第6話:安らかな眠りの前に
生者は眠りに身を委ね、静寂が世界を支配する刻。
誰かがポラジットの書斎のドアを慎ましやかにノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
ポラジットはベッドサイドの小さな文机で、古い文献に目を通しているところだった。ギッと椅子を軋ませながら振り向くと、カートを押しながらカナンが部屋に入ってきた。
「失礼します。温かいミルクをお持ちしました。……出過ぎたことを申し上げますが、今日はもうお休みになられてはいかがですか」
カナンが気遣わしげにポラジットを見つめた。ポラジットはカナンからカップを受け取ると、ちょうどいい温度に温められたそれを口にした。
(カナンの言う通り、休息が必要なのかも……)
温かいミルクがポラジットの胃に収まると同時に緊張がほぐれ、ゆったりとした眠気がポラジットを包んだ。
「そうですね。寝る前に……少し話をしませんか、カナン」
カナンは一礼し、失礼しますと書斎の隅にある木製の丸椅子に腰かけた。
先ほどのハルカが言った言葉をもう一度、カナンに問うてみたい。ポラジットはそう思った。
「カナンは……私から離れて、自由になろうと、本当に思わないのですか」
カナンは大きく目を見開き、それからすっと優しげに鳶色の瞳を細めた。
「ハルカ様がおっしゃったことを気になさっているのですか。私はそんなこと、一度も思ったことはありません」
「でも、私はあなたを無理矢理異世界から召喚したのですよ。それも、使用人として」
アイルディアでは使用人を異世界から召喚することは普通のことだ。給料を支払う必要もなく、何より主人に忠実で刃向かうことがない。
もちろん、ハルカのような「魂ある者」を召喚することは容易なことではなかったが、「魂なき物」を召喚し、アイルディアにおける命を与え、人型の召喚獣として使役することは日常茶飯事だった。
「召喚獣の、主人に忠実であるという性質を除いたとしても……私はポラジット様から自由になろうとは思わないでしょう。
元の世界の私は……朽ちた一本の樹木でした。ポラジット様はそのような私に、自由に動ける体と思いを語る言葉を下さいました。どうしてお恨みすることがありましょう」
カナンは戸惑うポラジットに近づき、ポラジットの右手の上に、そっと自分の両手を重ねた。
「ありがとう。あなたのその言葉に救われました」
ポラジットは空いている左手を、カナンの手の上にさらに重ねた。
召喚術は、アイルディアでの暮らしを豊かにするための術だと……ポラジットはずっと思ってきた。しかし、自らの欲望を満たすための術だとも言えるのではないだろうか。ハルカに出会ってから、ポラジットは召喚術の在り方について、自問自答を繰り返していたのだった。
しばしの沈黙の後、ポラジットの前に開かれた書物を見て、カナンが口を開いた。
「ハルカ様を元の世界にお戻しになる方法を……まだ探していらっしゃるのですか」
「ええ。試験の件もあるし、最近はあまり調べ物もはかどらないけれど」
「諦めてはおられないのですね。ハルカ様でさえ、随分と元の世界に帰りたいなどと口にされておりませんのに」
カナンの言葉にポラジットはゆっくり首を横に振った。ハルカの言葉の端々に、元の世界への強い思いがあることにポラジットは気づいていた。アイルディアの諸々を見ては、元の世界のあれこれに似ている、などと呟くハルカ。元の世界に焦がれていないわけがなかった。
自分たちの都合でハルカを巻き込んだのだ。元の世界に帰して、ハルカに元の暮らしを送ってもらうことは、ポラジットの望みにもなっていた。
「ハルカは今も、帰りたいと思っていますよ」
ポラジットは空になったカップをカナンに差し出した。カナンはカップを受け取り、カートの上にそれを戻す。
「微力ではありますが、私もお手伝いいたしますので、何でも仰せ付けてくださいませ。もう今日はお眠りになってください。おやすみなさいませ」
「ええ、おやすみなさい、カナン」
カナンが書斎から出て行くのを確認し、ポラジットはどさりとベッドに倒れ込んだ。
体が鉛のように重く、どろどろと意識が沈んでいく感覚がポラジットを襲う。
「老師。老師なら……どうされますか……」
ポラジット、お主が思ったようになすがいい。
いつかの言葉を思い出す。
(……老師なら、今も変わらず、きっとそうおっしゃるんでしょうね……)
そのままポラジットは深い眠りに身を委ねた。




