第8話:夏雪
「ねぇ、転入初日から疲れてるんじゃないの? そんなに紹介されるの、緊張した?」
疲れきり、心なしか痩けたようにも見えるハルカ。席についたハルカの側にシャイナが近づき、声をかけた。
ハルカは「よっ」と小さく片手を挙げ、肩から斜めがけしていた革鞄を机の横に掛け直した。
「あー……緊張とかそんなんじゃなくて、これはだなぁ……」
転入初日──実質は二日目なのだが──ハルカは担任教師に紹介され、新たなクラスの一員となった。
一年生である初級クラスの面々は、まだ学園に慣れていないこともあり、転入生であるハルカの存在に異様に沸き立っていた。とは言え、ウワサの召喚獣である彼を遠巻きに見守るだけにとどまり、実際に声をかけてくれるのはシャイナ一人だけだ。ざわつく教室の中で、シャイナは馴れ馴れしくハルカに話しかける。
「まぁ、カティア教官は武術担当で、あまり細かいことに気が利かないし。あんなサッパリした紹介でも仕方ないんじゃない」
担任のグレン・カティア教官はいかにも体育会系といった、屈強な大男だ。赤金色の刺々とした短髪は、かっちりと油で固められていた。学園の教官用の制服だと言われなければ、グレンが着ているものは軍服と間違えられるかもしれない。
朝礼で簡単にハルカを紹介したグレンは、おそらくいつも通りに話をし終えた後、生徒と声を交わすこともなく、そのまま教室を去っていった。
「いや、カティア教官のことじゃなくて、うちに別の鬼教官がだなぁ……」
もぞもぞと口ごもるハルカに、シャイナは首をかしげた。
古い木製の机は長いこと使われているのか、いい具合に年季が入っていた。ニスで黒光りする机に、ハルカはドサっと上半身を投げ出す。
「鬼教官?」
「ポラジットのやつが呼んだんだよ。とにかく力をつけろって、家庭教師をな」
「なんですって! デュロイ教官がっ、あんたのためにっ、わざわざっ⁉︎」
「そこまで言ってねぇだろ、おい」
「うっさいわね、言ってなくてもそういうことでしょっ! あ〜、やだやだ、なんであんたのために教官が……」
シャイナはわざと大きな音を立てて、チッと舌打ちした。
ポラジットファンのシャイナにとっては、羨ましいことこの上ない話なのだろう。嫉妬していますと言わんばかりに、憎々しげにハルカを一瞥する。
「で、その鬼教官ってどんな人なのよ」
「すっげぇガミガミうるせぇの。チビなのに『妾はお前より年上じゃ』なんて言っててさ。師匠って呼べっていうんだぜ」
「チビなのに……年上?」
「そうそう、腕は確かみたいだけどな。なんとか流の師範だとか言ってたっけ」
「それって……無刃流のことじゃないの? まさか、白銀の髪で、菫色の瞳で……」
ハルカはポンと手を叩き、シャイナをピッと指差した。なぜシャイナが知っているのだろうかという思いがよぎったが、あまり深く考えても仕方のないことだと割り切る。
「シャイナ、知ってんのか? 見た目は十歳くらいで」
「まさか……まさか……」
「アーチェっていうんだ」
「あ、あ、あ、あ」
シャイナはピキピキと固まり、口をぱくつかせた。ハルカはそんなシャイナにお構いなく、アーチェへの不満をぶつくさ呟く。
「そりゃ有難い話だけどさ、何もあんな偉そうに言わなくっても……」
「あ、あんた! アーチェ様に剣を習ってるの⁉︎ デュロイ教官の家に間借りしてっ、アーチェ様にご指導いただいて……どんだけ贅沢なのよっ!」
「へぁ⁉︎」
はぁ、とシャイナはため息をついた。
「剣聖アーチェ・アメル……。ユーリアス共和国で知らない者はいないわ。剣の道を志している者にとっては雲の上の存在。ハルカは知らないから仕方ないけれど、とんでもないお方の元についたものね」
「剣聖? だって、アーチェもポラジットも、そんなこと一言も……」
「言う必要ないもの。まぁ、とにかく、強くなりたいのなら、アーチェ様についていけば間違いないわ。それだけは確かね」
シャイナはすっくと立ち上がり、自分の席へと戻っていく。手提げ鞄から小脇に抱えられるほどの麻袋を取り出し、ハルカについてくるよう、くいっと指で合図した。
「シャイナ、何処へ……」
「あなたも訓練着を持って。もうみんな行ってしまったわ」
シャイナとの会話に夢中で気づかなかったが、周りにいたはずのクラスメイトは誰一人、教室に残っていなかった。ハルカはあたふたと新品の訓練着を取り出す。
がらんどうの教室は静かで、白墨の粉が漂っているのが見えた。教室の黒板には、グレンが大きく書き殴った「ハルカ・ユウキ」の文字が残されている。日本語とは違った形状の文字ではあるが、召喚獣であるせいか、一見難解なその文字を、ハルカはスラスラと読むことができた。
