第14話:記憶
シャイナは眼鏡を外し、眉間を押さえた。
朝から図書館に籠もりっぱなしで、休息も取っていなかったことに思い至る。書物と睨み合いをし続け、目の疲れはピークに達していた。
(今日はこれくらいにしよう)
シャイナは本を借りるために貸出窓口へ向かった。
「召喚術とその歴史」、「薬草辞典」、「元素変換を用いた剣術」――実践試験の初日までにこの三冊は読み切ってしまいたいと密かに決心していた。
実践試験も重要ではあるが、筆記試験だって生易しいものではないのだ。実践試験に浮かれて、肝心の座学が疎かになっては元も子もない。
成績の良し悪しは問題ではない、要は卒業できればそれでいいのかもしれない。ギリギリの点数でも学園を卒業する資格は与えられる。
だが、学年トップをキープし続けてきた、シャイナのプライドがそのような考え方を許さなかった。
――勉強も実技もできて羨ましいわ。
耳にたこができるほど、シャイナはその言葉を言われ続けてきた。
努力をしないでトップを勝ち取ったわけじゃない。たゆまぬ努力の上に、今の彼女があった。シャイナの、血の滲むような努力を理解してくれている人は少なかった。
「自習ですか。相変わらず努力家なのですね。シャイナ・フレイア」
図書館を出たところで、シャイナはふいに呼び止められた。そこにいたのは、彼女が敬愛する教官――ポラジット・デュロイだ。
ポラジットの耳にぶら下がっている赤いピアスの眩しさに、シャイナは目を細めた。
「きょ……教官!」
緊張でシャイナの声が裏返った。
(やだ、かっこ悪い。デュロイ教官と話すことは珍しいことじゃないのに)
いつになってもシャイナはポラジットとうまく話すことができなかった。それほどシャイナにとっては尊敬すべき、憧れの人なのだった。
「皆が実践試験に気を取られている中、勉学に励んでいるのはあなただけですよ。戦闘訓練も大切ですが、基礎知識がなければ最善の対策はできません。あなたの知識はきっと窮地で役に立つでしょう」
そう言うと、ポラジットは柔らかな笑みを浮かべた。シャイナは真っ赤になった顔を見られないよう、地面を見つめた。
「デュロイ教官は、何をされていたんですか」
「私も図書館で実践試験の下調べをしていました。実施場所をそろそろ決めないといけませんからね」
ポラジットは内緒ですよ、と言いたげに、人差し指を立て、唇に軽く押し当てた。その仕草を見て、シャイナはクスリと笑う。
大切な人と秘密を共有しているような、甘酸っぱい気分がシャイナの胸を満たした。
「館内であなたに一言声をかけようかと思っていたのですが、私に気がつかないほど集中していましたね」
「あ……すみません、全然周りが見えてなくて……」
シャイナは今までにこれ以上ないというほど、自らの視野の狭さを恨んだ。
ニコニコと笑顔を絶やさないポラジットの表情を見て、シャイナはふと、初めてポラジットと出会った時のことを思い出した。
あの時からポラジットは随分変わった。具体的に言うと……人柄が丸くなったというのが一番しっくりくるかもしれない。
「教官はあの頃より、穏やかになられたた気がします。私が教官を初めてお見かけした、五年前から。覚えていらっしゃいますか?」
「五年前……? 私が十三の時……ちょうど兵役義務を果たすため、タヒクの街で任に就いていた時ですね。あの頃にあなたと会っていたのですか?」
五年前に思いがけずシャイナと出会っていたことを知り、ポラジットは目を丸くした。
シャイナは記憶の引き出しからポラジットとの思い出を引っ張り出す。大切な、大切な、彼女だけの思い出。
ポラジットも覚えていてくれたら――とそう思っていた。だが、その願いは叶わなかった。
覚えていたのは、シャイナだけだった。シャイナは短く息を吐き、なんとか笑おうと顔を上げた。
「わ、私っ、タヒクが生まれ故郷なんです。父はタヒク領主でした」
「まあ……タヒク出身なのですか。タヒク領主であるお父上……カリドラ様にはとてもよくしていただきました」
シャイナの隣で、ポラジットは懐かしそうに目を輝かせた。
シャイナの父、カリドラ・フレイアもポラジットのことは高く評価しており、シャイナが学園に入学する際にもポラジットのことばかり話していたほどだった。
ポラジットは十二歳という若さで学園を――それも首席で――卒業した。本来なら十六で入学し、三年で全過程を学び終えることから鑑みると、異例のスピードだった。
そしてポラジットは卒業後、ユリーアス共和国軍南方支部に配属され、シャイナの故郷タヒクで街の警護を任されていた経歴がある。
「あの日、復活祭の前夜……祭りで浮かれていた街を狙って、義賊を名乗る集団が攻めてきました。
