第1話:カナンの日常
カナンの朝は早い。
使用人である彼女は、《主》に心地よい一日を過ごしてもらうことを何よりも優先している。
主人に尽くすべき自分が、主人より起床が遅いなどもってのほかだ。毎朝、三の刻――主人より三の刻も早い起床時間だ――にはきっちり目を覚まし、急いで身支度を整える。
落ち着いた茶色のメイド服を二着、クローゼットより取り出し、カナンは姿見の前で合わせてみる。一見同じように見えるが、わずかにカフスボタンが違う。一方は蔦をモチーフにしたもの、もう一方は花だ。
二着を見比べ、カナンは真剣に思案する。昨日は葉のボタンだった。今はその服は丁寧に洗濯され、この部屋で室内干しにしてある。もちろん、生乾き対策に薬草入りの洗剤で洗ってある。防臭、防かび効果も抜群の代物だ。
結局カナンは、右手に持った服を着ることにした。カフスは花。
今日の予定を復唱し、やはりこちらだと頷く。午後から来客の予定があるのだ。
深緑色のボブヘア、斜めに流した前髪を、ほんの少しの整髪油で固め、ヘッドドレスを身につける。寝癖など言語道断であるし、前髪一本落ちてくるのも防がねばならない。どんなに忙殺されても、髪を乱すという失態は許されない。そんなものはメイドの風上にも置けない。
姿見に映った自分を見て、完璧だ、と心の中で呟く。節度をわきまえたメイドは、そんな傲慢な言葉は口にしない。ただただ、思うのみである。
衣服の乱れは《主》の乱れとみなされかねない。あんな素晴らしい主人を、だらしがないとは思われたくない。
……が、最近どうやら、そうもいかないようだ。
「はぁ……」
ベッドとクローゼット、小さな書棚が置かれただけの簡素な部屋を後にし、カナンはため息をこぼした。
どうも近頃、デュロイ邸の風紀が乱れている。
その原因はどこにあるのか、カナンにははっきりと分かっていた。
キッチンに入り、カナンは氷室から卵を取り出した。その数、二つ。
召喚獣である自分とリーフィはめったに食事をとることはない。また、物を口にするとしても、木の実や野菜を好んだ。自分たちのルーツが植物にあるせいか、動物性のタンパク質は口に合わないのだ。
卵を食べるとすれば……この屋敷に住まう《主》と、それから、もう一人。
「…………」
思い出すだけで腹が立つ。
表情は微塵も変えず、しかし、卵を持つ手に若干の力を込めながら、カナンは卵をボウルに割り入れた。
いつもとは違う力の入れ具合に、卵の殻が悲鳴を上げる。カシャ、と小気味よい音を立てるはずのそれが、メリ、と軋む。
突如、居候となった少年は、恐るべきスピードで主人の心に入り込んでいった。
主人は語らないが、二人の間で何かあったことは確かだ。
時折、この邸に出入りする黒雷狼によれば、共に窮地を乗り越え、絆を深めたのだ、とか。しかし、同類とはいえ、狼と人型、明確に意思疎通できるわけではなく、漠然とした概要しか理解できなかった。それにフェンリルも少年に対して悪い気はしないようで、ますます当てにならない。
ともかく、主人が少年に心を開いていることは断言できる。それが、ほんの少しだけ、面白くない。
昨夜、寝かせておいたパン生地から濡れ布巾を取り去り、小さくちぎる。かまどの鉄板に等間隔に並べた後、マッチで薪に火をつけた。
ちなみに、カナンは元々火が苦手だ。だから、火を起こす能力は持っていない。その代わり、植物を育てることは大得意だ。庭の菜園も、カナンが丹精込めて手入れしているもので、主人の休みの日に共に草花を愛でることが密やかな楽しみだった。
卵を炒りながら、かまどの温度が上がるのを待つ。その間に、野菜サラダも盛り付けてしまう。
せっせと主人以外の食事を作るのが嫌だった。来客ならまだしも、新たな住人のために、だ。いつまで居候するかも分からず、こんな日が続いていくと思うと目眩がした。
温度の上がったかまどにパン生地を入れる。
クリーム色のミトンを外し、一旦引き出しに片付けた。
あとは主人の好物、カナンの特製ハーブティーの準備をし、主人の覚醒を待つだけだったが――。
「おーい、カナン、おはよう。悪いけど、一杯、牛乳をくれないか?」
予期せぬ声に、カナンの手ははたと止まった。
居候の目覚めがいつにも増して早い。朝食ギリギリまで部屋から決して出てくることのない彼が、台所の入り口に立っていた。
