第3話:帆船に乗って
ハルカに伝わる振動が次第に緩慢なものになっていった。
竜馬車が速度を落としているのだろうか。
潮の香りがより濃厚になった気がした。
小窓から見える景色は、ハルカが見知ったどの国のものとも違っていた。
こじんまりとした港町には焼けた肌の水夫たちが行き交っている。
町と言っても、人が住んでいるような屋敷はない。
赤煉瓦造りの倉庫が立ち並び、大小様々な積み荷が運ばれていった。
昼時も近く、食べ物を売り歩く売り子の姿も見受けられる。
肩に大きな天秤を担ぎ、その両の皿の上にはこんがりと焼けたパンや肉が山盛りに積まれていた。
食べ物の上を覆っている布が潮風ではためく度に、食欲をそそる色がちらついた。
こんな非常時でも腹は空く。
空気を読まずに鳴きまくる腹の虫を抑えるのに、ハルカは必死だった。
「腹が減っているのか。昼食は乗船した後だ。さあ、降りろ」
錠前が重く外れる音がし、薄暗い牢の中に一気に光が差し込んだ。
ハルカはその眩しさに目を細めた。
「……っ!」
次第に目が光に慣れ始める。
一瞬何が起こったのか分からなかったハルカであったが、ようやく理解した。
ライラが牢の扉を開け放っていたのだ。
新鮮な空気が流れ込み、ハルカのぼやけた頭を叩き起こす。
しばらくハルカは牢から離れずに立ち尽くしていた。
しかし、ライラはハルカに表へ出るよう、顎で指図する。
ハルカは頬を膨らませながら、しぶしぶ扉に近づいた。
「これから船に乗る。船に乗れる人数は限られているからな。君には一旦この竜馬車から下りてもらう」
そう言うと、ライラはぱちんと一つ指を鳴らした。
それに応えるかのように、竜は繋いでいた牢箱ごと霧散した。
赤褐色の霧が空気に溶け、風となって消える。
「蜥蜴が……消えた?」
「蜥蜴ではない。竜だ。あれは私の召喚獣だ」
ライラは竜馬車があった場所に近づき、かがみ込む。
路面から何かを拾い上げると、ハルカの手を取り、手の平に載せた。
「何かの破片……いや、鱗?」
「そうだ、これは蜥蜴の鱗だ。君が言っていたこともあながち間違いではない」
言っている意味がよく分からず、ハルカは首を傾げる。
すると、手の上の鱗はすぐさまその輪郭を曖昧にし、空中へ溶けて行ってしまった。
ライラはくすりと笑い、目を丸くするハルカの手首に極太の手枷をはめた。
「ってなんだよ! これ!」
「君は護送されているのだということを忘れるな。積み荷を減らすために竜馬車を還したが、それは君を解放するためではない。船上ではその手枷をつけていてもらおう」
「外せよ! このっ……!」
黒光りする手枷は重く、ハルカの両腕はだらりと下がったままだ。
力をこめれば持ち上げることはできるが、それにもかなりの力を要した。
両手首の間は鎖で繋がれて、ほとんど自由はなく、肩の幅ほども開くことはできない。
ライラはくいっと親指で自身の背後を指し示す。
その先には、少し遅れて到着した兵士たちの姿、そして唯一ハルカをかばったポラジットの姿があった。
兵士たちが乗っていた馬から下りると、次々に馬たちは弾け、宙へと消えていった。
どうやらライラの竜馬車と同じく、召喚によって喚び寄せられた馬のようだ。
「召喚術というのも便利なものだろう。君の国にはないようだがな」
ライラはふっ、と口の端を緩めた。
「私はまだやらねばならないことがある。君の身柄は一旦ポラジット・デュロイに預けよう」
馬から下りたポラジットとライラの視線が交差する。
それだけでライラが言わんとすることを察したポラジットは、黙ってハルカたちの側に歩み寄った。
「さっきの竜馬車のからくりはポラジットにでも聞くとよい。彼女は優秀な召喚士だからな。私より説明は上手いだろう」
ライラはそう言い、ハルカに背を向けると、右手を高々と掲げた。
「我々は連合総督府デネアを目指す! 兵たちは怪我人を優先し、順に乗船せよ! 乗船しきれなかった兵士たちは次の船で海を渡れ! 以上」
*****
船が港を離れるのを、ハルカは甲板から黙って眺めていた。
小さな港町が次第に遠ざかり、大陸の海岸線が臨めた。
大型の帆船は滑るように海面を進む。商業船らしく、乗組員よりも積み荷の量の方が多かった。
乗ることのできた兵士の数は少なく、五十にも満たなかった。
(何を話したらいいのかしら……?)
