第3話:遠く喚ぶ声(後編)
大地の震えはおさまらない。
軍の本部となっているこの城は岬の先端にある。城の裏は海だ。しかし、その海も魔力の影響で荒々しく波立ち、流氷まで浮かんでいる始末だ。警告の攻撃で生き残った兵士たちは城内へ避難していた。
逃げようにもどこにも逃げ場がない。
兵士たちの士気は地の底まで落ち、戦などできる状態ではなかった。連合軍は退路を絶たれてしまったのだ。
ウルドの杖が仄かに光を帯びている。杖を飾る緑色の霊石が、まるでダヤンの呼びかけに応じているかのようだ。先ほどまで椅子に立てかけてあったそれは、衝撃によって地面に倒れてしまっていた。
ポラジットはウルドの杖を拾い上げる。霊石が放つ光の圧力で、ポラジットの薄青の長い髪がふわりとたなびいた。蒼穹の杖とウルドの杖、二本の杖を抱えながら、ダヤンの元へと小走りに急いだ。
ダヤンは震える大地を見据えていた。束の間、ポラジットはダヤンの背を見つめる。
そして、ぐっと唇を引き結び、ダヤンの側へと歩み寄った。
「老師、ウルドの杖をお持ちしました」
「すまぬの、ポラジット」
ダヤンは柔和な表情でポラジットに答える。
「約束の刻限まで……数分、か。コーデリアスのやつめ、折れんかったようじゃのぅ
」
かかか、とダヤンは大口を開けて笑った。
「さて、ふるぱわーぜんかい、とやらで臨まねばならぬの」
ダヤンは軽口を叩きながら、ポラジットの頭をぽんぽん、と撫でた。
その手の温かさに涙がこぼれそうになる。
(でも、老師は私の涙なんか……望んでいない)
ポラジットはずい、とダヤンの杖を差し出す。杖を受け取ろうと伸ばしたダヤンの指先が、ポラジットの指に触れた。
だが、その触れ合いも一瞬のこと。
──オオオオォォォォォ
城の上空で呻き声にも似た咆哮が聞こえる。
「あ……あれは一体!?」
城の真上をを見上げライラが叫ぶ。
そこに現れたのは、禍々しいほど赤黒い雲の渦。
パリパリ、と雷を纏った雲が寄り集まり、みるみる内に厚みを増していく。
「これが……帝国の力……」
渦の中心に魔力が収束し、膨大な熱量を発している。
震える足ではうまく立っていることができず、ポラジットはペタリとその場に崩れ落ちた。
「時は……来たれり」
ダヤンは何かを──想いを振り切るように呟くと、ポラジットに背を向ける。
バルコニーの中心で、ダヤンはウルドの杖を掲げる。その姿は気高く……そして雄雄しかった。
「障壁」
ブゥン、と杖が鳴る。ポラジットとライラを薄緑色の球体が覆う。シャボン玉のようなそれは、二人を包み、僅かにふわりと浮き上がった。
しかし……ダヤンの体の周りには、何もなかった。彼の体を守るものは何も──。
「ろ……老師……なんで……」
ダヤンの後ろ姿を見つめていたポラジットが目を見開く。
「……っ……どうして老師の周りにはシールドが張られていないんですかっ‼︎」
命を賭しても──。
ダヤンはそう言っていたが、それはあくまで覚悟の話だと思っていた。
ダヤンであれば、きっとみんなも自分も、双方助かる方法を考えてくれるはずだ、と。
もしダヤンの命が失われることになったとしても、それはダヤン自ら命を捨てるわけではない、と信じていた。
だから、ポラジットはダヤンが最初から自分を犠牲にするつもりだったとは、露ほども疑っていなかったのだ。
『我が弟子よ、聞こえるか……』
大きくなる地響きや雷鳴で声など届くはずはなかったが……ポラジットの耳にはダヤンの声が確かに届いていた。
ポラジットは壁を拳で殴りつけた。薄い膜のような、弱々しいものであるのに、いくら拳を叩きつけても壊れる気配がない。血が滲み、骨が軋んでもなお、ポラジットは壁を打つ手を止めようとはしなかった。
「老師!」
『儂は、この障壁を通してお主に語りかけておる。どうやら……別れの時が近づいておるようじゃ』
喉の奥で声が漏れた。パタパタと溢れる涙が足元を濡らす。
『おそらく、儂が全魔力を注ぎ込んだシールドをもってしても、攻撃を完全に防ぐことはできんじゃろう。帝国の力を甘くみとった……これは儂の誤算じゃ』
「私もお手伝いします。二人の力を合わせれば……!」
『いや、足りぬ。それでも足りんのじゃ』
ダヤンは小さく息を吐いた。
『この城塞も跡形もなく崩れるじゃろう。お主らと兵を守れば、儂の魔力は尽きる。それでも儂はお主ら皆を守りたい。じゃから……』
足元の床にピシリ、とヒビが入る。城は崩れ始めていた。
『儂は禁断の召喚術──究極召喚を行う』
「……っ!?」
究極召喚。それはポラジットにも聞き覚えがあった。
有史以前の時代にあったとされる禁断の召喚術だ。
現代でもその召喚術を再現しようと、多くの召喚士が挑み……そして誰一人として成功しなかった。
「挑んだ召喚士は皆失敗し、命を落としたと……」
『できるかどうかは分からん。……いや、やらねばならん』
杖を振るうダヤンは、こちらを振り向こうとはしなかった。
(もう一度、もう一度顔を見せてください……)
そう言いたくなるのを懸命に堪える。
『ポラジットよ、お主には教えることはとうの昔になくなっておった』
「……やめてください……」
『お主ならできる』
「……やめて……」
これ以上、言わないでください。
絞り出した言葉は、小さく、か細く。
ダヤンは少しだけ後ろに顔を向け、いつものように悪戯っぽく笑った。
『儂の後継者として、未来を託そう』
ガラガラと天井が崩れた。
シャンデリアがキラキラと光を放ちながら散っていく。
壁の絵画が瓦礫に潰され、ステンドグラスが砕けていく。
崩壊した天井から、世紀末のような空が見えた。
『今こそここに……! 出でよ、究極召喚獣バハムート!!』
雲の渦と城の間に、巨大な魔法陣が浮かび上がる。
それは雲の渦からポラジットたちを守るように銀色の光を放っていた。
黒と銀が中空でぶつかり合い──。
ポラジットたちは眩い閃光に包まれた。
*****
「……ト……ジット、……ポラジット!!」
どれほど気を失っていたのだろうか。
聞き慣れた声が自分を呼んでいるのに気づき、ポラジットは薄っすらと目を開ける。まっさらな青空に赤橙色が映えて美しい……とぼんやり思う。
「ラ……イラ……副官……」
返事をしたポラジットに、ライラはほっ、と安堵の息を漏らした。
ライラに助けられ、ポラジットはゆっくりと体を起こす。
「城は……?」
尋ねた直後、聞くまでもなかったことだとすぐに思い知る。
灰色の瓦礫の山の上に自分は横たわっていたのだ。かつて城だったそれは、一片たりともその名残を残してはいなかった。文字通り、粉々にされてしまっていたのだ。
「城は見ての通りだ。兵たちは無事だ。ダヤン様のお力のおかげで傷一つない。だが、あれは一体……」
ライラは瓦礫の山の頂を指差す。
ポラジットはゆっくりと視線を移し、ライラの指し示す方向を見やった。
「あれは……まさか……」
まるでポラジットたちを守護するように、ウルドの杖が突き立っていた。
そして──その杖の下には、一人の少年が横たわっていた。