第14話:学園フレンドシップ(前編)
七月中旬。
クライア学園――特に図書館は異様な緊張感に包まれていた。必死で書物のページを繰る音、羽根ペンが紙面をひっかく音。
そんな中、ハルカとシャイナは窓際の一角を陣取り、向かい合わせに座っていた。二人分の教科書とノートを広げるのに、その机は十分な広さを有していた。
クライア学園の図書館は、ユーリアス共和国で一二を争う蔵書数を誇っていて、学園外からも貸し出し要請が絶えないという。
壁の本棚に収まりきらなかった本は、新たに設けられた本棚にしまわれていたが、もうこれ以上本棚を設置できるスペースも見当たらない。
石造りの学園で、この図書館だけが唯一、木造だ。いや、木造というのは正確ではないかもしれない。
壁や床には薄い木の板が丁寧に貼り付けられ、一見すると木造の設備に見えるのだ。しかし、学園建物の一室であるため、土台は石で出来ている。
なぜこのような構造になっているかというと、これはもう創設者の趣味でしかない。
あたたかな木の質感が、心を穏やかにし、学業に取り組む際の集中力を増す、というのが持論であったそうだ。落ち着いた木の床は、図書館独特の静寂と相まって、この学園の歴史を感じさせた。
「もう……来週から試験だっていうのに、まったく勉強してないだなんて……。信じられないわ」
周囲の生徒の邪魔をしないよう、シャイナは小声でハルカを窘めた。
装いはすっかり夏服。白のブラウスに学校指定のスカートだ。
ブラウスの胸元にはエンブレムが、襟元には学年のカラーを示す臙脂色のラインが一本、絹の刺繍糸で縫いつけられている。ちなみに男子の制服も、同じ造りのシャツだ。
優等生のシャイナにとって、勉強をしないということはあり得ないことなのだ。ハルカは言い訳がましい口ぶりで弁明する。
「だってよ、家に帰っても特訓特訓でさ。あれじゃあ、教科書開く前に寝落ちするのがオチだって」
「甘ったれてんじゃないわよ。落第したらどうするつもり? デュロイ教官の顔に泥を塗るような真似したら、ただじゃ済まないんだから。そこのところ、分かってるの?」
「……分かってるよ」
ハルカはムスリと唇を尖らせた。
授業の内容は理解できているのだ。基礎が肝要という学園の方針に沿って、アイルディアの人間なら知らぬ者はいないということから、順を追って説明がなされた。
ただ、いかんせん、授業の進む速度が凄まじく早い。この学園はそもそもエリートを育成するための学び舎であるのだから、それも当然のことだった。
少し集中力を切らし、呆けている間に、手元の教科書の説明は何ページ分も進んでしまっていることもしばしばだ。その都度、ハルカはシャイナに泣きつき、ノートを借りた。
元の世界・日本でも、どちらかと言えば勉学は得意でなかった。体育や美術といった、体や感性を働かせるものが好きだった。
けれども、ハルカの成績は悪くはなかった――いや、むしろよかったくらいだ。
――夏兄がいたから。よく勉強手伝ってくれたっけ。
頭から教科書の内容を覚えようとし、苦戦するハルカを見かねて、いつも兄が手助けしてくれた。
要領のいい夏野は授業のポイントや試験のヤマを教えてくれたものだった。市民図書館に無理矢理連れていかれ、こんな風に向かい合いながら勉強したことを思い出す。
あの時は億劫だと思っていたことも、今となっては懐かしい。
クルクルと器用にボールペンを回し、参考書を読む兄。夏野が勉強する時は必ずボールペンを使っていた。インクの減りを見ると、自分がどれだけ勉強したのかが分かるかららしい。
ハルカは夏野のことを思い出しながら、全く量の減っていないインク瓶と睨めっこし、むぅ……と唸った。
「特訓の方はどうなの。勉強する暇もないほどしごかれてるなら、なかなか力がついてきたんじゃないの」
「やっとアーチェが相手してくれるようになったよ。まだ木の剣からは卒業できてないけど。……今まではずっと、フェンリル相手だったから」
「それって一歩前進?」
「まぁな」
羽根ペンを置き、ハルカはぐっと背筋を伸ばした。図書館で籠っているのが嫌になるくらい、外はいい天気だ。コキコキと首を鳴らしながら、立ち上がる。
