第4話:海の大蛇(前編)
自分のよく知る日常とはかけ離れた光景が広がる。
ハルカは自分の目を疑った。
もちろん、ここまでも見たことのないもので溢れかえっていたが、今はそれ以上に驚愕していた。
「なんだよ、あのでかい海蛇! それに狼まで!」
わけが分からない。
頭を抱えてしゃがみこみたいのは山々だったが、どうやらそれどころではない状況だということはハルカにも理解できた。
水飛沫をあげながら迫りくる海蛇と、雷を身に纏った黒い狼を眼前に冷静でいられる方がどうかしている。
崩れ落ちそうになる足腰を必死で奮い立たせ、ハルカはなんとかその場に踏みとどまった。
「ハルカ、あなたは下がっていてください。ここは私たちに任せて、お逃げなさい」
「そうそう、海に落ちでもしたら一たまりもないよ~! ちなみにおいらはカナヅチだから助けにいけないからね」
説明を受けている暇はないようだった。
(こんなところでくたばるわけにはいかない……。見知らぬ土地で一人寂しく消えていくなんて……絶対に嫌だっ!)
ハルカはポラジットたちの忠告を素直に受け入れた。
連合軍が自分を拘束しているのも事実だが、自分の身を守ろうとしてくれているのも事実だ。
そして、自らの身を守る術を持たないハルカはただただ逃げることしかできないのだ。
「くっ……!」
ハルカは揺れる甲板上を懸命に走り、船尾へと逃げる。
円形のガラスがはめ込まれた木戸を開き、息を切らしながら部屋の中へと飛び込んだ。
背中の戸を閉め、もたついた手で鍵をかける。
「……っはぁ、はぁ」
肩を激しく上下させながら、ハルカは室内をぐるりと見回した。
どうやらハルカが逃げ込んだのは避難用の簡易ボートや浮き輪が収納されている倉庫のようだ。
部屋の薄い板はどこか隙間が空いているのか、ヒューヒューと音がした。
板一枚隔てただけだが、戦闘音が遠ざかったように思え、ハルカはそっと胸を撫で下ろした。
(一体、この船はどうなるんだ……)
ハルカは丸窓から外の様子をうかがった。
*****
海蛇の濁った瞳が船を舐めまわすように見つめた。
任せろ、と言ったものの、怪我人を優先して乗せているこの船には戦力という戦力はないに等しい。
ポラジットはどう戦うべきか思案した。
つい先刻まで柔らかな光を湛えていたポラジットの青の双眸が、凍てつく氷河の色を帯びる。
戦闘を前に、彼女の思考は熱を失う。
冷静な判断が迅速な任務遂行への近道だ。
そこでは一切の感情を捨てねばならない。
思考が整理されればされるほど、ポラジットの指先は冷たくなった。
体が戦うための機械になる感覚。
ポラジットはこの感覚が嫌いではなかった。
彼女が『青の召喚士』と言われる所以はここにある。
単に外見によるものだけではない。
冷徹な彼女の戦闘スタイルがそう呼ばせているのだった。
「ハロルド将軍、私とフェンリルで海蛇を引き付けます」
「了解~。怪我人のフォローはライラに丸投げしちゃおっか。僕たちは船首を死守しよう。僕は海蛇の頭を狙う。君は海蛇の動きを封じてくれ」
「分かりました。では……戦闘、開始します!」
ポラジットが杖を一振りする。
その動きに応じて、フェンリルが甲板を蹴った。
召喚士はどんな時でも一歩先を読まなければならない。
それがポラジットの師ダヤン・サイオスの教えであった。
戦闘を予測し、予め召喚獣を配備させておく。
相手の動きを見て、召喚獣に指示を出すのだ。
召喚士はただ召喚獣を喚べばよいというものではない。
喚んだ召喚獣を効率的に使役するのが一番大切なのだ。
「フェンリル、行きなさい!」
蒼穹の杖が放つ光が強くなる。
フェンリルの口に紫の雷が収束する。
パリパリと爆ぜる音がし、雷は大きな球体になる。
走りながら雷を集めるフェンリル。
狼が通った跡上に紫雷が尾を引く。
フェンリルが迫るのを認め、海蛇の口から耳をつんざく金切り声が発せられた。
ガラスに爪を立てるような音に、ハロルドがあからさまに顔をしかめる。
聴覚の優れた獣人族には相当堪えるのだろう。
海蛇が大きく体をよじる。左舷に船体がぐらりと傾いた。
「フェンリル! 右です!」
右舷方向、海中から海蛇の尾が現れた。鋭く尖った尾びれがフェンリルの体を裂こうと唸る。
「援護するよ~っ……爆破弾!」
突如、銃声。
ハロルドの二丁の拳銃が火を噴いたのだ。
金の銃身に黒革のグリップという派手な銃が、毛むくじゃらの手の中で煙を上げた。
放たれた銃弾は真っ直ぐ海蛇の尾びれを目指す。
銀色の弾丸が尾ひれに着弾し、その刹那、轟音とともに爆発した。
爆風で、海蛇の尾が進路を変える。
振り下ろされるはずだった尾は、弾き飛ばされた。
その尾ひれは僅かに帆船の帆を裂くにとどまった。
「放て!」
ポラジットが高らかに叫ぶ。
フェンリルの速度が増し、ぐんと海蛇に近づいた。