シャイナはタン、と教卓のある段へと上る。周りの床より一段高いそこは、てかてかと光る材質の白石で出来ていた。学生たちが過ごす灰色の石床とは全く異なっている。シャイナは黒板消しを手に取り、ハルカに背を向けた。
「一限目は実技だったかしら。グレン教官の武術訓練よ」
何度か腕を上げ下げし、シャイナはハルカの名前を消していく。筆圧の高いグレン教官の文字はなかなか消えず、シャイナは黒板を強くこすった。
「実技の授業は、私たちも初めてよ。四月に入学してから二ヶ月、ずっと座学で基礎を叩き込まれたから。でも……あなたは違うわね、ハルカ。あなたはすでに、実戦を経験済み」
「……っ!」
「逆にあなたに知識は皆無。さて……」
黒板から文字はすっかり消えていた。どこにハルカの名前が書かれていたのか分からないほど、綺麗に磨かれていた。
振り返ったシャイナは悪戯っぽい笑みを浮かべている。まるで、希少な存在であるハルカを観察するのを楽しんでいるかのように。
「あなたのお手並み拝見ってところね」
「……見てびっくりすんなよ」
自信などなかった。剣も、力も、中途半端にしか使えない。けれども、精一杯の虚勢をはる。
そうでなければ、クラスメイトという名のライバルに丸ごと飲み込まれてしまいそうな気がした。
*****
森の木々の陰から鳥の群れが飛び立った。静かな昼の山、その妙な気配に、獣人族の初老の男の胸はざわついた。
アイルディアでも畜産業というものはあるが、繁殖の難しい貴重な食材は、直接山へ狩りに行く他はない。男はそういった食材を調達する猟師だった。
獲物に勘付かれないよう、深緑の森色の衣服に身を包んでいる。猟銃を背に抱え直した男は、そろりと足音を忍ばせ、森の奥深くへと分け入っていった。ピクリと頭の犬耳を動かし、耳を澄ませる。
仕事柄、山の変化には敏感だ。風や温度、気配を読み、天候や獲物の位置を探る。だが、今日の山は少しおかしかった。
湿度が高く、水の粒子一粒一粒が大きい。空気が纏わりつくような感覚が何とも気持ちが悪く、思わず吐き気がこみ上げる。
「少し、休むか」
山歩きに無理は禁物だ。ちょうど前方に小さな洞窟が見え、そこで休もうと決めた。
薄暗い洞窟に入り、腰を落ち着ける。ポケットから火打ち石を取り出し、内に転がっていた木の枝を拾い集めて火をつけた。
仄かなオレンジ色の炎が男の心を和ませる。火があるだけで心強い。男はふっと面をあげ、洞窟の奥を見やった。
「……ひっ……っ……っ……」
啜り泣く声。しゃくり上げる息づかい。
それは女の声だった。山で遭難でもしたのだろうか。男は今までにも、山で遭難者に出くわし、救助した経験が何度かあった。今回もそうに違いないと、声のする方へ移動する。
「おーい、大丈夫か? 怪我ないか?」
「大丈夫です。少し道に迷ってしまって」
男の問いかけに少し遅れて返事があった。思った以上に元気そうで、男は安堵する。
奥へ進んで行くと、女の影が見えてきた。雪より白い肌の、若い女だ。薄氷のような色のワンピースを身につけ、ぶるぶると震えている。
「そんな薄着で来たら駄目じゃろう。ほれ、この上着を着て」
袖のないワンピースから覗く素肌にドギマギしながら、男は上着を差し出した。女は手を伸ばし──上着ではなく、男の手を取った。
「あぁ、温かい……」
「……なっ……!」
女の手は恐ろしく冷たかった。触れた所から体温が奪われる。
「もっと、温めて下さいな」
女は男を手繰り寄せ、その首に腕を回した。最初は戸惑いながらも応じていた男だったが、その冷たさにガクガクと震え始める。
「ちょ、もうこれ以上は」
「もっとあなたの魂で。私を温めて下さいな」
肩口までだった女の金髪はみるみる伸び、男の四肢に絡みついた。毛束の先がガバリと開き、牙の生えた口が現れる。女の足元に氷柱が形成され、男の靴を飲み込んでいく。
「ひぃっ!」
男はようやく気がついた。女は遭難者でもない、ましてや人間でもない。
これは──魔物だ。
しかし、気づいた時はもう手遅れだった。声を上げて助けを請う前に、ぐっと喉奥を血塊が塞ぐ。
頸動脈を狙って、毛先の牙が突き立てられた。次にふくらはぎ、横腹、二の腕。
「温かい……温かい……」
女はうっとりと目を細める。毛先は血を啜り、手は男の頬を滑る。血の気の引いていく男の顔を温めようと何度もさするが、男の体温が戻ることはない。
「温かい……温かい……」
女の瞳が深い赤に染まる。
周囲を舞うのは、無色透明のアスタリスク。
「温かい……温めて……」
それが男の聞いた最後の言葉だった。