「ちょっと休憩。なんか飲みに行こうぜ」
「あなたねぇ、さほど進んでないじゃないの」
「いいからいいから」
「本当に……。休憩したら、ちゃんと勉強しなさいよ」
シャイナは肩をすくめ、教科書に栞を挟む。ハルカに続いて図書館を出たシャイナは、開放感に浸るように腕を目一杯伸ばした。
「カフェテリアに行きましょうよ。頭のスッキリするものが飲みたいわ」
「賛成。眠たくなってきたところだったし」
ハルカとシャイナは二人並んで、廊下を歩いた。
縦長の窓にはガラスも何もはまっておらず、外の暑い空気が流れ込んでくる。
図書館内は結界が施されていたため、快適に過ごすことができたが、館の外に一歩出ると、すっかり夏模様だ。それでも、日本にいた時ほど不快感を感じないのは、空気が乾いているからだろう。
図書館のある二階の廊下から外を見下ろすと、すぐそこに訓練場が見えた。
ここからポラジットは試合を見ていたのだな、とぼんやり思う。普段なら自主練習に勤しむ学生の姿があるのだが、試験前となれば体を動かしている学生などいなかった。
カフェテリアは一階にある。と言っても本館の中にあるわけではなく、南側にある渡り廊下を進んだ先に、別棟として設けられていた。
カフェテリアには訓練場に面したテラス席と、湖に面したテラス席がある。屋内のカウンターで注文し、購入した物を受け取るというセルフサービス形式だ。
ハルカとシャイナはカウンターで一杯ずつ飲み物を注文し、店員にコインを手渡した。飲み物を受け取った後、湖側の席に腰を下ろす。
湖の眺望は最高だった。透明な水がどこまでも果てなく広がる。遠くに対岸の街並みが見えた。
「いい景色ね。でも、転移門がなければ、この湖は渡れないのよ」
「え、向こうに街が見えてるのに?」
「そう、これも結界の力。門に認証されなければ、転移門は絶対人を通さない。無理に湖を渡ろうとすれば、濃霧が視界を遮って、前へ進めなくなるの」
「それでも突っ切ったら?」
「いつまで経っても岸には着かないわ。同じ所をぐるぐるまわり続ける……そうなるよう、術がかけられているの。だから、学生手帳を忘れちゃいけないわけ。門を開ける鍵になってるからね。うまく作られていて、本人以外の所有者が手帳を持っていても、作動しないようにできているの」
「マジ? 忘れたら泳いで渡ろうと思ってたのに」
ハルカのジョークに、シャイナが笑う。「バカね」と言いながら、目尻の涙を拭った。
ところが、次の瞬間、シャイナの笑みが凍りつく。途端に不機嫌な面持ちになり、ハルカの背後を睨みつけた。
「シャイナ? どうした?」
「…………」
「よぉ、負け犬が二匹、仲よくじゃれあってなぁ、おい。試験前に余裕かましてて大丈夫なのかよ。二人揃って落第するつもりってか?」
――この声は……。
ハルカは頬を引きつらせ、後ろを振り返った。予想通りと言うべきか、そこにいたのは赤髪の竜騎族の少年ルイズ・マードゥックと、取り巻きの二人の姿。
彼は学園指定のシャツを着ていたものの、下は細身のズボンを履いていた。黒い皮製のそれはもちろん、学園指定のものではない。
「ルイズ……」
「お、転入生、俺様の偉大な名前をようやく覚えたのか。それじゃあ俺様もお前を名前で呼ばねぇとなぁ…………バハムートくん」
ゲラゲラと取り巻きが下品に囃し立てる。シャイナはたまらず、三人に食ってかかった。
「あなたたち、いい加減にしなさいよっ! そんなことして何になるっていうの!?」
「別に、何にもならねぇよ。俺様はバハムートくんと仲良くなりたいだけだって、なぁ? バハムートくん」
「…………」
「ハルカも! 何か言い返してやりなさいよっ! 悔しくないの!?」
ルイズは後ろからハルカの両肩を掴んだ。何も知らない者が見れば、仲良くしようとしている、と見えなくもない。
だが、ルイズの指はギリギリとハルカの肩に食い込んでいた。余計なことを言うな、と警告しているように。
「……あのさ、シャイナ」
一触即発。張り詰めた空気。
そのピンと張った糸のような空気を、ハルカはたった一言でひっくり返した。
――というよりむしろ、ブチリと断ち切った。
「ルイズの制服って、校則違反じゃないわけ?」




