仮契約
「ちょっと待って」
一人で話し続けて、勝手に話しをまとめた気でいるらしい目の前の男、「死神」にあたしは待ったをかけた。
もちろん伸ばされた手は放置する。
「『よろしく』もなにも、まだ受けるなんて言ってないけど?」
「は? だって、これ以上説明のしようがないんだけど? あぁ、『何かご質問ありますか?』って最後に聞かなきゃいけないんだっけ」
忘れてたわ~、失敗、失敗。
握手の形に伸ばしていた手を握りこぶしに変えて手のひらに打ち合わせボケる男には、冷たい目を向けてやることにした。
「『質問』もなにも、いまのじゃなんの説明にもなってないじゃない。あえて言うなら、愚痴と自分語り?」
「いや、愚痴ってあんた……まぁ愚痴もあるけど」
可愛らしくもないのに口をとがらせる男は、放置。
今度はこっちのターンなんだから、大人しく聞いてろっての。
「あなたはずいぶん長い間、……下界? 中つ国? まぁなんでもいいけど、こちらに来てなかったみたいね」
「まぁね」
「死神」はまた軽く肩をすくめてみせた。
彼の着るスーツ――どうみても洋服の○山でズボンをもう一本つけて19,800円! 大奉仕中です!! にしか見えないさえないグレイの――スーツの上着が、それに合わせて上下する。
「あんた達の時間はとてもはやい。俺たちにとってはな。だから多少のさま変わりはしかたないだろ」
「どのくらい?」
さして興味もないけれど、尋ねてみた。
「そうだな~」
無精ひげがまばらに見える顎をぼんやりこすり、思いを巡らすように首をかしげる。
「この間来た時、この国では男も女も髷を結って着物しか着てなかった。腰に刀を下げてた男もいたし、女は―――」
「じゃぁしょうがないわね」
細かい描写が延々と続きそうだったので、手をあげて制止をうながした。
止まったところをみると、このジェスチャーは「死神」にも通じたようだ。
「嘘だ」
表情を変えずに放たれた言葉に、一瞬反応が遅れる。
「―――『死神』も冗談くらい言えるのね」
不覚にも笑いがこみあげてきたのを、咳払いでごまかす。
「………まぁいいわ」
手をふって、会話を仕切りなおした。
「とにかくこの時代――少なくともここ20年で、日本は大きく変わったの。まず……デフレってわかる? そう。ものが売れなくなった。より正確に言えば、なんでも売れる時代じゃなくなったのよ。そしてここ数年は少子高齢化の当然の帰結の、人手不足」
聞いているのか聞いてないのか。
男はあいかわらず、先ほど「出現(いきなりなにもない空間から現れたのをほかにどう表現できるだろう)」してから浮かべている、なんとなく面倒くさそうな表情を浮かべてこちらをみている。
ので、そのまま続けることにする。
「分からない? じゃあお得意のインターネットで調べてみれば? 人手不足、閉店、撤退なんてキーワードを入力すれば、何件でもヒットするから」
促せば、男の手にはいつの間にやらスマホが握られていた。
あたしよりもよほど操作になれているのか、片手で素早くボタンを押し、画面をスクロールさせている。
「わかった?」
頷き一回。
反応はそれだけで、まだ画面から目をはなさない。
あらあら。
自分で話す時には(話しているんだから当たり前だけど)饒舌だったくせに。きっと死神の世界では、「話すときは相手の目を見るか、せめて顔は向けなさい」なんて習わないのだろう。
「そうね。すこしおかしくなっているのかも。この言葉は嫌いだけれど、世の中? 世間? それを構成する私たちが。ま、嫌がってもどうにもならないけど」
あたしは男―――身長は、160センチに届かないあたしより目線が少し上だから、170なかば?中肉。朝の電車で5人はみかけるそこそこ整えた短めの黒髪、銀縁めがねが反射してよくわからないけど、たぶん黒目。
伸び始めた無精ひげが徹夜明けを想像させる風貌だけれど、とりあえず日本人男性に見えるので、「彼」だろう―――の無表情とも違う顔をあえてみつめながら話つづける。
「ま、そんなわけで、いくら『良い仕事』って言われても、簡単に飛びつく人間はいないのよ。少なくとも私は違う」
スマイル0円が基本の日本でも、やる気のない店員や営業はいる。
でも自分で出てきたんだから、仕事してもらうわよ。
あたしは求職活動に疲れてひさしく感じてなかった闘志を胸に、男の反応を意地でも引きずり出すことにした。
「じゃあなんであなたのサイトにアクセスしたかって?」
お、反応あり。
スマホの画面から顔をあげて、続きをうながしているつもりなのか、首をかしげている。
「まぁ……馬鹿馬鹿しかったから? 退屈してたからかも。『この仕事で成功すれば金は得られますが、失うものもあります』って書いてあるのはある意味正直だとも思ったし。アフィリエイトでよくあるじゃない?『このリンクにアクセスするだけであなたも億万長者に』なんて。馬鹿馬鹿しいったらない」
「ってことはつまり、契約してくれるんだろ?」
ひとの話を最後まできかず、男はそう言うと胸元をごそごそ探って、ふたつ折りにした用紙を取り出し。
「さぁサインしてくれ。そこのペンでいい」
どう見てもコピー用紙にプリントしたようにしか見えないチープなその紙―――雇用契約書と明朝体で書いてある―――を目の前につきだした。
良くみれば紙の角が折れている。
おい。
まがりなりにもそれが「死神の契約書」なら、ラテン語なんて言わないけれど、もっと重厚な外見と扱いをしなさいよ!
