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遙かなるバハムート  作者: 山石尾花
第2章:双つ剣の交わる刻
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第32話:哀しみの再会

 灰色の雲で覆われた空、隙間から差し込む一条の光が印象的だった。

 突き抜けるような晴天よりも、泣き出しそうな空の方がこの身には相応しい。

 その光はまるでこんな自分でも祝福してくれているようだった。

 彼女がアイルディアにばれたのは、そんな日だった。


 ガラス張りの東屋、現れた彼女の前に佇む壮年の紳士――彼女がこの世界に来て初めて見たものだった。

 甘い香りが漂っている。それがチェリーバームの香りだと知るのは、少し後のこと。

 何故かは分からないが、自分が元の世界から切り離されたことを瞬時に悟った。そして、この紳士こそが彼女をこの世界に喚び寄せた張本人であることにも気づいた。


「そなたが、妾の《マスター》か」


 自然と口をつく言葉。

 紳士は彼女の問いかけに是と答える。


「私の名はユグノー……ユグノー・アメル。幻獣・飢渇鬼グールとは君のことか」

「――いかにも、妾の名はグール」


 彼女に名前などなかった。しかし、この世界での自分の名はグールなのだと知っていた。誰に名付けられたわけでもないが、世界が彼女をグールと定めたのだ。ならば、その名こそが己の名、逆らう余地はどこにもない。それが、召喚獣というものだ。


「グール、私は君を使役する。私の命に従い、その使命を全うせよ」


 その瞬間、自分が決して抗えぬよう、見えない鎖が体中に巻きついた錯覚を覚えた。冷たい鎖が巻きつき、皮膚を食い破って体内で融解する――そんな錯覚だ。

 不意に《主》から目をそらす。そして、ガラスに映った人影を見て、あぁ、これが自分の体なのかと妙に感慨にふけった。

 

 一度だけ、前の世界で自分の姿を見たことがあった。

 小さな湖のほとりで、かつての主が自分を地面に突き立て、顔を洗っていた時のことだ。

 水面に映る自分の姿は、なんとも無機質で、冷ややかで。

 誰かの手を握るための手もなくば、地を蹴って駆け抜けるための足もない。

 白銀の刀身、紫紺の柄、薄紫の絹糸で編まれた飾り紐。

 確かに《剣》としての自分はとても美しかった――が、それだけだ。

 その瞬間まで己を生物だと思っていた。血の通った動物である、と。

 しかし、自分は生き物ですらなかった。


 アイルディアで与えられた姿は、かつての自分にそっくりだった。

 白銀の長髪、紫の長衣、菫色の瞳。

 けれども、手があった。足があった。

 言葉を紡ぐための口も、世界を映す瞳もあった。


「私は君に多くは望まぬよ。ただ一つ、絶対的な命令――我が妻のエリーチカを、全身全霊で守り抜いて欲しい」

「……承知した」




 その後、引き合わされた女性――《主》の妻であるエリーチカ・アメルは、居間の肘掛け椅子にゆったりと腰掛けたまま、自分をまじまじと見つめた。手編みの膝掛けは細やかな模様で、おそらくエリーチカが丹精込めて編んだのであろう。

 彼女の齢は三十四と聞いていたが、傍目にはそうは見えなかった。線が細すぎたのだ。

 四肢は折れそうなほど細く、陽の光を編んだような髪はそのまま空気中に溶けていきそうに見えた。

 過去、アメル領を襲った逆賊の襲撃――その時に、エリーチカは心に癒えぬ傷を負ったと言う。幸い、逆賊はアメル軍によって討ち果たされ、再び領地には静けさが戻った。

 予めその事実を《主》から聞いていたせいか、エリーチカに対する接し方には当惑した。しかし、その懸念はあっけなく打ち砕かれた。


「あなた、グールというの? そんなに愛らしい姿なのに? 飢え、渇いた餓鬼だと言うの?」


 鈴の音かと紛うほどの可憐な声で、エリーチカはコロコロと笑った。


「なんておかしな名前。そうだわ、わたくしが名前をつけてあげるわ。……そうね……アーチェ、なんてどうかしら」


 ポンと手を叩き、エリーチカは自らの提案に気をよくする。何度も小声でアーチェ、と唱えると、それに満足したのかアーチェに手招きをした。おそるおそる、しかしそれと悟られないようアーチェは彼女に近づく。

