の首相であろうとも、じゃがいも一個、粥いっぱいと引き換えに殺されることもありうる」
いやいやだから。
またしてもそう突っ込みたくなったけれど、1年の休職中に読み漁った歴史本たちを思い出して、やめた。
「私の会社――私が持っていた会社は、海外との取引が主でね。いわゆる『発展途上国』にインフラシステムや技術者を派遣していた。
テロほどではないけれど、まぁ紛争は日常茶飯事だったな。資材や技術者を派遣して、さぁ始めようかという時に内戦が勃発して、慌てて引き揚げたこともなんどかあった。小康状態を保っている時でも、職場と住居の入り口は、自動小銃のトリガーに手をかけたセキュリティ・スタッフ――まぁ傭兵だが、それが常時つめて、通勤買い物その他外出時は、誘拐や襲撃にそなえて防弾ガラスの装甲車で……そんなのが日常だった」
そう。
いまあたし達がなんの感慨もなく享受する「平和」は、世界中で転がっているわけじゃない。
そして、学生時代以来、はじめて真面目に学んだ歴史は、戦争と紛争に彩られていた。
「そういった国では、飢饉や政治不在による貧富の差による飢えが日常化している。食料を確保すること、それが何よりも優先される。たとえ他人のものを奪ってでも、生き延びようとする。
君がたとえば一国の首相で、視察などでそんな国や難民キャンプを訪れたとしよう。そこで歓待のしるしとしてだされた食料。なけなしの、わずかばかりの粥やじゃがいも一個ということもあるうる。普段専属の料理人や高級レストランでの食事に慣れた首相の君には、とても食べられたものじゃない。しかし捨てるわけにもいかず、手に持って、時間つぶしにそこらをぶらぶら歩く。
そこでもし、たまたま。いつも自分を囲んでいる取り巻きやスタッフ、シークレット・サービスからはぐれ、独りになったとして。空腹に苛まれている難民か誰かが居合わせたとしたら?」
史記、ローマ帝国衰亡史、歴史、古事記に日本書紀、そして古今東西の歴史小説……。
それらに書かれた英雄たちは、偉大な業績をのこし、同時代の誰よりも輝いて、永遠に生きつづけるかに思われた。
そして、なんともあっけなく死んだ。
「もてあそんでいたわずかな食料を奪われるだけではなく、奪い返されまいと、刺されることだってあるだろう。実際派遣したスタッフがそれで大けがをしたことがあってね」
彼らの「いのちの値段」は、誰がはかったのだろう。
いま、あたしの傍らにたつ、死神とその仲間だろうか。
老人の話を片方の耳だけで聞きながらそう思うと。
すこうしだけ、さびしくなった。