私の屋敷にも賊の手は伸び、私は人質として捕らえられてしまいました。……そんな私を助けて下さったのがデュロイ教官でした」
「あぁ……あの時の女の子……。あれはあなただったんですね」
五年前、タヒク郊外の細いあぜ道――誰一人通っていない寂しい通りで、シャイナを攫った賊の馬車を止めたのは一匹の黒い狼だった。
狼を従えていた小柄な少女の姿は、今でもシャイナの瞼の裏にくっきりと焼きついて離れない。青い少女は、実際よりもずっと大きく見えた。
濃紺の軍服を纏ったポラジットは凛と佇み、杖を一振りした。その刹那、黒狼の姿をした召喚獣は容赦なく暴漢を襲い、シャイナは無傷で救出されたのだ。
「昔の教官は……失礼ですが……厳しい方でした。問答無用で裁きを下すその姿は、頼もしくもあり畏れ多いものでもありました」
「あの頃は必死だったのですよ。なんとか周りの期待に応えようと」
他人にも厳しく、それ以上に自分に厳しいその姿にシャイナは強い憧れを抱いたものだ。この人のようになりたい。強く、気高く。
(……だけど、それももう終わり)
「では、教官。私はこれで失礼します」
校舎の出入り口、豪奢なメインホールまで到達すると、シャイナはポラジットに一礼した。学園寮は学園の敷地外にある。シャイナは名残惜しそうにポラジットの小さな体を見た。
しかし、立ち去ろうとしたシャイナをポラジットは押しとどめ、その肩に手を置いた。
「学園寮へ帰るのですが? でしたら、転移門まで見送らせてくれませんか? 思い出話をもう少し聞かせて欲しいのです」
嬉しい、と反射的に胸が弾んだ。
こんな不毛な思いはもう終わりにしなければ、と思ったはずだった。
シャイナは頬を染めながらこくりと頷き、ポラジットと肩を並べて歩き出した。
正門からまっすぐ伸び、湖の上を走っている石造りの桟橋。桟橋の先には、学園と外界を結ぶ唯一の転移門がそびえ立っている。
転移門がもっともっと届かないほど遠いところにあればいいのに。
そうすれば、いつまでも教官とこの橋を並んで歩き続けられるのに。
シャイナはちらりと隣を歩くポラジットの横顔を見た。
「え、デュロイ教官……?」
ポラジットの唐突な変貌に、シャイナは目を丸くした。
それまで見せていた穏やかな表情とは打って変わり、ポラジットの顔つきは険しいものになっていた。ほんの束の間、シャイナは五年前の厳格なポラジットを垣間見た気がするほどに。
「見てください、北の方角……妙な空模様ですね。天候の変化とは思えません」
シャイナも倣い、北を見やった。
確かにポラジットの言う通り、曇が出ているわけでもない。それなのに――空は重く、薄暗い。淀んだ血を思わせる不吉な色だ。シャイナはぶるりと身震いした。
ポラジットの歩く速度が早くなる。シャイナも遅れを取るまいと、小走りになって後を追った。
「シャイナ。あなたは早く寮にお戻りなさい。私は北へ向かいます」
「教官、私もお供させてください! いえ……噛りついてでもついていきます!」
「何を……。認めません、危険です」
「もし人に危害が加わっていたら、デュロイ教官お一人で対処しきれるとは思えません。教官のお力を信用していないのではありません。人々を安全な場所へ誘導する必要もあるかもしれないということです」
「いえ、やはりあなたは戻って、学園に報告を……」
「あの異変なら、きっとすでに誰かが報告しているはずです。それに、学園が対処するより、現地に赴き、軍か自警団と連携を取るべきかと」
教え子の主張に気圧され、ポラジットは黙り込んでしまった。言い分は最もだった。
シャイナの言葉に偽りはなかったが、本心は別のところにあった。ポラジットが一人で戦い、危害が加わることを恐れていた。
ポラジットは目を閉じ、天を見上げた。
「呼出」
ポラジットの呼び声に応え、現れたのは……メイド姿の召喚獣・カナンと妖精・リーフィだ。
「カナン、リーフィ。シャイナを守りなさい、必ず」
「御意」
「キキィ!」
二人にそう告げると、ポラジットは決意したかのように、毅然とした態度でシャイナに向き直った。
「シャイナ・フレイア。ついてきなさい」
「はいっ!」
ポラジットが転移門の石版に右手を置く。それから空いた左手をシャイナに差し出した。シャイナとポラジットの指先がかすかに触れた。
「シャイナ、自身の身を守ることを最優先にすると約束してください」
「分かりました」
光があたりを包む。
この先、何が待ち受けているのかは分からない。けれども、シャイナは強く心に言い聞かせた。
(私は――私の思いを曲げることはないだろう。もう決めたんだ)
「北へ!」
ポラジットが短く告げる。
一瞬、目の前が弾けたかと思うと……次の瞬間、シャイナたちの体は北の転移門へと移動した。




