第2話:講和会議
三〇五四年 五月一日。
リーバルト連合とガリアス帝国の間で繰り広げられた戦が終わりを告げようとしていた。
リーバルト連合総督府。
連合四国の中で最も栄華を極めるユーリアス共和国首都デネアに、それはある。
錆色の鉄平石の門前には普段以上に厳重な警備が敷かれていた。
奥には総督府本部。
光沢のある御影石の建物が、広大な敷地内でぽつんと浮かび上がっていた。
二階建てのそれは敷地の木々に囲まれ、敷地の外からは、屋根くらいしか目視できなかった。
総督府本部二階、迎賓の間。
連合総統コーデリアス・マギウス、対するは帝国宰相ロウン・ハイマン。
世界大戦終結のための講和条約が今、締結されようとしていた。
「では、総統閣下。我々帝国側が提示する条件を……すべて呑んでいただけるということでよろしいかな?」
ロウンは蛇のような目つきでコーデリアスを見やった。
純白のテーブルクロスに広げられた羊皮紙には、コーデリアスにとって是とは言い難い内容の文面が躍る。
ふと羊皮紙から視線をロウンに戻すと、ロウンは油で固めた胡麻塩頭に手を添え、コーデリアスにニコリと笑ってみせた。
──直ちに講和されたし。
ライラ・オーディル将軍からそう伝え聞いたのはほんの数刻前だったというのに。
コーデリアスはぎりと奥歯を噛みしめた。
帝国一国に対し、連合は四つの国が手を結んだものだ。
数の上では圧倒的に有利なはずだった。
もちろん、戦力も帝国などに引けをとらない。
コーデリアスは過信していた。
ただただ前へ進めと、それだけを命じていた。
弱冠三十歳で連合総統に就任してから五年。
若き青年総統として、世界大戦という大きな事件を前に、感情が昂ぶっていたといってもいいだろう。
だが、コーデリアスの思惑とは裏腹に、戦況は思わしくなかった。
北の大陸は帝国に奪われた。そして……。
「補償金として、毎年三億ゴルドを帝国に支払うこと。さらに北方大陸をガリアス帝国領とすること」
ロウンが淡々と条約の内容を読み上げるのを、コーデリアスは暗澹たる思いで聞いていた。
若さゆえ、見通しが甘かったのだ。
ここまで追い詰められるとは、彼は露程も思っていなかった。
ダヤン・サイオス一人の死で、帝国の総攻撃を食い止められたのは不幸中の幸いと言ってもよかった。
だが、コーデリアスにとってはそうとも思えなかった。
連合の要であったダヤン・サイオス。
彼の言葉に耳を傾けていれば。
帝国を侮るなと、諌めてくれていたというのに。
彼がいれば、この講和会議も連合側に有利に動いていたかもしれないのに。
まさか、世界一とも名高い召喚士である彼が命を落とすとは──。
『我が帝国軍からの伝令によりますと……我々の総攻撃の前にダヤン・サイオスが倒れたとか……』
自軍の伝令よりも先に、ロウンの口からダヤンの死を聞いたコーデリアスは、戦意を喪失した。
『どうなさいますか、閣下』
下品な顔で笑むロウンの前で、コーデリアスは降伏を決めたのだった。
半分投げやりな気持ちで条文を見つめる。
こんなことではいけないと分かってはいたが、頭の中が真っ白になっていくのを止められなかった。
「閣下? もう一つ、講和の条件に加えるのを忘れていたのですが、よろしいかな」
(まだ何か要求するつもりか……)
コーデリアスは胸の中で舌打ちした。
だが、自分には要求を拒否する権利などない。
黙ったまま、コーデリアスは首を縦に振った。
ロウンはコーデリアスの周りにいる連合諸侯の顔を一人一人見つめた。
敵の中にいるにもかかわらず、ロウンの態度は堂々たるものだ。
それはロウンが紛れもない勝者であることを物語っていた。
「リーバルト連合総統コーデリアス・マギウス閣下。閣下を帝国にお招きしたく存じます。そうですね……きっとお気に召していただけると思いますよ。もうユーリアスには帰りたくないと感じるほどに」
くくく、とロウンが喉を鳴らした。
両手をすり合わせ、ぺろりと唇を舐めた。
「それは……っ!」
コーデリアスが勢いよく席を立つ。
(それは、私を人質に取るということか……!?)