「あのね。ひとの話聞いてた?いまは求人側が必死に努力するの。それくらいサイト立ち上げの際に調べときなさいよ。インターン制とか。給与補償がわりに先払いとか。あなたのこと信用もしてないのに、契約なんか結ぶわけないじゃない」
さも呆れましたと、盛大にため息をついてみせたあたしにむっとしたのか。
「それはこっちもそうだろう。なんなら別の奴にこの話を持ってったていいんだぜ?」
紙をひらひらさせながら、男がいきなり強気発言をしてきた。
お、そうくる。
ふん、素人が。交渉したいんなら、相手をよく見ろってのよ。
「そう思うなら、他を探せば? 私はチャンスをつぶすことになるけど、それはこちらの問題でしょう。地球には人間だけで70億以上いるんだから、ひとりくらいあんたのずさんな誘いに乗る人もいるかもしれないしね」
鼻で笑ってやる。
「だってあなた、『本物の』死神でしょう。人間だけで70億以上の命を回収するんなら、死神家業はひとりじゃできないようだし。あなた奥さんいるって言ってたから、まぁこちらで言うサラリーマンみたいなものでしょう? で、会社が下請けやアルバイトを雇うように、あなたも他のご同業も、こうして代りを物色している、と」
「いまのところこの画期的なシステムを思いついたのは俺だけだ。それに死神には通常、死ぬ時にしか会えない。だからあんたにつぎはない」
「あらそう? 私はあなたに、まぁ別に嬉しくもなんともないけど会えたじゃない。これが万にひとつのチャンスなら、そもそも私が当たるわけないし、一度ある事なら二度もあるわよ」
「わかった。もういい」
肩をすくめて見せたあたしに、男が突然、両手を前に突き出した。
「あんた、俺の奥さんにそっくりだ。理屈っぽくてめったに信用しないし、何よりしつこい。愛しの奥さんならそれもいいが、仕事相手ではごめんだ。俺はもともと仕事なんか嫌いだから、それ以上やっかい事を増やしたくはない」
いかにもうんざりしたというような男の言葉に、あたしはまた肩をすくめてみせた。
「そ。じゃあこれで」
お帰りはあちらと、玄関―――はやめて、窓を指した。
だって「死神」なんだから空くらい飛ぶか、空中で消えてみせるかするでしょう?
「だから、とっとと片付けよう。何をすれば信用する」
そう考えていたのはこちらだけだったようで、憮然とした表情を浮かべた男が腕を胸の前で組んでいって来た。
信用、ねぇ。
「……さあ? 死神なんだからひとの心ぐらい読めるんじゃないの? 偏見かもしれないけど」
「そんな便利な能力があれば苦労はしねぇよ。これまでの経験からある程度は予測がつく。それだけだ」
「ふ~ん?」
「あんたは疑り深そうだし、俺は手間なんかかけたくない。かといって今から他をあたるのも面倒だ。待つのも嫌いなんでね。だからてっとり早くして欲しいことをいってくれ」
「ふ~ん……?」
いきなり何もないところから現れた(ように見える)男を、しかも死神なんて名乗るおかしな奴を、信用する術なんてあるのだろうか。
けれど求職活動がことごとく失敗に終わっている今、ちょっと違うアプローチをしてみることも必要なわけで。
「要は、この求人――契約内容? が公正かどうか確かめられればいいのよ」
「ふんふん」
「だから例えば、さっき言ったみたいに報酬は前払いしてもらって、一回仕事を試しにしてみるとか」
「わかった。それでいこう」
男はかぶり気味にそう言うと、手に持っていた紙にすっと手をかざした。
「これでいいか?」
そう言って再度さしだされたその紙、どうみてもコ○ヨのコピー用紙にしか見えないその紙には、あたしが言ったお試しの内容が記載され、「雇用契約書」の後ろに「試用」の文字まで付け加えられている。
前払いされる報酬の部分が空欄なのは気になるけれど、本当に気になったのはそこじゃない。
男は、紙に手をかざしただけだ。
たった、ほんの数秒。
なのに紙に書かれた(印刷された?)内容は、いまあたしが言ったものに変わっている。
つまり、あたしが言う内容を予想してあらかじめ用意していた紙を、フーディニーばりにすり替えたのでなければ。
この男は人ならざる力を持っているモノ、男が言を借りるならば、本当に死神なのかもしれない。
つまり。それと試用とはいえ契約を結ぶということは。
そこまで考えて、目の前に突き出された紙が、それを持つ男が、初めて恐ろしいものに思えてきて、後ずさりかけたあたしだったけれど。
あぁいやだ。
あの時、心底そう思ったことを、思い出した。
相手がその金をどうやって入手したにせよ、あっちは使えるカネを十二分に(本人にとっては足りないらしいが)持っていて、あたしは持っていない。それが現実だったことを。
さらに悪いことに、老い先短いといつもほざくあのババアと違って、あと70年は生きるつもりのあたしには、生きる為のカネが必要だとということ。
あぁいやだ。
いくつになっても、他人のカネに頼っているうちはずっと、ぐちゃぐちゃ言われつづける。
あぁ嫌だ嫌だ嫌だー。
二度とこんな惨めな立場には立たない。
あたしはあの時、それを自分に誓ったのだ。
男が、死神がさしだす紙を手に取り、あたしは短い逡巡を終えた。
「いいわ。確認したい事はまだあるけれど、これで手を打ちましょ」
紙を取る時に触れた指先は、やっぱりとても冷たかった。
続きは明日。