第38話:砕ける青
落ちる、落ちる、おちる、オチル。
果てのない空に落下する――。
ポラジットは必死で自分の半身にしがみついた。
黒い狼は《主》を救おうと、がむしゃらに紫雷を放つ。が、強力な雷球も無限の前には為すすべもない。耳をすませても、攻撃が当たる音は聞こえず、バリバリという雷の音が遠ざかるだけだった。
途端、今まで感じたことのない恐怖がポラジットを襲った。
対峙するべき対象が見当たらない恐怖。討ち果たすべき敵も、この空の檻から逃げる手立ても見つからない。
挙句、ただ落下していくという感覚だけは鮮明なのだ。地に足をつけて耐え忍ぶことさえできないのだ。
――何なの、これ……。
召喚獣の攻撃も無効化され、彼女は困惑した。神経を研ぎ澄まし、魔力の盲点を探そうとするも見つからない。――というよりも、この異常な状況に、神経を研ぎ澄ませることができているかも定かではない。
『結局、君は自分の足で立って歩いたことなんてなかったんだよ』
四方から男の声が響いた。音を反響させるものなど何もないはずの空間で、男の声は確かに響き渡っていた。
『どうだい? しがみつくもののない空間は。頼れるものなど何一つない空間は』
「誰……?」
知っているはずの声なのに、誰の声か分からない。その誰かの声は恐ろしいほど心に染み入り、ポラジットの思考を侵食する。
――そういえば、私、何故こんなところにいるの?
『君もこの柔らかな青に溶けてしまえばいい。落ちて落ちて、落ち続けたらいい』
「やめ……」
『君が守りたかったものは、君じゃない誰かが守ろうとしたものだ。本当に君が守りたいと思っていたわけじゃない』
――守りたかった、もの……?
ポラジットは目をつぶった。瞼の裏に、ぼんやりと輪郭が浮かび上がる。
くせ毛の茶髪、それよりも色濃い茶色の瞳。自分より少し背の高い――彼。
――違う。
最初はそうだった。師の遺志を継ぐために、この世界に再び秩序をもたらすために。
でも、今は違う。
――柔らかな青、ですって?
青の召喚士という二つ名の由来は、そんな可愛らしいものではなかった。
どんな戦局においても、冷静に、冷酷に、怜悧に。青の召喚士は揺るがない。自分の任務を完遂するためには、どんな迷いも見せない。だから、凍てつく氷のような青の名を冠された。
優しくないのだ、青は。少なくとも、彼女にとって、青は安らぎの色ではない。
――目を覚ましなさい、私。
ポラジットは思考を巡らせた。
落下点のない世界なんて、あり得ない。彼女の知る限り、このアイルディアのどこにもそんな空間はない。
空があり、海があり、大陸があり、生命がうごめく。それが、このアイルディアの理だ。
ならば。
この空間は虚像だ。結論づければ、そのカラクリはなんということはなかった。異世界から召喚獣を呼び出すことができても、この世界の人間が異世界に渡ることは、未だかつて聞いたことがない。空間を捻じ曲げ、未知の空間に繋がることはあり得ない。
転移魔法にだって終点はある。果てのない転移は起こり得ない。
仮に空間を捻じ曲げたとして、ポラジットと黒雷狼だけがこの場にいるのも妙な話だった。
それほどまで世界に負荷をかける術であるならば、他に巻き込まれた者がいてもおかしくない。どんなに小規模に収まったとしても、あの場にいた人間くらいはここに落とされるに違いない。
召喚士と召喚獣は繋がっている――。だからこそ、この場に巻き込まれたのはフェンリルだけなのだ。
攻撃されているのは自身の心。敵はポラジットの心を封じて、肉体の自由を奪うつもりでいるのだ。
――幻に、囚われてはいけない!
ポラジットはローブの袖の端を噛み、ぐいと捲り上げた。傷ひとつない真っ白な腕が現れ――彼女は思い切り歯を立てた。
ガリ、と皮膚と肉が切れる音。そして、血の味。
力一杯噛みついたつもりだったが、幻は冷めない。血の球が空に散り、天上へと舞い上がった。
まだ足りないのか、とポラジットは眉をひそめる。
――この程度の痛み!
その身を人ならぬ者に変えられ、永遠を彷徨うエリーチカに比べれば。
大切な人に刃を向け、それでも己の意思を貫かねばならぬアーチェに比べれば。
そして、この世界の身勝手さに巻き込まれて、還るべき場所に戻れなくなったハルカに比べれば。
「フェンリル! 私の腕を噛みなさい!」
忠実な狼は《主》を傷つけなければならない命に戸惑った。黒い耳は力なくへたり、くぅんと小さく異を唱える。
「早く! この腕が千切れたって構わない……。私は、ここを出なければならないの!」
ポラジットの強い力に抗えず、フェンリルは大きく口を開けた。ぬらりと肉切り歯が唾液で光り、ポラジットはぐっと歯をくいしばる。
フェンリルの吐息を感じる左腕に、直後、鋭い痛みが襲った。
「ふぅっ…………っっっ!」
牙が食い込み、筋肉が千切れ、神経がスパークする。
と同時にポラジットを捕らえていた青い空に亀裂が走り、パァンと砕け散った。
ポラジットとフェンリルはもつれ合ったまま、元いた坑道の地面に尻もちをつく。
「ギィエエエエエエエエエエエエッッッッ!」
暗転した視界の先、その異様な叫び声は高く、長くこだました。
ポラジットは激痛走る左腕を押さえながら、身を起こす。吹き出す血が白いローブを汚すことも厭わず、次の攻撃に備えて体勢を整える。
「あ……あれは」
視界に飛び込んできたのは、鮮烈な赤と、どす黒い赤。
捕虜の前に立ちはだかっていた赤の鸚鵡の両目から、澱んだ色の血が吹き出ていたのだ。
「目、目、目ガアアァァァァ!」
「なに、君が気に病むことはない、ポラジット・デュロイ。全てはアリアの力不足さ」
背後にいた仮面の青年がフッと口元を緩める。
「彼の能力《幻視》――。あの出血は術を破られた代償ってやつさ。やっぱり青の召喚士に小細工は通じないね」
「代償って……。あなた、あなたの召喚獣でしょ!? 助けないの!?」
「助けてどうするのさ。また戦おうって言うのかい?」
「そういうわけじゃ……」
青年はパチン、と指を鳴らした。
アリアの足元に、緑の魔法陣が現れる。魔法陣の放つ光が強まるとともに、アリアの輪郭は薄れ、徐々に解けていく。
「《主》……? マ、ス……タ……!」
「能力を見破られてしまえば、お前に使い道なんてないじゃないか。まぁ、少しは楽しめたかな、アリア」
「マス……マスタアアアァァァァァッ!」
「さよなら、ありがとう、アリア。君のことは忘れないよ」




