第28話:末路
「最後に……お前に《主》を失った召喚獣の末路について話しておかねばならん」
「末、路……?」
この世界に留まり続ければどうなるのか。考えなかったわけではない。
いつかは還れる――心のどこかでそう信じ、現実から目を背けていたのかもしれない。
還れない可能性を、アーチェは還れなかったのだという事実を、直視しなければならない時がやってきたのだ。
「召喚獣は術者からエネルギー供給を受けておる。その姿形を保っていられるのは術者の力があるからじゃ」
ポラジットと連合軍から逃げていた時のことを思い出す。雨の中、洞窟で暖をとっていた時、彼女は持参していたドライフルーツを分けてくれた。
――召喚にはエネルギーが必要なんですっ!
幻獣・飛鷲馬を使役していた彼女は体力を激しく消耗していたのかもしれない。
そこでハルカははたと動きを止めた。自分には――術者がいないのだ。
「幻獣を喚び出すことができるのは、杖に選ばれた召喚士のみ。簡易召喚以上のエネルギーを必要とする幻獣召喚には杖が必須じゃ。それは……杖の霊石を介さねば幻獣にエネルギーを供給できんからなのじゃ」
「アーチェ、あんたも術者を失って……」
「あの事故でマスターの杖も失われてしもうた。妾はこうして生き長らえておるのも……《悪食》の能力を持つが故。あらゆるものを喰らう妾の体は、戦場に身を置き、妾に向けられた全ての攻撃を食すことで膨大なエネルギーを得ることができたのじゃ。
しかしの、ハルカ、お前は違う。究極召喚獣であるお前は妾以上に、その身体を維持するエネルギーが必要じゃろう。食物を摂取するだけでは到底足りぬ。今、お前が生きていられるのは世界樹の力のおかげじゃ」
「世界樹……?」
「アイルディアの中央、四大陸の内海にある世界樹の浮島・ノルン大陸。そこにある召喚教会に、ダヤン・サイオスの杖、ウルドの杖が保管されていると聞いた。おそらく、ウルドの杖を介して世界樹のエネルギーが分け与えられておるに違いない」
ノルン大陸の名は、一度だけだか聞いたことがあった。確か、護送中の竜馬車で、ライラが退屈しのぎにと語った話の中にあったはずだ。
あの時、召喚教会にハルカの身柄は引き渡されるはずだと言ったライラ。だが、召喚教会はハルカの受け入れを拒絶した。
「今はよいだろう。しかし、悠長に構えているわけにもいかん。世界樹の力があれば安全なことに間違いはないが……逆に言えばお前の命を奪いたければ、ウルドの杖さえどうにかしてしまえば容易いことなのじゃ」
「そんな!」
「正常なエネルギー供給を絶たれた召喚獣は、次第に自我を失う。エネルギーを得るために手当たり次第に生けるものを襲うだろう。しかし、糧として得るだけでは足りぬ……とただただ殺戮するだけの存在と化す」
「そうなったらどうなるんだ……」
「この世界の魔物は、彷徨える召喚獣の成れの果て……あるいはこの世界の生物と交配した召喚獣の子孫じゃよ。お前にも、ああなる可能性があるということじゃ」
「……っ!」
この世界に残った者の末路。目的も分からず、《主》のいない自分。
自分を狙う者がウルドの杖を手にしたら――? 帰還さえ叶わず、アイルディアで狂った生を送ることになるかもしれない。
言葉を紡ぐことのできないハルカを見て、アーチェはふ、と息を吐いた。
「案ずるな。余程の策を講じぬ限り、召喚教会に容易く乗り込むことはできぬ。あそこは聖地じゃ。そうやすやすと落ちることはない」
アーチェは携えていた二本の剣の内、白剣の陽を幼い体に納めた。そして、何を思ったか、手の内にある黒剣をずいとハルカに差し出す。
「……?」
「察しの悪いやつだ。受け取れということじゃ。お前の身を守るために必要となろう」
「でも……」
「いいから、はよう」
「……分かった」
ハルカはおずおずと手を差し出し、アーチェの幼い手から黒剣を受け取った。ズシリと手に重い。アーチェがやすやすとこの剣を操っていたのがいかに人並みはずれたことだったのかがよく分かった。
「ハルカよ。妾たちはこの世界の理から外れた生き物じゃ。元素と繋がり、その力を行使することはできぬ。ならば……断て。この世界と深く繋がり、万物を構成している元素を断ち切れるのは、この世界の理に縛られぬ妾たちだけじゃ。それが、無刃の根源と言えよう」
アーチェはさらに続ける。饒舌な彼女のせいか――アーチェとの別れが近づいてきているように思えるのだ。
――もっと、もっと聞きたいことがあるのに……。
けれども、アーチェを引き止めて置くわけにはいかなかった。それは、痛いほどよく分かった。
物言いたげなハルカの顔を見て、アーチェは柔らかな笑みを浮かべる。この世界で懸命に生き抜いた彼女にしかできない笑い方だと、ハルカはそう思った。
「お前は気づいておらんかも知らんがな、少し出会った頃より背が伸びたの」
「身長? 俺の?」
「そうじゃ。妾は完全体として召喚された故、この体のまま時を止めた。しかし、お前はまだ不完全な身……肉体は成長し、心もまたより強くなるだろう。お前の成長を見届けられんことだけが……妾の心残りじゃ」
すっかり夜の闇が空を覆い尽くし、邸から漏れる灯だけが頼りだ。アーチェの姿は夜に溶けていきそうで、ハルカは頭を振った。アーチェの体からは仄かにチェリーバームの香りがした。それが一層やるさなさを募らせる。
ぐにゃりとアーチェの輪郭が歪み、白銀の髪が星の光に絡み合う。
――待ってくれ、俺も一緒に……!
叫ぼうにも声が出ない。喉奥にしこりのようなものが詰まった感覚。自分の平衡感覚さえも狂い始める。
あ、と気づいた時にはもう遅かった。
ハルカの体はぐらりと力を失い、庭の芝生に倒れこむ。
奇妙な感覚はアーチェが去ろうとしたからではない――自分の体の感覚自体がおかしいのだ。
ハルカは必死で顔をあげ、アーチェの目を捉えようとした。目が合うと、アーチェは困ったように首を傾げた。
「すまん、お前はついてくると言うと思うての。妾はお前を連れて行くことはできんのじゃ」
――アーチェ……一体何をしたんだ……!
「チェリーバームの葉はハーブティーに最適じゃ。緊張をほぐす効果があっての。チェリーバームの根を砕いた粉薬は……眠れぬ夜にいいのじゃ。催眠作用があって、いい夢が見られる」
――まさか、あの香り……!
どろりと瞼が重くなり、意識が深淵に引きずられて行く。疲れ果てた夜、眠りに落ちていく感覚と全く同じ――いや、それ以上に絡みついてくる。朦朧とする頭の中、アーチェの言葉を最後まで聞かねば、という思いだけがハルカをかろうじて覚醒させていた。
もうアーチェの後ろ姿さえ夜闇と眠りに妨げられて、見ることは叶わない。冷たい芝生の感触が火照った体に心地よく、さらに眠気を増す。
「妾が真に《主》の願いを叶えたその時……妾は双剣の片割れををお前に託そう。それまで、この白剣は妾とともに。そして黒剣は……ハルカ、お前とともに」
ザァ、と風が舞う。
耳に残るのは葉擦れの音が、それともアーチェの髪がなびいた音か。
ハルカは師が去る姿を見届けることさえできず、そのまま意識を手放した。