ポラジットはハルカの隣でその横顔をちらりと盗み見る。
ポラジットの視線にハルカは全く気付いていない。
目の前に広がるアイルディアの姿を目に焼き付けているようだった。
師の最期の召喚獣――ハルカ。召喚獣としての自覚もなく、不完全だと思われても不自然ではない。
事実、簡単に捕縛することができたし、能力を行使して逃れようとする気配もない。
だが、ポラジットにはそうは思えないのだ。
(老師の召喚獣だもの……。きっと、きっと何かあるはず)
ポラジットは緊張した面持ちで、ハルカに声をかけた。
「商人に交渉して船に乗せてもらったそうですよ。残りの兵士のためには臨時船を出してくれるのだとか。軍の船は帝国の攻撃で破壊されてしまって……」
ハルカにとってはこの上なくどうでもいい情報を、ポラジットは口にした。
「召喚術ってやつで船を出せねぇの?」
「ええ……国境を越える時は、政府が認めた船舶だけが往来を許されていますので……」
ふぅん、とハルカは上の空で生返事を返す。
召喚士の修行に明け暮れ、人とのコミュニケーションの取り方を学んでこなかったことを、彼女はこの時ほど後悔したことはなかった。
こんなことでは老師の期待に応えることなどできない。
ハルカの信用を得、彼を元の世界に還すことが自分の任務なのだ。
ポラジットはそれを深く胸に刻み込んだ。
「あはは、ポラジット〜。そんな会話じゃダメじゃないか」
唐突にポラジットの胸中を見透かしたような言葉がかけられる。
ポラジットとハルカは声のした方に振り返った。
ポラジットのすぐ後ろに立っていたのは小太りの獣人だ。
革製の軽装備に身を包んだ彼の目は、開いているのか閉じているのか分からない。
獣人は糸のような細い目でハルカとポラジットを交互に見ると、呑気な表情でポラジットの肩をぽんと叩いた。
「君がバハムートくん? おいらはハロルド・ドリスってんだ」
茶色の巻き毛の隙間から生えている小さな耳──おそらく羊のものだろう──がぺこりとハルカにお辞儀した。
気まずい雰囲気を打破してくれたハロルドにポラジットは安堵する。
気さくな人柄の彼であれば、ハルカの心をほぐしてくれるかもしれなかった。
「ハルカ、こちらのハロルド将軍は──我々連合軍四将軍のお一人でもあります」
ハルカはほんの少し興味を持ったのか、眠たげな瞳でハロルドをじっと見つめた。
「四将軍って? 俺、よく分かんねぇんだけど。さっきのライラってやつもそうなのか」
「ええ……ええ、そうです。我々リーバルト連合には四つの国が加盟しています」
ポラジットは教科書を読み上げるように、整然とハルカに説明する。
「あなたを召喚したダヤン・サイオス総司令官は東方大陸の精霊族国家ダリアデル国の、ライラ副官は西方大陸の竜騎族国家ムス=イダ国……そして、ハロルド将軍は北方大陸の獣人族国家ディオルナ共和国の将軍でいらっしゃいます」
ハロルドはよせやい、と照れながら、ぽりぽり頭を掻いた。
「そんなことよりさ、ハルカくんっていうのかい? ポラジットは悪い子じゃないんだけど、頭でっかちなところがあるからね。面白くない話でもさ、聞いてやってくれないかな」
「ハロルド将軍っ!」
ポラジットは顔を赤らめながら叫んだ。
ハロルドの言っていることは全くもってその通りだ。真面目な話しかできないポラジットをフォローしてくれたに違いない。
(でも、そんな風に言わなくても……)
ポラジットはふいとハロルドから顔を背けた。
「……あんたさ、凄腕の召喚士なんだろ? ライラが言ってた」
ハルカがぽつりと呟く。
少し遅れて、ポラジットは自分が話しかけられたのだと気付く。
「召喚士ではありますが、まだまだ修行中の身です。凄腕だなんて、そんなことありませんよ」
徐々に心を開いてくれているのだろうか、とポラジットは胸の中で独りごちる。
(そうだったらいいのに……)
ポラジットは優しくハルカに微笑みかけた。
「ポラジット、嘘はよくないな〜。君に敵う召喚士なんてそうそういやしないよ」
ははは、とハロルドがポラジットを小突いた。
ハルカの表情が和らぎ、緊張が解けているのが見えた。
束の間の穏やかな時間が流れる。
(願わくば、ハルカを元の世界に還す方法が見つかるまで、このままでいられますように……)
ポラジットがそう願った刹那、甲板の上で船員たちが慌ただしく走り始めた。
その尋常ならざる騒ぎにハロルドも眉根をひそめる。
「どうしたんだろう?」
「何か……問題でもあったのでしょうか」
ハロルドが前を通り過ぎる船員の首根っこをむんずと掴み、飄々とした様子で問いかけた。
「何かあったのかい?」
「……っ……船の前方に、魔物が!」
そして次の瞬間、ズゥゥゥンという鈍い衝撃音とともに、船体が激しく揺れた。
ハルカたちは危うく海に投げ出されそうになるが、甲板の手すりにしがみつく。
「うあああああああああっ!」
海に落下した数名の兵士が叫ぶ声。
その後に続いたのは……骨が砕け、身が裂ける音。
「なっ……」
ハルカが小さく息を呑む。
海面が揺らぎ、海水が勢いよく跳ね上がる。
それは雨のように帆船に降り注ぎ、ハルカたちの体が重い海水で濡れた。
帆船の前方に現れたのは巨大な海蛇。
禍々しい薄墨色の斑模様がてらてらとぬめっている。
海蛇の体が動く度に船が揺れ、大きく船体が傾いだ。
海蛇の目は白濁し、どこを見ているのかは定かではない。
避けた口からは水蒸気が漏れ、しゅうしゅうと不気味な声を発していた。
「なんだよ……これ!」
うろたえるハルカの前に、ポラジットが立つ。
蒼穹の杖を携え、ハルカを後ろ手にかばった。
「……私がいます。あなたを元の世界に還すまで、守り抜いてみせます」
「ポラジット、かっこいいなぁ。凄腕召喚士のお手並み拝見とでも行こうかな。さぁ、行くよ~!」
ハロルドがポラジットを一瞥し、腰元のホルスターから二丁の拳銃を抜き放った。
ポラジットはこくりと頷き、白のローブを翻した。
「召喚! 我が声に応えよ……幻獣・黒雷狼!」
甲板の中央に魔法陣が浮かび上がり……その中心から一匹の黒狼が静かに現れた。