第35話:反転
哀願とも渇望とも思える呟きだった。
エリーチカの言葉を、ハルカはさして気にも留めていなかった。ただ、エリーチカが歩んできた年月を思い、胸を痛めただだけだった。
が、その認識が間違いだったことを、ハルカは瞬時に悟ることになる。
背後から感じたのは異様なほどの殺気。それだけで体が貫かれてしまうと錯覚するほどの敵意。
ハルカは振り返り様、怜悧な白刃が自身の喉元めがけて突き出されたのを認めた。
「くっ!」
一歩後退し、体をそらせる。のけぞったハルカの鼻先ギリギリのところを刃が通過し、ハルカの前髪をチリリとかすめ切った。
そのまま後方に一回転し、身をかがめて体勢を整える。右手には《陰》、左手で地面に手をつき、勢いよく立ち上がった。
「アーチェ!」
アーチェの両手はだらりと下がり、まるで操り人形のようだ。静かに面をあげたアーチェの目に光はなく、かつての強い意志は全く見られない。
「ハルカ! アーチェ様!」
アーチェの後ろ、少し距離を置いてポラジットが到着した。ヒッポグリフからひらりと舞い降り、杖を構える。アーチェのただならぬ気配を察知してか、ポラジットは強張った顔つきだ。
「エ、リーチカ、さま」
アーチェが主人の名を呼ぶ。
「アーチェ、アーチェ。私を、守って……」
エリーチカが守護者の名を呼ぶ。
「エリーチカ様に害をなすものは排除する。それが、妾の《主》の命……!」
刹那、目の前からアーチェの姿が消えた。
――消えた!?
「ハルカ! 左ですっ!」
ポラジットの叫び。ハルカは左側面へと視線を移す。
「間に合わない……! 障壁、全開っ!」
《陽》を薙ぐアーチェ。ハルカの防御は追いつかない。
ハルカの体を薄緑の球体が覆う。ポラジットが展開したシールドが、辛うじてハルカを守った。
「笑止っ! 無刃の前に、魔法など無意味!」
ガリガリガリ、と刃が壁を削り取る。火花が散り、球面を構成する六角形群がひび割れる。一本、また一本と辺を削がれた面から、防御のための強度は失われていった。
力任せに障壁を破り斬ったアーチェは、刃を翻し、再びハルカに斬りかかった。
その閃きを食い止めようとハルカは《陰》を構える。
空気を震わせる音を立て、《陽》と《陰》がせめぎ合う。
元は一つの鉱物からできた二本の剣は、戦うのを拒絶するかのように、触れた場所から不協和音を奏でた。
――この世界と深く繋がり、万物を構成している元素を断ち切れるのは、この世界の理に縛られぬ妾たちだけじゃ。
無刃流の根源。元素の繋がりを断つ力。
剣聖の域にまで達したアーチェには、元素で構成された魔法など通用しないのだ。
いくらポラジットが有能な術者とは言え、どんなに強固な障壁を構成しても彼女の前では意味をなさない。
「やめろ……! アーチェ!」
黒と白が交差するたび、ハルカの体に傷がついた。
剣はなんとか防ぎきっている。しかし、その剣圧を防ぎきるまでには至らず、剣から放たれる衝撃が彼の皮膚を裂いた。
機械のような精密さで、踊子のような優美さで、アーチェは剣を振り、ステップを踏む。
その予測不能な動きに、ハルカはついていくのがやっとで、反撃に転じることができない。
「氷の、檻」
だから、それは不意打ちだった。
「…………っ!」
背後にいるエリーチカが放った氷弾が、ハルカの足元に着弾する。と、足元の温度が急に下がった。
革靴ごしでも分かる急激な温度変化に、ハルカは息を呑む。逃げるために地を蹴ったが、それも蹴ったつもりに留まった。
氷で完全に地面に繋ぎ止められたハルカを、アーチェの剣が襲う。後退も前進もできず、ただひたすらに一閃を食い止める。
「ハルカっ! 火炎!」
「目障りじゃ!」
