第25話:黒い絵画(前編)
十数騎の翼竜が夜空を舞う。
今にも星が降り注ぎそうな空に向かってハロルドは手を伸ばした。
「いや~、それにしてもいい天気になったね。仕事がなければ陽気に星見酒とでも洒落こみたいところだよ~」
「ハロルド、いい加減にしろ。ふざけていると振り落とすぞ」
「やだなぁ、緊張をほぐしてあげようと思ったんだけどなぁ」
一体の翼竜にはそれぞれ二人の兵──竜騎族と獣人族が一人ずつ──が乗っている。
翼竜の群れの中でも一際目立つ大きな竜の背に、ライラとハロルドの姿があった。
竜騎族であるライラが率いる翼竜隊、そして獣人族であるハロルドが率いる射撃隊は、デネアの北のはずれにある森の上空を飛んでいた。
召喚獣ではない、本物の竜を乗りこなせるのは竜騎族だけだ。
戦力としても竜は優れた存在であるが……何より竜の群れは見た目にも威圧感がある。
召喚獣ではなく、わざわざ本物の竜に乗って向かっているのも、クレイブに精神的な圧力をかけるのが狙いだった。
眼下の森に細い小道が見える。
その道を目で辿れば、さらに森の奥地に灰白色の建物が見えた。
「総員、高度を下げよ!」
ライラはタナス邸の上空で旋回し、翼竜の高度を落とそうと手綱を握りなおした──。
「なに……っ!」
突如、タナス邸の中央から銀光が噴出する。
真っ直ぐ天空へと伸びた光は、一瞬だが、辺りを煌々と照らし……そしてすぐに消えていった。
「今のは、まさか!」
「あぁ……おいらがあの時、海の上で見たハルカの光だ!」
タナス邸で何かが起こっている。
不確かだった予感は確信になり、全身が総毛立つ。
「光源は最上階! 屋上に着陸し、突入せよ!」
剣を抜いたライラは高らかに言い放った。
*****
ポラジットは伝説の召喚獣と言われたバハムートの姿を目の当たりにしていた。
『我が名は究極召喚獣・バハムート……。召喚獣の王であり、すべてを服従させる者なり!』
少年の声と獣の低い声が重なり合う。
空間を震わせ、ポラジットの体に重くのしかかった。
ずしりと重力が増したような感覚に耐え切れず、ポラジットは両手をついた。
顔を上げてハルカの姿を見たかったが、頭が異様に重く、首が上がらない。
「重力を操っているのか……貴様ぁ……!」
クレイブの声がし、ポラジットは歯を食いしばりながら首を動かす。
ようやくクレイブが視界に入ったが、彼もまた、ポラジットと同じように両手両膝を地につけ、見えない力に抗っていた。
(重力を操っているんじゃない……。ハルカの声に抵抗できない……これは……)
「《絶対服従》……。それが、あなたの力なのね……、ハルカ……」
遍くものを屈服させる、支配者の声。
王が王であるために必要な、すべてを統べる力。
立とうと思っても体が動かない。
おそらくハルカに何か命じられれば、その通りに動いてしまう気さえする。
絶対的な力の前に、自分たちはなす術もないのだ。
「ハルカ……」
澱んだ部屋の中で、ハルカだけが一人立っていた。
その孤独な背に向かって、ポラジットはポツリと少年の名を呼んだ。
「あ、俺は……?」
不意にポラジットを縛りつけていた力が消えた。
呟く少年の声には、獣のような声は混じっていない。
ハルカは戸惑い気味に自分の顔を押さえ、フルフルと頭を振った。
「おのれぇ……生意気な……生意気な小童がぁ!」
解放されたクレイブは屈辱に打ち震えながら立ち上がった。
こめかみに青筋を浮かべ、口の端は唾液の泡で汚れている。
「屠ってくれるわ……バハムート!」
クレイブは愚者の間の最奥──魔物の絵画の元へと駆け寄る。
ヒヒヒ、と狂った笑い声を上げ、両の手で絵画に触れた。
ぞくりと怖気が走り、ポラジットの中でさらなる不安が渦巻いた。
「最期に貴女への愛を証明してみせましょうぞ! 我が君!」
「止めなさい! クレイブ・タナスっ!」
クレイブの手の平から生み出された巨大な魔法陣が絵画を覆った。
クレイブの足元にも現れたそれは、お互い求め合っているようにも見える。
青白い魔法陣は次第に変色し、紫色の歪んだ色を放ち始めた。
「変化ェッ!」
クレイブの体が絵画に吸い込まれ、大きくドクン、と脈動した。
*****
何かが体を支配した。
存在感に押し潰されそうになった時、自分の名前を呼ぶ少女の声が聞こえた。
その声で、心の奥底に沈められた意識が一気に浮上する。
(俺は、バハムートなんだ……)
けれども、ともう一人の自分が言う。
