第6話:チェリーバームティー
台所でティーセットの支度を整えたカナンは、銀のカートに一式を載せると、カートを押して台所を後にした。
主人・ポラジットの話に寄れば、客人であるアーチェはチェリーバームのハーブティーをこよなく愛しているということだった。用意したお茶は、朝市で仕入れたチェリーバームをふんだんに使用した、カナンの自信作である。ポットに蔦柄のティーコゼーをかぶせ、カナンは足早に、しかし一流のメイドらしく上品に廊下を進んだ。
穏やかな午後のひととき。客人にはそんな時間を過ごして貰おう、と思っていた──が。
「…………てっ! ちょ……っと……くれ!」
「……にを……言うて……」
応接間に近づくにつれ、穏やかでない、というよりむしろ騒々しい会話の片鱗が飛び交っている──カナンにはそんな風に聞こえた。カナンは嫌な気配を察知し、廊下の中央から少しカートをずらし、そして自身も廊下の端へと徐々に移動した。
そして、カナンの予感は奇しくも的中する──。
「さぁ、行くぞ! 小童!」
「誰が小童だ! っててて! 馬鹿力で引っ張るんじゃねぇぇぇっ!」
茶と銀の風が、バビュンという擬音語そっくりそのままの音で、カナンのすぐ隣を行き過ぎた。ちょうど正面にあった応接室の扉を見やると、両開きのそれは完全に開け放たれていて、謎の風がそこから飛び出してきたのだということに、カナンは少し遅れて気がついた。
過ぎ去った疾風の余韻がカナンのメイド服のスカートをひらひらとはためかせる。カナンがすっと後ろを振り返ると、先ほどの二色の風はピタと立ち止まっていて、今度はきちんとその正体を見てとることができた。銀は客人アーチェ・アメル。茶は邸の新たな住人ハルカ・ユウキ。
ハルカの首根っこを掴み、彼を引きずり倒していたアーチェは、勢いよくカナンの方へと振りかえり、カッと目を見開きながら問いかけた。
「カナン、それはチェリーバームのハーブティーか?」
「てめ、急に立ち止まんな〜! ポラジットはどこだ、カナン!」
同時に二つの質問を投げかけられたカナンはしばし思案する。そして、より回答の優先順位の高い方の答えを口にした。
「はい、アーチェ様。チェリーバームティーです」
「あ、こら、カナン! 俺の質問に先に答えろっ!」
「アーチェ様の方が優先順位が高いと判断致しましたので。ちなみにマスターのお帰りは夕方以降になるとのことです」
「……っ! ポラジットのやつ!」
「ふむ、チェリーバームティーとはまたなかなか気の利いたものを」
「はい、マスターからアーチェ様のお好みをお聞きしておりましたので」
「お〜い! 俺との会話のキャッチボールはどうなってんだよ!」
カナンは完全にハルカを無視し、アーチェに向かってニコリと微笑んだ。カナンの横を通り過ぎたアーチェだったが、チェリーバームティーにつられ、踵を返す。──もちろん、ハルカの首根っこは掴んだままだ。
「アーチェ! 引っ張るんじゃねぇ!」
「師匠と呼ばんか! この不届き者が!」
ガツンとアーチェはハルカの頭を拳骨で殴る。そして、その衝撃で目を回しているハルカをさらに引きずり、シルバーのカートの側へ引き返した。
「うむ、本当はゆっくりと茶を味わいたいものだが……何せ時間がない。此奴を早々に叩き直してやらねばならんからな」
そう言うと、アーチェはティーコゼーを乱暴に引き剥がし、小さな手でポットの取っ手を握った。そして──。
「アーチェ様、それではお熱うござい……」
「うむ、構わぬ」
「げっ!」
ちょうど飲み頃に抽出されたバームティーのポットの注ぎ口に、アーチェは薄桃の柔い唇をつけた。蓋の穴からは細く、長く湯気がたなびいている。そんな熱湯に近い熱さのものを、アーチェは躊躇いなく口にした。ゴクゴク、と喉を鳴らし、プハッと飲み干す。
「あちち……。結構結構、このくらい熱い方が、体もほぐれてよいわい。無作法ですまぬの、カナン。さて、では行くか」
「アーチェ様、どちらへ行かれるのですか? お帰りになられるのでしたら、竜馬車でお送り致しますが……」
「いや、いい。邸の庭を借りたい。少しばかり草地の部分があったろう。今日の訓練はそこでしよう」
「左様でございますか。マスターよりアーチェ様の指示に従えと仰せつかっておりますので、どうぞご自由にお使いくださいませ」
「おい、俺は……」
「それではアーチェ様、行ってらっしゃいませ」
「だあああ! 俺の話を聞けえええっ!」
ハルカはカナンに呼びかけるも、効果はない。アーチェはハルカの首根っこをさらに強く掴み直し、応接室を出て来た時と同じ勢いで走り出した。
幼いアーチェの体のどこにそんな力があるのか。少年とは言え、アーチェに比べれば大きいハルカの体をぐいぐいと引っ張って行く。走る勢いは増していき、ハルカの体は床から浮き上がりそうなほどだ。
「アーチェ〜〜ッ! ストップ、ストップ!」
「師匠と呼ばんか〜!」
ドドドドド、と床を豪快に踏みならしながらアーチェ達の後ろ姿は遠ざかる。砂埃を上げんばかりの勢いだが、カナンの手によって掃除された廊下の絨毯からは塵ひとつ舞い上がることはない。
そして、件の二人は廊下をほぼ直角に曲がり切る。勢いはそのまま、バタン! と玄関扉が閉まった音がしたかと思うと、途端にあたりは静まり返り、昼下がりの静寂が訪れた。小鳥がさえずり、窓からそよぐ風がカーテンを揺らす。
「キキィ?」
「あら、リーフィ。起きてしまったの?」
カナンのエプロンのポケットからリーフィがそっと顔を出した。どうやらそこで昼寝をしていたらしい。眠気まなこを擦り擦り、リーフィは大きく欠伸した。
「もう少し寝てらっしゃいな。マスターのお帰りはまだですよ」
「キキィ……キィ……」
リーフィはカナンの言葉に頷き、再度ポケットの中へともぞもぞ潜り込んだ。赤子を寝かしつけるように、カナンはポケットの上からリーフィの背をポンポンと優しく叩く。
静かだが、どこかざわめく。
それは庭から微かに訓練の声が聞こえるからだろう。だが、その声は邸の中にはほとんど届かず、むしろ心地よいバックミュージックにさえ感じられる。
「……夕飯の仕込みでもしましょうか」
ひと騒動あったとは言え、今日も平和だ。
カナンは何事もなかったかのようにカートを押し、キッチンへと戻って行った。




