第36話:真の望みを
命を絶たれたとしても、それも本望だった。
ただ、大切な人を一人置いて逝くことだけが、心残りだった――。
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「あ……アーチェーーーッ!」
無残な姿を晒すアーチェの傷口から、亡者の口が這い出でる。ガジリガジリと氷を食むが、乱杭歯が食い込んだ箇所から新たな氷柱が伸び、亡者の口をもズタズタに引き裂いた。
――《悪食》の力でも喰らい尽くせないほどの魔力なのか……!?
魂の束縛から逃れたアーチェを、非情な氷が再び縛りつける。
あ、あ、と短い声を上げながら、アーチェはまなじりが避けんばかりに目を見開いた。
見ていられなかった。でも、顔を背けてもいけないと思った。
ハルカの銀の双眸から涙が伝い落ちる。
これが苦しみぬいてきた彼女の末路だと言うのなら、あまりにも酷かった。痙攣する師の体から、命の灯火が消えていく。
かつて小さな体からとめどなく溢れ出していた生命力は枯渇し、彼女をアイルディアにとどめる力が弱まっているのを感じた。
力を込める。師に手を伸ばし、前へと進む。
「アーチェ……」
足元の動きを封じていた氷が割れ、バキバキと砕けた。ズ、と重い足を前へ、前へ。
ハルカはアーチェの前に跪き、端正な幼子の顔を見上げた。
「ハ、ル……」
「アーチェ!」
苦悶の表情を浮かべたアーチェが、ハルカに向かって手を伸ばす。その手に握られているのは、アーチェの血が伝う真っ白な剣。
ハルカは立ち上がり、血濡れた手を包み込んだ。
「こ、れ……を……」
ごふりと咳き込んだアーチェの口から血が落ちた。
「く……妾の、願いは、叶わぬ、ようじゃ」
「何言って……自分で叶えろよっ!」
くつりと笑い、アーチェは静かに目を閉じた。そこにあるのはどこか穏やかな、諦めの色。
「《陽》を……持て。今、のお前なら……剣に、食われる、ことも、ないだ、ろ……」
「俺は……」
「《陽》を、一人に、しないで、やってくれ……」
「……っ!」
使い手を失いかけている《陽》。ハルカは温度をなくした小さな手から白剣を取った。
滑らかな刀身に血が伝い落ちる。まるで最初から血などついていなかったかのように、《陽》は眩いその身を朝日の元に晒していた。
「は……、妾の、血も、赤い……」
アーチェは満足げに微笑み、足元の血溜まりを見つめた。
「昔の妾、には、血など……通うて、おらんかった……」
「アーチェ……」
「ハルカ、エリー、チカ様を……救っ……」
「ダメだ、こんなのダメだ、アーチェ!」
アーチェの輪郭がぼやけていく。それは召喚獣の終わりの時なのだと、ハルカは直感で悟った。彼女の体を構成するものが解けていく。彼女の体が消えていく。地面に落ちた血も揮発し、アイルディアの風に乗って霧散していく。
「トドメヲサセ! グズグズスルナ、エリーチカ!」
たとえ、エリーチカを討てたとしても、それが真の救済でないことは、ハルカには分かっていた。苦しみから解放することはできても、エリーチカの心まで救えるわけではない。
エリーチカを本当に救えるのはアーチェだけだ。肉体と魂、そのどちらも。
「エリーチカを救えるのは……あんただけだろ!? アーチェ!」
ずん、とハルカの叫びが空気を震わす。
銀の光の濃度が増し、光の重みに耐えきれなくなった粒子が大地に落ちる。
すると、落ちた銀は地面に奇妙な紋様を描き始めた。それはまるで――魔法陣。銀の線で彩られた円陣は、ハルカとアーチェを中心として、仄かに燐光を放つ。
光が渦巻き、風が起こる。ハルカの髪が揺れ、銀の瞳がアーチェの目を見つめた。
「ホウケテイル場合カ! 何ノ為ニソノ身ガ生カサレテイルト思ッテルンダ!」
「わ、わたくしは……」
エリーチカが少年と幼子に向かって手をかざす。しかし、エリーチカはその手を小刻みに震わせて、下唇を必死で噛んでいた。
見開かれた目には懐かしい家族の姿。かつて、日の当たる庭で、チェリーバームティーを嬉しそうに飲んでいた、あの幼い召喚獣が脳裏をよぎった。
「アーチェ、助けて……」
「逝かせない……アーチェ。今こそ望みを叶えるんだ!」
魔法陣が光を放出する。銀光の柱が天へと伸び、一帯が昼間のように明るくなる。
仄白い朝焼け空は謎の光に引き裂かれ、轟音とともにやって来る何かの出現をただ待つのみ――。
*****
この身に何が起こったのか、ハルカには全く分からなかった。
銀の力が自分の一部であること、現象の中心にいるのは自分であること――それだけは把握していた。
光の柱の只中で、ハルカは揺蕩うアーチェの姿を見た。光にその身を任せた彼女から氷柱の束縛は消えていて、安らかに目を閉じたまま息をしている。
アーチェの紫の衣が解けていく。裾から一本の糸が伸び、シュルシュルと衣の形を失っていった。同じようにしろの髪も光に溶けていき、アーチェの形自体がなくなっていく。
『ハルカよ』
アーチェ・アメルが消えた後、そこに浮遊していたのは一本の剣。
白銀の刀身、紫紺の柄、薄紫の絹糸で編まれた飾り紐。
それが――アーチェの元の世界での姿だとすぐに気づく。
『妾の命は長くはもたん。この世界に留まっていられるのも、あと僅かじゃ』
「でも……!」
『師の話を最後まで聞かんか、たわけが』
美しい剣が少し傾く。飾り紐をふるりと一つ震わせ、ハルカの脳に直接語りかけた。
『お前は妾に命じた。それが、お前の能力なのじゃな。妾はお前の命に従い、望みを叶えるために、命潰えるその時まで今一度戦おう』
「アーチェ……!」
『修行も不完全なままじゃ。これが師としての最期の指南になるじゃろう。心してかかれ』
ふぅ、と剣が息を吐く。再び飾り紐が震える。
『無刃の真髄を、その目指す所を。直に叩き込んでやろう。そして……』
銀の中で、アーチェが新たな光を放つ。
ハルカは目を細め、微かな声で師の名を呼んだ。
光の狭間で押し潰されそうになりながら、ハルカは確かに鈴の音のような凛とした声を聞いた。
『お前の力の真実を――その身に焼きつけ、超えてゆけ』