「…………おはようございます、ハルカ。お早いお目覚めで」
「あぁ……うん、今日は暑かったせいかな。寝つけなくてさぁ」
寝癖まみれの頭をボリボリと掻きながら、ハルカはふぁぁとあくびした。寝間着はそのまま、自らとは対照的に、怠惰をその身に纏ったような出で立ちに、カナンの口元がピクリと痙攣する。
彼女のささやかな嫌味に気づいていないのか――大して気にすることもなく、ハルカは台所に足を踏み入れた。
「ただ今牛乳をお持ちします」
一応、彼は主人が招いた居候である。主人に対する無礼がない限り、なるべく平常心で応えることにしていた。
ハルカはカナンから牛乳の入ったコップを受け取ると、腰に手を当て、一気に飲み干した。
その下品さに、出自が知れる――とは言え、一般家庭出身の彼には普通のことだが――と口走りそうなのを必死でこらえた。
「ぷはー! 生き返る!」
口元に残った牛乳の跡を袖でぬぐい、ハルカは常備食の入った棚を物色する。腹を空かせているのか、小瓶を手に取り、そこから主人の携帯食であるドライフルーツを摘んだ。
「んん! んまい!」
「そう、ですか……」
ただのドライフルーツがそんなに美味しいのだろうか、と疑問に思う。が、そんなカナンの疑問を余所に、少年は大げさに賛辞を口にした。
「カナンの手作りだったんだな、これ。前、ポラジットから分けてもらってさ。ドライフルーツってこんなに美味かったっけなーって」
「左様でございますか……」
「戦いに疲れた時、これを食べるって、ポラジットがさ。ほんと、涼しい顔してすげぇ食うのな、あいつ」
あいつ、と主人を呼んだことを咎めようと、カナンは口を開きかけた。しかし、ハルカの方が先だった。
「そりゃ、これだけ美味けりゃ食うよな〜。カナンの食事がなかったら、きっとあいつ、空腹でぶっ倒れてるんじゃねぇのかな。ポラジットって、自分のことは後回しって性格だろ? カナンがいなけりゃ、大変なことになってると思うぜ」
グッと言葉を飲み込んだ。
いや、マジで美味い、と絶賛しながら、次々とドライフルーツを口にする少年を、カナンは黙って見つめた。
いつだって、主人は仕事優先、任務遂行をモットーにしていた。
師であるダヤン・サイオスの顔に泥を塗らぬよう、少しでも役に立てるように、と。
だから、世間一般に、主人は優秀で有能であると言われ続けていた。その力も、主人のたゆまぬ努力の果てにあるものだというのに。
「この前、あいつさぁ……」
少年は主人とのエピソードを活き活きと話す。
同じ年頃の少女として扱い、自分を犠牲にする主人の性質をよく理解していた。ほんの数ヶ月の関わりしかなかったが、本当に主人のことをよく見ていた。
腹が立つことには変わりない。図々しいし、主人に近寄りすぎであるし、身の程をわきまえていないし――。
でも、少年は主人にとって、必要な存在なのかもしれない。
なんだか上手く丸め込まれたような気がして、それもまた、面白くないのだけれど。
不意にカナンはハルカの手元に目をやった。
「…………っ!」
叫びそうになるのを抑え込む。オレンジや赤の果実で満たされていたはずの瓶は、半分ほどまで中身が消えており、それでもなお、少年は摘み食いする手を止めようとしない。
カナンはハルカから瓶を強奪すると、棚から別の瓶を取り出し、無理矢理押し付けた。
「あれはマスターの携帯食です。空腹なのでしたらこちらをお召し上がりください」
それは、カナンのささやかな悪戯だった。
手渡した瓶には、アーシアプラムの酢漬け。アイルディアでも一、二を争う珍味だ。とても塩漬け単体では食べられたものではなく、ドレッシングに混ぜたり、料理のソースとして少量用いられるものなのだが――何も知らないハルカは、それを摘んで軽やかに口に放り込んだ。
「~~~~っ! すっぱ~~~~! でも、美味いっ!」
「…………っ!?」
ウメボシだ、ウメボシ! と謎の名詞を連呼しながら、ハルカはさらに頬張る。
「ん……カナン、なんだか焦げ臭い気が……」
「え? 焦げ……? …………パン!」
その日のデュロイ家の朝食では、少し焦げついたパンが供され、ポラジットが目を丸くすることになるのだが――それはもう一の刻ほど後の話である。




