第19話:フィル国民農園(前編)
「老師にはご兄弟がおられるのですか?」
「あぁ、弟がおる。アルフといってな」
ポラジットがダヤンに弟子入りして間もない頃。郊外にあるダヤンの屋敷で住み込みで働き、修行を受けていた。働くといっても簡単な掃除、料理、買い出し程度だ。要は自分でできることは自分でするように、という教えを守っていただけなのだが、ダヤンは家事の見返りに膨大な知識と好きなものを少し買える程度の小遣いをくれた。
「顔形は似ておるのじゃがの、性格はちぃとも似とらん。真面目さや誠実さといったもんは、ぜぇんぶ弟に吸い取られてしもうたようじゃ」
ダヤンは髭を揺らして笑った。
眠る前に、ダヤンは必ずポラジットと語り合った。寒い時は暖炉の前で、暑い時は庭に面した窓辺で。
自分で洗濯した寝間着はごわごわしていて、母親が洗ってくれたようなふわふわとした着心地ではない。けれども、それに不満はなかったし、夜のひとときがポラジットの楽しみでもあった。
「弟さん……アルフ様にお会いしてみたいです。老師と違って紳士でいらっしゃるんですね」
「ふんっ、儂かて紳士じゃわいっ!」
口調と裏腹に、ダヤンの顔は柔和だ。
成長してから分かる――あれは老師の優しさだった、と。軽口を叩けるほどポラジットの精神が安定し、ダヤンに心を開けるようになったことを理解していてくれたのだ、と。
「しかしのぅ、あれも損な性格じゃ。儂にとらわれ、足掻いておる。兄のようにならねばと気負うておる」
ポラジットは首をかしげた。老師は老師で、アルフ様はアルフ様なのでは――思ったことをそのまま口にしたのが、ダヤンは淋しげに微笑んだだけだった。
「アルフがそう思うてくれればよいのじゃがの……」
――老師、アルフ様……。
そこで、目が覚めた。
ダヤンの屋敷ではなく、ポラジット自身の屋敷の天井を見つめ、ダヤンとの過去を夢に見たのだと気づく。
「…………」
外はまだ薄暗いが、夜明けはすぐだろう。遠くで鳥の鳴き声が聞こえ、階下ではカナンが朝食をこしらえている音がした。
「アルフ様……本当は……」
シーツをぎゅっと握りしめ、窓の外を見やる。今日は社会見学の日だ。アルフの予想が的中しなければいいのに、と思う。もしも的中すれば――。
「本当のアルフ様は、何をお考えなのですか……」
気を引き締めなければならない。
ハルカと、そして学園の生徒たちを、決して傷つけたりはしない。
ポラジットはベッドから降り、薄い寝間着の上からショールを纏う。窓を薄く開けると、少し肌寒く、ポラジットは小さく体を震わせた。
*****
「竜馬車に乗るのも久しぶりだなぁ。いや、この尻が痛い感覚、ホント久しぶり」
学園の転移門から、見学先の農場の最寄り門へ移動し、それから竜馬車に揺られること約一の刻。制服ではなく、訓練着に身を包んだハルカは長時間の移動で痛む腰と尻をさすりながら、両隣に座るシャイナとサクラに話しかけた。
大型の客車を引っぱる竜は、ハルカが初めて見た竜よりもずっと大きい。黒緑の鱗がびっしりと全身を覆った竜は、生徒たちの乗る客車をだるそうに引きずった。
五台の竜馬車に分かれて生徒たちは乗車し、東へと向かった。
「ったく、何で俺様が……」
縦長の客車内で向かいの席に座っているのは、ルイズ・マードゥック。どうやら取り巻きと離れ、ハルカと同じ客車に振り分けられたことが気に入らないらしく、ぶつくさと不満を並べ立てた。
「仕方ねぇだろ。文句言うならこの客車にお前を割り振ったポラジットに言えよ」
「黙れよ、出来損ないの召喚獣風情が」