 そんなアーチェの手にそっと触れ、エリーチカは柔らかくほほえんだ。


「今日はあなたのお誕生日ね、アーチェ。この世界に生を受け、アーチェ・アメルになった日。これから毎年、この日は誕生日会を開きましょう。お砂糖たっぷりのケーキと、温かいチェリーバームティーも入れましょうね。だって……あなたは私たちの、家族なんだから」


 ストン、と胸の奥に何かが落ちた音がした。

 その温かな何かはアーチェを確かに突き動かし、家族・・を守る糧となった。



 だから、あの日、守りきれなかったことを、今でもずっと悔いている。

 名前と心をくれたあの人を見つけ出すまで――どこにも還れない、と。

 

 *****


「……妙な夢を見せるでない、《陽》よ」


 ふと気を抜けば、白昼夢を見た。双剣の片割れ・《陽》が見せる幻だろう。今までこんなことはなかったのに、とアーチェは歯噛みした。

 理由は分かっている。

 おそらく、《陰》と引き離された《陽》が半身を求めて泣いているのだろう。その悲しみに、自分の悲しみが共鳴しているのだ。


「悲しんでいる場合ではないのだ……」


 農園襲撃事件で姿を見せた魔物が残した魔力の残滓を辿り、アーチェは山道を駆けあがる。

 ごつごつとした足元は、常人ならば登るのに苦労するだろうが、アーチェにとっては苦になる道程ではない。軽やかに駆ける姿はしなやかな体躯の野鹿の様。

 アーチェは山々の間にある開けた谷間で、静かに足を止めた。


 音がしない。風も止んだ。


 山肌にぽっかりとあいた漆黒の口――洞穴の入り口であろうか――の前に、それ・・はいた。

 あの日と変わらず、華奢で儚げな姿に、チクン、とアーチェの胸が痛む。さらりと金の髪が揺れ、前髪に隠されていた素顔が露わになった。


「エリーチカ様……」


 懐かしさと愛しさで縋りつきたくなるのを、アーチェはやっとのことで抑え込んだ。

 

 ――あれは、エリーチカ様ではない。


 自らにそう言い聞かせ、アーチェは背から白剣を引き抜いた。

 かつての家族に刃を向けられたエリーチカは、瞳に愁いを滲ませ、ゆるりと目を伏せる。

 

「《主》の命に従い、あなた様を救いに参りました。妾と共に帰りましょう……! 魔物に変えられた身であっても、きっとその術を解く術は見つかりましょうぞ!」

「……いいえ、アーチェ、わたくしの体を元に戻す方法は、この世界のどこにもありはしないのです」

「っ!」

「あの事故の日、わたくしは死ぬはずだった。けれども、実験のサンプルとなることで生き永らえてしまった……!」

「エリーチカ様? それはどういう……」


 問い詰めようとアーチェがエリーチカに駆け寄ろうとしたその時、エリーチカはグッと体をくの字に曲げ、苦しげに呻き始めた。

 

「ひっ……っ……。ダメ、アー、チェ、にげ……」


 ザァッと金の髪が伸びた。蛇のようにうねるそれは、餌を求めているのだろうか。露出した肩はぶるぶると震え、エリーチカは自らの身を抱きしめた。


「お気を確かに! エリーチカ様!」

「もっと……」

「エリーチカ様っ!」

「温めて……!」


 カッと見開いたエリーチカの目は、真っ赤に血走っていた。穏やかな色は微塵も残っておらず、そこにあるのはただ、温もりに餓えた魔物の目。


 ――ああ、同じだ。


 かつての自分と、血を吸う魔剣だった自分と。

 そこには何もない。自らの存在を確かめるためだけに、温もりを求めるのだ。


 ――ならば、妾が終止符を打とう。彼女の苦しみに、妾の長い旅路に。


「エリーチカ様、お覚悟を!」


 白剣がきらめく。

 アーチェの最期の戦いの火蓋が切られた。

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