第26話:黒い絵画(後編)
「俺が……お前を解放する!」
ハルカはクレイブ目がけて跳躍すると、絵画の中心目がけて剣の切っ先を向けた。
「若造が……知ったような顔をするでないぃっ!」
ハルカの進路を防ぐように、灰色の蔦が絡み合って壁を作る。
シュルシュルと蛇のようにうねる蔦に向かって、ハルカは剣を振りかざす。
切り落とされた蔦の断面は不気味なほどぬめっていて、ボトリと落ちた蔦の先端はまだ生きているかのようにビチビチと床を跳ねる。
「お前に……お前に何が分かる!」
剣を大きく振るったハルカの体に隙ができる。
それをクレイブは見逃さなかった。
少年の細い右手首に蔦を絡みつけ、ハルカの体をグッと天井近くまで持ち上げる。
急激に手首を締めつけられたせいで、ハルカの手から剣が落ちる。
カ──ンと硬質な音を立てて落下した剣は、次の瞬間、絵の具に戻り、ベチャリと地面を汚した。
「分かんねぇ……分からねぇ! でも!」
ハルカは左手で蔦を掴む。
手の平から迸る銀光が蔦を焼き、ハルカが握った部分はボロボロと消し炭になって崩れ去った。
地面に着地したハルカは黒く蠢く絵画に向かって手をかざす。
「愛する人のためだって言うなら……どうして生きて尽くそうとしないんだ!」
ハルカの足元から銀の粒子が浮遊する。
蝶の鱗粉のようにふわふわと宙を漂い、禍々しい室内を仄白く照らした。
「どうして……そこまで自分を犠牲にしようとするんだ! そんな歪んだ愛し方……違うだろ!?」
クレイブに向けた手の平が輝き始める。
絵画からハルカを見下しながら、クレイブは乱杭歯を剥き出しガチガチと歯を鳴らした。
「貴様には分かるまい……。人を恋うたことがあるのか……。心を奪われたことがあるのか!」
カンバスに魔法陣が描かれていく。
筆で描かれたようなそれは、ところどころ擦れ、濃淡があった。
油絵具で盛り上がった魔法陣は完成するやいなや、グルグルと回り、黒炎を纏う。
「人を愛したこともない小僧に、私の愛を否定する資格などない!」
銀を散らしながら、ハルカは再び地を蹴った。
ハルカを絡め取ろうとする蔦は、銀粉に触れた途端、根元まで砂塵と化し、サラサラと消滅する。
少年と老爺を阻むものはもう何もない。
「私は私の信念のために──愛のために戦うのだぁっ!!」
クレイブへと一直線に飛ぶハルカを、灼熱の黒炎が襲う。
手の平から放たれる銀が黒炎を裂き、ハルカの眼前に道を作った。
「それでも……あんたはあんたでいなきゃならないんだ!」
ハルカはクレイブの顔面をガシリと鷲掴んだ。
指の間からクレイブの黄ばんだ目が、怨むようにハルカを睨む。
「出てこい」
ハルカの瞳が銀に輝く。
絵画の周囲が小刻みに震え、額縁にピシリとひび割れる。
クレイブの体がカンバスから引き剥がされ、ブチブチと生地が裂けていく。
「オオオォォォ──ッ」
断末魔の悲鳴が太く、長くこだまする。
眼球が飛び出しそうなほど見開かれた目からは血が流れ、涙のようにクレイブの頬を濡らした。
「そこから出てこい! クレイブ・タナス!!」
閃光と叫び。
光が消えたその場所に絵画は影も形もなく──ただ骨と皮ばかりの老爺がうずくまっていた。
*****
屋上から邸内に潜入したライラは目を丸くした。
クレイブの私兵たちはほとんど気絶していたのだ。
(戦闘があったのか……!)