援護のためにポラジットが攻撃魔法を放つも、アーチェがそれら全てを斬り伏せた。
剣の余波がポラジットを襲う。襲いくる鎌鼬を転がり避け、彼女の白いローブが泥で汚れた。
「くっ……効かない……!」
「ポラジット!」
パキパキ、と氷が足元から這い上がってくるのを、ハルカは半ば絶望しながら一瞥した。ポラジットを助けに行くことも、アーチェを食い止めることもできない。ほんの一瞬でさえ、アーチェは剣を振るう手を止めることはないのだ。
裂けた服を血が濡らす。破れた箇所から滲みはじわりと広がり、頬や手の甲は鉄臭い赤で染め上げられる。
「ちっ……!」
この戦いがアーチェの意志で為されているのであれば、これほど歯痒い思いはしなかっただろう。
アーチェが真に守るべき者を、心の底から守るための戦いであれば。
――だけど、これは違う。
ハルカは、アーチェの決意を知っていた。
彼女の旅路に終わりを告げようとしていたことを、愛する人に救済を与えようとしていたことを。
それがどんなに残酷なことであったとしても、アーチェは自分に課された役目に目を背けるようなことはしなかった。
「違うだろ……」
彼女の《主》が望んだことはこんなことだったのだろうか。
血を啜る魔物に変貌してしまった妻を、人間としての生を奪われてしまった妻を――彼女の《主》はそれでも現世に留めていて欲しいと思うだろうか。
――それは、違う。
ハルカの体から、銀光の粒が浮遊する。
ぽつ、ぽつ、と宙を舞う光は次第にハルカを覆い、彼に本来の力を与えようとしていた。
「アーチェ……」
「主君に仇なす愚か者よ、散るがよい!」
アーチェが《陽》を振り下ろす。ゴウ、と唸りを上げながら迫る白刃を、ハルカは対をなす黒刃で受け止めた。
剣圧も衝撃も、何もかもが相殺される。二つの剣の不協和音も消え失せ、一瞬の無音の空間がその場を支配した。
「ならば……食らうまで!」
幼子から放たれた亡者の口が、ハルカを噛み砕こうと牙を剥く。しかし、銀の光に触れた途端、亡者は怯み、宿主である幼子の体へと還っていった。
「な……! 《悪食》の能力が効かぬ!」
「聞くんだ……アーチェ。いや、飢渇鬼」
「貴様ぁ……妾の名を、呼ぶな……!」
「目を覚ませ。お前の《主》の……真の望みを思い出せ!」
ハルカの足元の氷がひび割れる。少年の目の色は銀に変わり、圧倒的な意志の光をたたえていた。
吹き出す銀光がアーチェの体を圧迫する。究極召喚獣が告げる、絶対の命令。その《絶対服従》の能力の前では――何人たりとも抗えない。
「あ……妾の、なすべきこと……」
アーチェの瞳に光が戻る。ハルカへ向けていた《陽》をおろし、ふらりと一歩、後退る。
彼女を縛っていた呪縛は消え、そこに在るのは一人の幼子だった。
使命も存在意義も、何もかもから解放され、真っさらな状態になった彼女。
己の使命から目を背け、逃げ出すこともできた。エリーチカを守るために、再びハルカに刃を向けることもできた。
今まさに、彼女は召喚獣でありながら自由の身になったのだ。
「妾は……」
紫の長衣が翻る。雪のような白髪がたなびく。
菫色の瞳にはハルカの姿と、さらに小さなエリーチカの姿が映っていた。
小さな手に力がこもる。チャリと音を立て《陽》がアーチェの心に応じる。
「妾は……」
「ヤレ、エリーチカ」
嘲りを帯びた、道化の声。
ハルカの目に、あらゆる動きはスローモーションに見えた。
「ふぐっ…………!」
無音の世界に、響く音。
それはアーチェが幾度となく聞いた、肉と骨が断たれる音。
ハルカは師の体を貫いたものに目を奪われた。
美しい透明な、水晶と見紛うほどの氷の刃。地面から生えた幾本ものつららが、小さな師の体を、魂を――容赦なく砕いた。