「がああぁぁぁぁっ!」
フェンリルが咆哮する。
雷の球が海蛇の腹部を狙う。
ハロルドの銃撃で体勢を崩していた海蛇は、フェンリルの攻撃を避けようとするも間に合わない。
雷の球体は海蛇の腹部に直撃した。
「キィィィッ!」
魚が焦げたような生臭い臭気が漂う。
海蛇の腹部の一部が赤黒く爛れ、変色していた。
海蛇は悶絶し、さらにその身を捩じらせる。
帆船の周囲が荒く波立ち、揺れと衝撃がポラジットたちを襲った。
「戻りなさい! フェンリル!」
フェンリルが踵を返す。
暴れ、船体に体を打ち付ける海蛇を避けながら、ポラジットの足元へ駆け寄る。
そして、ポラジットは再び杖を掲げた。
杖の動きに合わせ、フェンリルが帆柱を駆けあがった。
三本ある太い柱の内、最も太い甲板中央の柱をフェンリルは器用に登る。
フェンリルの動きに気づいた海蛇が目を赤くする。
体を膨張させ、背びれを広げる。
その次の瞬間、一気に体を縮ませ、背びれから無数の針を放った。
「フェンリルちゃんの邪魔はさせないよ……なんてね。散弾!」
ハロルドはフェンリルと海蛇の間に走って割り込み、銃に素早く弾丸を詰め込んだ。
銃口を海蛇に向け、ハロルドが引き金を引く。
銃弾が射出されるやいなや、弾が分裂。
散らばった銃弾が、海蛇の針を次々と撃ち落としていった。
その間に、フェンリルは帆柱の頂上に到達する。
フェンリルの目の高さと海蛇のそれが等しくなる。
「浮遊! さらに攻撃!」
ポラジットの足元に魔法陣が現れる。
召喚術の緑のものとは異なり、魔術のそれは青白く浮かび上がり……一瞬きらめくとすぐに消失してしまった。
「飛べ! フェンリル!」
消えたはずの魔法陣がフェンリルの足元に現れた。
空を渡るための足場となり、海蛇の頭まで等間隔に描かれる。
フェンリルは魔法陣を伝い、ポンポンと軽やかに浮遊した。
瞬時に距離を縮めるフェンリル。
だが、海蛇も黙ってはいない。
自分の縄張りに踏み込まれたものを食いちぎらずにはいられないのだ。
メリメリと嫌な音を立て、海蛇の体に亀裂が走る。
そして──海蛇の胴体が裂け、そこから別の海蛇の頭が生えた。
「くっ! 下がって、フェン……!」
ポラジットの指令が一瞬、遅れた。
双頭の海蛇が首をくねらせ、フェンリルに向かって頭突きを繰り出す。
フェンリルは……避けきれない。
海蛇に比べれば小さなその体が、宙に舞った。
「キャゥンッ!」
微かな叫び声をあげ、黒い狼の体が跳ねる。
甲板に打ち付けられたフェンリルは、毬のように跳ねながら船尾へと転がった。
フェンリルが衝突した箇所の板が折れ、粉々になった木くずが散る。
(しまった、フェンリル……! その先は……!)
ポラジットはフェンリルが弾かれた方に振り返る。
ハルカが船尾の一室に逃げ込んだことを思い出す。
(このままだとハルカが巻き込まれる……!)
フェンリルの転がる勢いは削がれることなく、ハルカが逃げ込んだ小部屋に直撃した。
もうもうと埃が舞いあがった。視界は遮られ、周囲の様子を視認できない。
(フェンリル……それにハルカはどこ!?)
海蛇の攻撃をもろにくらったフェンリルが、ハルカの避難した部屋に激突。
その衝撃で部屋が大破してしまったところまでは、ポラジットは認識できていた。
しかし、その後フェンリルがどうなったのか、海蛇がどこにいるのか、そしてハルカが何をしているのか。
眼前が霞み、影をとらえることさえも敵わない。
それはポラジットだけではなく、ハロルドもまた同様だったようだ。
「お、お~いっ! みんな、無事か~?」
少し離れた場所で、ハロルドの声がこだまする。
近くにいるはずだが、ハロルドの姿さえも映らなかった。
フェンリルはどうやら気絶しているようだった。
ポラジットの呼びの声に応える気配はなかった。
海蛇にも自分たちの姿は見えていないだろう。
だが、海蛇は視界も広く、上空から甲板を見渡せる状態にある以上、ポラジットたちの方は圧倒的に分が悪い。
「風よ! 吹風!」
視界をクリアにし、一刻も早く状況を把握することが先決だった。
ポラジットが起こした海風は、埃を巻き上げていく。
甲板上にいる人の影が浮かび上がる。
真っ白だった視界が開け、物の輪郭が明瞭になる。
折れた木板の山が、カラリと動いた。
そして、その下から蠢く人影が姿を現した。
「い、ててて……」
「ハルカッ!」
頬に擦り傷はあるものの、ハルカに大きな怪我をした様子はない。
手枷のせいで、思うように瓦礫の山から抜け出せないのか、ハルカはふらりとよろめいた。
ポラジットがハルカに向かって駆け出す。
無防備な彼をそのまま放置しておくわけにいかなかった。
だが、海蛇がポラジットの動きに気づいた。
ポラジットが目指す先には――丸腰の少年。
「シャァァァァァ!」
双頭の海蛇が唸りをあげ、ハルカに牙を剥いた。