ライラ一行は、光源であろう部屋の前まで、一戦も交えることなく到達した。
「突入!」
ライラのよく通る声が、廊下に響き渡る。
ライラ率いる竜騎隊の兵が扉をぶち開け、後方でハロルド率いる射撃隊が銃と弓を持って構える。
しかし、ライラは目の前の光景に戦意を喪失した。
「ハルカ……ポラジット。それに、クレイブ・タナス議員……」
鼻が曲がりそうなほどの悪臭が漂う部屋。
部屋の最奥でうずくまっているのは、ボロボロの寝間着を纏った老クレイブだ。
その前で立ち尽くすハルカ、そして、部屋の中央でフェンリルを抱きかかえながら座り込んでいるポラジットがいた。
一瞬、気を取られたライラは我に返り、配下の兵に命じた。
「……っ……。クレイブ・タナス議員を拘束せよ! 議員、あなたには帝国との密通の嫌疑が……」
ライラが最後まで言い終わる前に、クレイブはゆっくりと立ち上がった。
乱れた前髪の下から、光を失った虚ろな目が覗く。
「貴様らの前では……私は決して死なぬ……」
クレイブは石床をガンと踏み鳴らした。
ポゥ……とクレイブの足元の床石が発光し、老爺の体を包む。
刻まれていたのは古代文字。
「まさかあれは……! 転移魔法!?」
兵士たちが駆け寄り、クレイブを拘束しようと手を伸ばす──。
だが、それは一瞬間に合わない。
クレイブの輪郭は溶けるように消えていく。
寂しげに自嘲の笑みを浮かべた彼の表情がライラの目に焼きついた。
「追わなくても……いいのではないでしょうか」
いつの間にかライラの傍らに歩み寄ってきていたポラジットが言う。
その声色は少し震えていて、目尻が赤らんでいた。
フェンリルは還したのだろうか、その姿はどこにもない。
「俺も、そう思う。いや……追わないでやって欲しい」
後ろを振り向きもせず、ハルカが呟く。
絵画がかかっていた場所を見上げ、何かを堪えているように佇んでいた。
「しかし、ハルカ……君は……」
「確かに酷い目にあった。死ぬかと思ったし、今でもあいつのしたことは許せない」
でも……、とハルカは続ける。
「静かにしてやって欲しいんだ」
その声にライラは抵抗できず、言葉を詰まらせる。
振り向いたハルカは懇願するような顔をしていて、茶色の瞳には憂いの色を帯びていた。
ライラはそっと目を伏せ、黙って頷く。
そして、剣を鞘に収め、高く手を挙げた。
「ハルカ・ユウキ、ポラジット・デュロイ。連合議会を撹乱させた罪で拘束する──」
兵士たちが二人を囲む。
ハルカとポラジットが抵抗することはなかった。
*****
雪の音がする。
建物全体を打ち、ゴウゴウと飲み込むような音だ。
「敗れたようですね。まぁ……あの老いぼれにしてはよくやったのではないですか。もう先は長くないでしょうが……ねぇ、カスティア妃殿下」
鋭い銀光が鏡面を照らした後、鏡に映し出されていた愚者の間の映像は完全に途絶えた。
ガリアス帝国・近衛師隊隊長室。
部屋の大鏡でハルカとクレイブの戦闘を観察していたカスティアは、ふん、と鼻息を荒げ、ソファから体を起こした。
「そのような言い方をするでない、ユージーン」
カスティアは不快感を露わにし、猫の耳を持つ獣人族の青年──ユージーン・ゲイルを叱責した。
「これは失礼致しました。しかし、これで私にもバハムートを討つ機会が与えられた、ということになりますね」
ユージーンは紺の前髪をかきあげ、おもちゃを買い与えられた子供のように無邪気に笑った。
「その前に──最後の仕上げをせねばならん。ユージーン、召喚獣を貸せ」
「タナス氏に、ですか? 今さら何の意味が……」
「命令だ」
「……仰せのままに、妃殿下。召喚」
カスティアの手の平に、一羽の鴉が現れる。
その召喚獣の首に小さな翡翠玉のついたペンダントをかけ、クレイブ・タナスに、と短く告げた。
カスティアの手から離れた鴉は、窓の外へと真っ直ぐ羽ばたき、ビョウビョウと吹雪く雪空へと飛び立っていった。
「そんな優しさ、何の意味があるんでしょうかねぇ」
「何か言ったか、ユージーン」
「……いえ、何も」
紫の瞳を細め、ユージーンはカスティアの足元に跪いた。
「私はあくまで、哀れなディオルナ国民の一人──。帝国とは無関係の、一般人ですからね」
「だが、貴様は連合を恨んでいる……そうだろう?」
ええ、と青年はハッとするほど美しい笑顔で微笑む。
「敵の敵は味方、と申しますし……ね」
カスティアは無言でユージーンから目をそらす。
彼女が少し物憂げな表情を浮かべていたのを、雪だけが知っていた。