(俺は、夕城遙なんだ……)
だから、と自分に似た影を持つバハムートに語りかける。
(俺は俺のままでいたいんだ。頼む、少しだけ力を貸してくれ……)
*****
クレイブは苦悶の表情を浮かべながら、絵画と同化した。
壁一面を覆っていた蔦が絵画の額縁に絡みつき、クレイブの呼吸に合わせてうねった。
絵の魔物は蠢き、額縁の向こうからこちら側へと這い出してくる。
どの魔物もどす黒く、皮膚は乾燥してかさついていた。
爬虫類を思わせる肢体だが、二本足で立っているものがほとんどで、それぞれ血塗られた武器を持ち、敵意を露わにしている。
クレイブの体は背景の絵の具に溶けていき、顔と手だけを残して完全に絵画と一体化した。
カンバス生地からハルカたちに向かって呪詛を吐く姿は、すでに人の物ではない。
「俺は……」
ハルカは変わり果てたクレイブの姿を目に焼き付ける。
変化したクレイブは赤黒く変色した手をハルカたちに向け、実体化した絵画の魔物たちに命じた。
「喰らえ、貪れ、奪い尽くせ! 我が魔力を得た妖魔たちよ!」
数十体もの魔物たちは鬨の声を上げると、ハルカとポラジットに向かって突進し始めた。
「ハルカ、下がって!」
自分の前に立とうとするポラジットを、ハルカはそっと手で押しとどめる。
そして、ポラジットを安心させるために、ニッと白い歯を見せて笑った。
「大丈夫。お前は自分の守りに徹してくれ。それと──フェンリルを休ませてやってくれ」
ハルカはそう言うと、迫り来る魔物の軍勢を睨んだ。
血生臭い空気が押し寄せてくるのを感じる。
軍勢の向こうでクレイブがまなじりを吊り上げ、殺せ殺せと金切り声で叫んだ。
その姿は醜いというよりも、むしろ哀れだった。
ハルカにはクレイブが忠誠を誓った相手のことなど分からない。
けれども、一心不乱に何かを求め、足掻いているのだけは分かった。
ハルカは自分の手に視線を落とす。
この瞬間、自分に何ができるか、どうすればいいのか。
(今なら分かる)
先陣を切ってやって来た魔物と目が合った。
涎を撒き散らしながら、ハルカを切り刻まんと剣を振り回した。
「こんなものが……」
ハルカは魔物との距離を一気に詰め、その眼前まで肉薄する。
「通用すると思うなよ!」
ガッと右手で魔物の顔を掴むと、強引に地面にねじ伏せる。
魔物の歪んだ顔は床にめり込み、その巨体をヒクヒクと痙攣させた。
埋まった部分からどろり……と粘液状の絵の具となり、魔物は溶けていく。
ハルカは魔物の手から剣を奪うと、軍勢の中へと一人、突入した。
両側から襲いくる剣兵を一太刀で沈黙させると、飛んできた矢をさらに剣で受ける。
突き出された槍を躱し、槍の柄を掴みながら、ハルカはヒラリと宙を舞った。
槍兵の頭上で一回転し、その背後に着地する。
振り向きざまに一閃、槍兵の体を両断。
斬る、ただひたすら斬る……。
敵の攻撃を避け、ただ前へと足を動かす。
クレイブに向かって駆けながら、ハルカは次々と魔物を斬り伏せた。
一歩足を踏み出す度に、クレイブとの距離が近づく。
(解放してやるんだ)
自分のような年端もいかない者が何を、と言われるかもしれない。
思い上がりも甚だしい、と非難されるかもしれない。
それでも、力の片鱗を手にした自分ができることは、あの哀れな男を自由にしてやることだけだと思った。
最後の魔物が、ハルカの前に立ちはだかる。
筋肉質な体で棍棒を携え、雄叫びを上げた。
魔物に比べればちっぽけな少年の体が、魔物の間合いに滑り込む。
棍棒はヴゥン、と唸り、勢いよく振り下ろされた。
「遅い!」
ハルカの目には、その動きは恐ろしく緩慢なものに見えた。
左足で踏み込み、進路を変える。
棍棒はハルカを捉えることなく、地面に激突した。
「絵の中へ……還れ!」
目一杯、腕を前に出し、隙だらけの魔物の喉元に剣を突き立てる。
ザン、と剣を引き抜くと、魔物の巨軀はぐにゃりと歪む。
液状化した体は、その場にどしゃりと大きな水たまりを作った。
色とりどりの絵の具が混じり合い、見るも不快な色をなす。
鉄錆びと油絵具の臭いが部屋に満ち、呼吸をするのも苦しいほどだ。
「クレイブ──ッ!」
クレイブは、唯一、人の姿を残した顔と手をハルカに向けて伸ばす。
カンバスがギチギチと音を立てて引き攣る。
「俺が……お前を解放するっ!」
蔦が鞭のようにしなる。
剣が鈍い光を放つ。
ハルカは絵画の中のクレイブに向かって、大きく跳躍した。