そう叫ぶ前に、ロウンがぬめぬめと照った唇を開いた。
「さすが、聡明な閣下、お察しの通りです。ですが、もしお断りするようなことがありましたら……」
耳まで裂けそうなほど、ロウンはにぃと笑う。
この先は言わなくても分かっていますよね、とでも問いただしているようだ。
(拒否をすれば、再び帝国との戦になる)
コーデリアスに選択肢はなかった。
*****
外の景色を見る気力さえ失せていた。
ハルカは牢のごつごつとした床に座り込み、無機質な天井を眺めていた。
気を紛らわすために、天井の金板に打ち付けられたビスの本数を数えていたが、それも虚しくなり止めてしまった。
舗装されていない道を通っているのか、ガタガタと車体が揺れる。
小気味よいはずのその揺れも、ハルカにとっては億劫でしかなかった。
「おい、バハムート、静かだな」
前方の小窓が開いた。
そこからライラが顔を覗かせる。
どうやら、御者と囚人が会話できる仕組みになっているらしいが、ハルカ側からは小窓を開けることができないようになっていた。
唐突に話しかけられ、ハルカはびくりと跳ね上がる。
呆けている姿を見られたのもバツが悪く、ライラを一瞥した後、ハルカは床へと視線を落とした。
「ハルカ、と言ったか。手荒に扱って申し訳ない。異世界からの客人として丁重に扱うべきなのだが……こんな竜馬車しか用意できなくてな」
ライラが素直にハルカに謝罪する。
その声色からは誠意が伝わってきた。
だが、全面的に信用できるわけではない。
ハルカは仏頂面でライラに尋ねた。
「異世界、ってどういうことだ? 俺、まだ状況が飲み込めてないんだけど」
あぁ、とライラは思い出したかのように言った。
「それも分かっていないのか。君は……究極召喚獣・バハムートとして、異世界から召喚されたのだ」
「はぁ?」
(なんだ、このRPG的な展開は……)
ゲームで聞いたような用語の羅列に、ハルカは思わず素っ頓狂な声をあげた。
「そうだ。だが、君を召喚した召喚士は敵国の攻撃によって命を落とした。君は自分の能力の使い方を知っているか……あるいは召喚獣としての自覚はあるのか?」
「あったら聞いてねぇっつーの」
「それもそうか」
ハハッ、とライラは豪快に笑った。
究極召喚獣だか、バハムートだか知らないが、ハルカにとっては迷惑極まりないことだった。
(勝手に喚び寄せておいてよぉ……。)
囚人まがいの扱いを受けながら、信用するという方が、無理な話だ。
「先ほど聞いていたかも知れないが、我々は今、リーバルト連合総督府――デネアへ向かっている。そして君の身柄を連合議会に引き渡す予定だ。そこで審議にかけられ、君の行先が決められるだろう」
「行先を決めるって……元の世界に戻る以外、俺に行先なんかねぇよ」
ハルカはチッ、と舌打ちしてライラを睨んだ。
しかし、所詮子供の威嚇だ。
ライラはハルカの視線を正面から受け止め、動じることなくハルカを見つめ返した。
そこにはほんの少し、同情の色も窺えたが、一瞬のことだった。
すぐにライラの表情は軍人のそれになり、ハルカの今後を話し始める。
「君を喚びだした召喚士ダヤン・サイオス様──彼が命を落とした今、君を元の世界に還せる術者はこの世界のどこにもいない。まずは異世界への道を開く手段を探すことからだ。まぁ……大方、審議の結果の予想はつくがな」
「帰る方法が分かるのか?」
ライラはゆっくりと首を横に振り、それから肉感的な唇を開いた。
「帰る方法を知っているわけではない。あくまで君がどうなるのか、という予測に過ぎない。おそらく……君の身柄は召喚教会に引き渡されることになるだろう」
「召喚、教会……?」
「ああ、アイルディアの召喚士はすべて、召喚教会で資格を得る。いわば召喚術に関する総本山だ。そこなら究極召喚に関する資料は揃っているだろう。君が本当にバハムートなのか、そして帰る手立てはあるのか……そこで判明する」
「それなら今すぐそこに連れてってくれよ!」
座り込んでいたハルカは勢いよく立ち上がり、小窓に駆け寄った。
格子越しのライラにぐいと顔を近づけ、懇願する。
「それはできない相談だ。私のような一軍人が君を連れて行ったところで、教会は門を開いてはくれまい。正式な許可が下りなければ、決して君を受け入れてはくれないだろう」
「そんな……」
「君の身柄を拘束したのは軍人としての判断だ。得体の知れないものを野放しにしておくほど、私は図太い神経をしていない。万が一、民に危害を及ぼすようなことがあってはならないからな」
「俺はそんな力……!」
「聞け。軍人としてはそうした。だが、ライラ・オーディル個人としては君を気の毒に思っているのだ」
ライラはふと笑みをこぼした。
ハルカは言葉を詰まらせ、ライラから視線を外す。
穏やかな口調でライラが呟く。
彼女のしなやかな指先は、竜馬車が進む先を示していた。
「見ろ、海だ」
潮の香りがハルカの鼻腔をくすぐった。
ライラの言葉とその懐かしい香りに促され、ハルカは初めて窓の外を見やった。
「あの海を船で渡り、ここ──東方大陸を離れる。海は見たことあるか?」
「……俺の家の近くにあった」
「そうか。私の故郷には……海はなかった」
小さな窓越しに広い世界が広がっていた。
戦のせいで、ところどころ赤茶の土が見え、燻った炎が煙を上げていたが、青々とした草原がどこまでも続いていた。
青臭い若草の香りと湿気を孕んだ潮風が混ざり合う。
潮の香りは馴染みあるものだったが、草原などというものは元の世界にはなかった。
何とも言えないその香りを、ハルカは大きく吸い込んだ。