第3話:フェンリルの日常
フェンリルの朝は――不規則だ。
それもそのはず、《主》であるポラジット・デュロイの命で、召喚されている時のみ、アイルディアでの時間軸で彼は存在できるのだ。
元の世界にいる間は、元の世界での生があるのだろうが……なにぶん、はっきりとした記憶がない。
ただ、自分が真に存在するべき場所が別にある、ということと、元の世界での自分の姿もまた、狼のような生き物であったということだけは、誰に言われずとも分かっていた。黒雷狼の姿は、アイルディアでの姿。本当の自分は、こんなにも強靭な存在ではない。
最近は召喚される頻度が増えた気がする。
今日もまた、珍しく《主》は幻獣たる自分を喚びだし、究極召喚獣の少年との戦闘訓練を命じた。
少年が朝食を済ませ、訓練までの時間をどこかで過ごしている間、フェンリルはデュロイ邸の裏手にある、小ぢんまりとした丘の上で遥か遠くを見つめていた。
少年には明確な自我があった。元の世界での記憶と人格と、還りたいという意思。亡くなった《主》――ダヤン・サイオスに対する忠誠心は全く持ち合わせておらず、それを大仰に嘆くこともない。
召喚獣でありながら、不完全なその生態は、フェンリルにとっても興味深いものだった。
一度だけ、戦いの場で、フェンリルは別のフェンリルと対峙したことがあった。それはポラジットと同じ三級召喚士が、自身の杖を媒介にして喚び出した幻獣だった。
外見は同じ黒い狼だったが、本質――核にある生命の存在が違ったのをよく覚えている。目の前にいるのは、確かに同一の存在なのに、別のものであるという矛盾。
喚び出す術式さえ間違えなければ、同じ殻を被ったものを喚び出すことができるのだ。
そしてポラジットはその力量でもってして、目の前の敵と、その召喚獣を撃退した。
矛盾だらけの存在であることが、今でもたまにむず痒く、気持ちが悪くもある。
幻獣という圧倒的な力の代名詞として使役されながら、その根幹にある魂は曖昧で、不確かなものだ。
ここまではっきりとした考えをフェンリルが持っているわけではなかったが、それでも、その身で感じた違和感は本物だった。
だから、初めて少年の覚醒の瞬間を目の当たりにした時、ほんの少しだけ、羨ましく思った。
幻獣の王たる究極召喚獣。
その力は未だ完全ではないにしても、刹那に垣間見たその魂の輝きだけは、唯一無二のものなのだと悟ったからだ。
彼はこの世界で同時に複数存在し得ない。
その殻も魂も含めて、王のカタチ――それが、究極召喚獣だ。
海上で魔物と戦った時、窮地に陥ったフェンリルは自然と少年に従っていた。《主》の声が聞こえなかったわけではない。その時は単純に、少年に従わねばならないと思った。
フェンリルはふと顔を伏せ、足元で揺れる草の匂いを嗅いだ。湿った土の匂いも混じったそれが、フェンリルは好きだった。
どうも、地面に近い場所で生きているせいか、この匂いがないと落ち着かない。足の裏をくすぐる、ふかふかとした感触も、フェンリルを安心させた。
不意に風が少年の匂いを運んできた。
フェンリルは面をあげ、丘の麓から駆け上がってくる少年を見つめた。
「フェンリルー!」
少年は《主》と同じように、話しかけてきてくれる。
狼である彼は、言葉が話せるわけでもないし、他者と思念を共有できるわけではなかった。が、少年は何かにつけて、語りかけてくるのだ。
「遅くなって悪ぃ、へへっ」
そう言って鼻をこすりながら、少年は狼の隣に腰かけた。訓練に使う模擬刀も忘れてはいない。駆けてきた少年は、呼吸を整えたいのか、しばし胸を押さえた。
「ちょっとだけ休憩させてくれよ。さっきリーフィのヤツがさぁ……」
フェンリルはその場に伏せて、少年の話に耳を傾けた。
今すぐ訓練を始めねばならないということでもないし、もう少しだけ、このままでいてもいいだろう。
雲一つない空、というわけでもないが、穏やかな陽気は彼の黒い毛皮をほどよく温めた。暑い夏だが、風があるおかげで幾分かは暑さもマシだ。
「…………」
少年の声が途切れる。
うーん、と唸る少年は再び口を開くと、黒狼に向かって問いかけた。
「なぁ、お前って、いつもフェンリルなのか?」
「…………?」
フェンリルは首を傾げ、少年を見上げた。
「いや、聞き方が悪かったか……。何度も喚び出されてるけど、毎回同じフェンリルなのか?」
フェンリルは目を瞬かせた。戸惑いを隠しきれず、くぅん、と小さな声が漏れる。
そんな風に聞かれてしまうと、本当はどうなのだろうかと疑問が芽生える。
確かに同じ自分だと思っていた。
でも、殻が同じだけで……全てが同じだと錯覚しているだけだとしたら――?
その時、そんな迷いを見透かすかのように、少年がぐっと彼の瞳を覗き込んだ。深い茶の瞳が、フェンリルの顔を映し出す。そして、うーん、と呟くと、こくこくと首を縦に振る。
「あぁ、変なこと聞いてごめんな。お前は……フェンリルだ、うん。いつものお前だ」
少年はフェンリルの頭をくしゃくしゃと撫でると、草地に仰向けになって寝転がった。
「うんうん、俺と一緒に戦ってくれたお前だ。ポラジットはいつもお前を間違えずに喚んでくれるんだな……フェンリル!」
フェンリルは耳をピンと立て、屋敷の方を見つめた。
今の少年の言葉がすべてだった。
《主》が選んでくれたのは自分であること、そしてまた、自分も《主》にとって唯一無二の存在であったこと。
――それで、十分だった。
フェンリルは起き上がり、少年の傍にある模擬刀をひょいとくわえあげた。
そろそろ訓練を始めなければならない。少年の師であった幼子がいなくなってしまった今、少年に戦い、生きる術を教えてやらねばならないのだ。
「え!? もうやるのかよ! たまにはサボろうぜ〜」
少年が、還る道を誤らぬよう、《主》とともに支えていかなければならない――真の覚醒を迎えるその時まで。
「なぁ、フェンリルってば!」
時には、厳しくすることもまた、必要なことなのだと。
フェンリルは全力で尻尾を振りながら、丘の上の平地へと駆けて行った。