「呼び捨て禁止よ、ハルカ。デュロイ教官の名前を軽々しく呼ばないでっ!」
「ハルカ、もう少し寄って。狭い」
「…………お前ら、もうちょっと遠慮ってもんがねぇのかよ……」
はぁ……とため息を一つ。
ルイズはさらに激昂し、足元に置いてあったショルダーバッグから一枚の紙切れを取り出した。
「客車の割り振りはともかくなぁ……これだよ、これ! 今日のバディ表!」
「バディ表? 俺とシャイナがバディで、担当は菜園……。で、お前とサクラのペアが牛舎担当。何か問題でもあんのか?」
「とぼけるなよ、召喚獣野郎。問題だらけじゃねぇか!」
「あぁ、ルイズは牛舎が嫌なの? 可愛いものよ、動物って。それとも牛が怖いのかしら〜?」
ニヤニヤと嫌味ったらしくシャイナが言う。ルイズはブチ切れ寸前といった様子で、口元をひくつかせた。
「違うっ! この、竜騎族の俺様が! 野蛮な獣人族の女とバディを組むってことが問題なんだよっ!」
「お前……本人前にしてそういうこと言うんじゃねぇよ。それになぁ、獣人族が野蛮だなんて、そんなことねぇからな」
ハロルドやサクラは野蛮とは程遠く、むしろ謙虚で勤勉な性格だった。特にハロルドは自分の立ち位置を理解し、時にライラと並び立ち、時にライラを縁の下で支えている。そんな彼らに対し、野蛮やら下等やらと見下す人達の気が知れなかった。
「ん、別に構わない。そういうことは、言われ慣れているから」
「あのねぇ……サクラ、あなたもそんなことを言ってちゃいけないんじゃないかしら」
シャイナはまるで姉が妹を諭すように、柔らかな口調で窘めた。
「とにかく、お前は誰だって見下したいだけなんだろ。いい加減つまんねぇこと言うなよ」
「ふんっ……」
この場は分が悪いと思ったのか、ルイズは途端に口を閉ざし、鼻息を荒げてそっぽを向いた。ちらりとサクラの横顔を盗み見するも、本当に気にしている様子もなく、いつものように皮紐を器用に編んでいる。
――よくねぇけど、まぁ……いいのかな?
ハルカは複雑な心持ちで、隣のサクラに話しかけた。
「なぁ、サクラ。乗り物でそんなことして、酔わねぇの?」
「酔わない」
竜馬車の揺れを意に介することなく、サクラはさくさくと作業を進めていた。
その時、窓の外から馬が駆ける音が聞こえた。パカッパカッと軽快な蹄の音が、自然と心を軽くする。
アイルディアの馬も、ハルカの世界の馬とほとんど変わりはない。一点、違うところを挙げれば、頭部に短く太い角が生えているところだろうか。
馬はハルカたちの竜馬車に並走した。騎乗の人物は目から下を襟巻きで隠しているが、その青い髪色と瞳の色で、誰が乗っているのかはすぐに分かった。
ハルカは少し開いていた窓を引き上げ、全開にした。騎乗の人物――ポラジット・デュロイは目元をほころばせ、左手で襟巻きを下ろす。
「もうすぐ見えてきますよ! 今日お世話になる、フィル国民農園です!」
ハルカは窓から身を乗り出し、ポラジットが指差す方を見つめた。
アーチ状のゲートが並び、「ようこそ、フィル国民農園へ」と書かれた木の看板が掲げられている。山を切り開いて作った段々畑、広大な麦畑に菜園、縦長の建物は牛舎だろうか。奥の草地には放し飼いの豚の群れが見え、どこからか鶏の声も聞こえた。ゲート付近の建物では、この農園で採れたものを加工し、土産物として販売しているようだ。
農園に到着した竜馬車は、ゲート脇の空き地にゆっくりと止まった。
引率の教官は五名。ポラジットとグレン・カティア教官、あとの三人は授業を受けたことがないので分からなかった。
ハルカたちは竜馬車を降り、ゲートへ向かう教官たちの後に続いた。




