第39話:溶ける白
ザリッ、と足元の砂が軋む。後ずさったエリーチカはハルカに向けて、再び手をかざした。
手の平から生まれる魔法陣は冷たく、彼女自身の手も凍てつき始めた。
「寒い、寒い……暖めて……」
歯をガタガタと鳴らしながら、エリーチカは容赦なく氷弾を放つ。ハルカは間合いを詰めようと深く体を沈め、力強く跳躍した。
アーチェの力が体の隅々に行き渡っていく。
避けるのに精一杯だった魔弾も、軌道を読み、それらを斬り伏せることが容易になった。
無刃の力は四元素の繋がりを断つ力――アーチェの言っていたことが、今なら分かる。
力で断つのではない。
元素と元素が複雑に絡み合い、構成している物質。
眼前で起きている、ありとあらゆる事象。
それらは全て、元素の存在に起因した副産物だ。そして、召喚獣である自分は、そのどこにも属していない。
ハルカは一瞬目をギュッと閉じ、開く。アーチェ譲りの菫色の双眸が輝く。
(そうだ、元素が視える……。エリーチカはまだ、完全な成功体じゃない)
世界は網目状だった。大地も、空も、空気も、そして、目の前のエリーチカも。
エリーチカは第五元素を体内に組み込まれたという。エリーチカの体に巡った網目の中に一点、異様なまでに目立った黒点があった。
が、彼女の氷は四元素の力の域を出ていない。
その身に異物を組み込まれたが故に、命を終えても土に還れず、この世を彷徨っているに過ぎないのだ。
原理は分からないが、身に宿した第五元素が彼女の体に共鳴し、魔法を使う能力を大幅に増幅させているだけだ。
その証拠に、彼女の体に巣食う黒点は、未だどの部分とも結合されていない。彼女の体内にいるものの、同化しきれていないのだ。
エリーチカから第五元素を切り離せば、彼女の命は潰えるだろう。
本来、あの事故で失われていたはずの残りわずかな命を、第五元素の力で引き延ばしているだけなのだから。
そして、それが彼女を救うための唯一の方法だった。
ハルカは飛来する氷を斬って進んだ。
先刻までひびを入れることさえ叶わなかった氷は、ハルカの一刀の元、瞬時に割れ、霧散する。
《陰陽》は新たな使い手を見つけたことに打ち震え、物を斬り伏せる度に歓喜の声を上げる。それは耳障りなものではなく、むしろ心地よいもので、ハルカはさらに腕を振るった。
(前の俺なら、この声にのまれて、自分を見失っていたはず。でも、今は――)
斬らねばならないものと、そうでないものの区別がつく。双剣の声に我を失い、斬ることに囚われたりはしない。
「血で、暖めて、あなたの」
エリーチカの右手はすっかり凍りついていた。強力な魔法は周囲だけでなく、術者の身をも蝕む。
ハルカは高く飛び、木の上に着地した。それを狙い、エリーチカはさらに攻撃を放つ。
ハルカはすぐさま飛び上がり、宙で体をひねる。ハルカを追尾する氷の軌跡は螺旋を描き、獲物を追い詰める。
地面に降りたハルカはぐるりと反転し、無数の氷弾を睨み据えた。
「《陰》! 《陽》!」
即座にハルカは二本の剣を放った。
意志ある剣はグルグルと凶暴に回転しながら、的確に氷を断っていく。
(時間がねぇんだ――!)
ブーメランのように軌道を変え、《陰陽》はハルカの手元に戻る。双剣の柄を握り、ハルカは身を翻す。
(エリーチカが、壊れる前に!)
無理な負荷を与えられたエリーチカ。
彼女の体に限界が近づいている――彼女自身、力の制御ができなくなる前に、何としてでも救わなければならない。
魔法を使う度、エリーチカの腕に氷が纏わりつく。次第に二の腕、肩へと、無慈悲な氷は這い上がってきた。
魔法を使う力とて無尽蔵ではない。身の丈に合わない術は術者を滅ぼす。
「アーチェ……」
エリーチカがぽつりと呟く。
それは本当に微かな音で、たちまち術の轟音にかき消された。しかし、ハルカの耳には確かに聞こえたのだ――エリーチカがアーチェに懇願する声を。
「こ、ろ、し、て……」
エリーチカの足元から、幾筋もの氷柱が走る。氷はハルカだけでなく、森の木々や花、石や名もなき小さな虫さえも飲み込まんばかりに広がった。
バリバリと氷が周囲を喰らい尽くし、真っ白に凍てついた葉がボロボロと崩れる。ハルカはその間を一心不乱に駆けた。
頬を伝う涙が凍り、地面へと儚く落ちる。
涙を流したのは自分だ、とハルカが気づくのに、少し時間がかかった。
(あぁ、違う。これは、アーチェの涙だ……)
一瞬だけ垣間見えた、エリーチカの本心。
そして、アーチェに向けられた最後の|命令(願い)。
降りかかる血に温もりを求め、それが生きている証拠だと感じていたころの自分。
今、最愛の女も、同じように葛藤しているのだとしたら。
(分かってる、これで終わりにするよ、ししょー)
アーチェの感情が溶けていく。まるで、それがハルカ自身の感情であるかのように錯覚するほど。
張り巡らされた世界の網目の一筋――エリーチカの胸元の黒点へと続く救済への道標が、ハルカには哀しく映った。
魔力の激流、元素の衝突、不安定なこの場にそぐわない、細い細い蜘蛛の糸のようなそれを目で辿る。
襲いくる氷はハルカの体を僅かにかすめていくものの、決して致命傷を与えてくることはなかった。
(あぁ……)
頬に小さな傷がつく。
氷の破片が、白く長い髪を一掴みさらっていく。
(そうか……)
もう一度地を蹴り、跳躍し――双剣を振りかざす。
「無刃……」
エリーチカが微かに笑った気がした。
「双迅ッッッ!」
ハルカは躊躇うことなく、両の手を振り下ろした。




