第23話:愚者の間へ(後編)
薄闇の廊下を引きずられながら歩いた。
金糸で刺繍が施された紫紺の絨毯は、暗闇の中で一本の道となり、ハルカたちの足元を彩る。
しかし、それは栄光への道標でも、楽園への鍵でもなく──死刑台へと続く茨の道だった。
「愚者の間はね、私が一番気に入っている部屋なのだよ」
ハルカの前を歩くクレイブが、歌うように言った。
地下牢を出てから一度もクレイブはこちらを振り返らない。
上質な寝間着の裾がハタハタとはためく。
クレイブは真っ直ぐ伸びた通路を迷うことなく進んでいった。
「壁にかかっているのは有名な絵でね……魔物の戦乱を描いたものなのだよ。血の臭いが漂ってきそうなほど凄惨な絵でね」
術力を封じるための手枷が、ハルカの手元で硬い音を立てる。
背中に突きつけられているのは鈍色に光る剣。
ハルカが逃げることのないよう、クレイブの私兵が剣を手についてくる。
「ここが愚者の間だよ、バハムート……ハルカ・ユウキ。君がこの世界と別れを告げる場所だ」
タナス邸の四階。
最上階の中央に位置する部屋──そこが愚者の間だ。
広い部屋にも関わらず、閉塞感が襲ってくるのは、扉を開けてすぐ目に入る一枚の絵画のせいだろうか。
剥き出しの石床と蔦に覆われた壁、そして真っ黒に塗りつぶされた天井。
まるで絵画の中の世界がこちら側に広がっているかのような錯覚に陥った。
「素晴らしいだろう。私は瞑想したい時……ここにくるのだよ」
クレイブは明かりを持たず、暗い室内をずんずんと進んでいく。
おそらく部屋の中央に到達したのだろう……唐突にクレイブは立ち止まった。
「火炎」
パチン、とクレイブが指を鳴らす。
ポゥッと四方にある燭台に火が灯った。
ゆらゆらと揺れる炎は、さらに絵画の凄みを増して見せる。
蔦の影が悪魔の手のように不気味に蠢き、愚者を喰らわんとばかりに伸びては縮んだ。
「大人しくしていれば苦しまずに済むだろう。私は慈悲深いのだよ……君が苦しむのは本意ではないのだから」
気味が悪いくらいに優しげな声色で、クレイブが語る。
ゆるゆると緩慢な動作でハルカの方へと振り向くと、不揃いな歯を覗かせて笑った。
「私が元軍人だという話はしたが……どれほど優れた魔術師だったか、というのは知らないだろう。あぁ、何せ君はこの世界に来て間もないからね。仕方ないことだ」
連合議会で見せた異様な独白。
クレイブはあの時のように、自分の演説に酔いしれながらハルカに近づく。
「それ以上近づくな!」
力一杯クレイブを睨めつけながら、ハルカは叫ぶ。
おお、怖い、とクレイブは馬鹿にした態度で肩をすくめ、それから骨ばった手でハルカの顎をくい、と持ち上げた。
「女子のような顔で脅かしてみたところで、このクレイブが引くとでも思っているのか? あちらの世界への土産話にでも……この老爺の力を見ていかれるがよい」
名残惜しげにハルカから手を離すと、クレイブは一歩後ずさった。
ゆらり……と右手を挙げたその刹那。
グジュ、と熟れた果実が潰れるような音がした。
直後、温かな液体がハルカの背を濡らす。
ドッ、と何かが地面に倒れる。
「あ……」
ハルカは恐る恐る後ろを振り返る。
そこにあったのは、先刻まで魂を宿していたはずの肉体。
ハルカの後ろを歩いてきていた、クレイブの兵士。
頭は潰され、首から下だけが元の姿をとどめていた。
(どうして)
あまりの衝撃に嗅覚が麻痺する。
胃が裏返るような感覚を覚え、ハルカは堪らずその場に嘔吐した。
何も食べていなかったせいか、饐えた胃酸だけが逆流してくる。
ツンと鼻の奥が痛み、呼吸もできないくらいにむせこんだ。
「お前の仲間だったんだろ!? どうしてこんなことを!!」
涙目になりながらハルカは声を絞り出した。
「仲間……? ただの兵ではないか。だが、これで君も分かっただろう? 私の、力というものが」
クレイブは、頬にかかった返り血を寝間着の袖で拭った。
袖に付着した赤い染みを見て、汚らわしい、と小さく愚痴る。
「私は生来魔法を使うということに長けていたようでね……。困難だ、と言われる術でも難なく習得することができたのだよ」
一歩、クレイブがハルカに近寄る。
「今のはね、あの兵の頭の中に魔法陣を展開させて、爆破したのだよ。そんな器用な芸当、誰にでもできるわけではない」
クレイブはハルカの肩に手をかけ、強引に跪かせた。
膝をついたハルカの髪を掴み、ぐい、と後ろへ引っ張る。
「ぐ……っ」
「私はこの力でもって、戦地で武勲をあげ続けた。当時ほどではないが、老いた今でも私の力は健在だ。私の力が戦地で何と呼ばれていたか教えてやろうか」
生暖かい吐息がかかるほど、クレイブはハルカに顔を近づけた。
黄ばんだ白目に細い血管が浮き上がる。
興奮したクレイブはギリギリと歯ぎしりし、ハルカの髪を掴む力を一層強めた。
「タナトスの鎌──死神の力、というわけだよ」
その愉悦を含んだ声に、ハルカは嫌悪感を露わにした。
その歪んだ男から顔を背けようとするが、クレイブはそれを許さない。
「我が君に捧げよう。バハムートの命を、私の命を。たとえ我が君にとって、私が単なる《駒》としか思われていなくても、それでも!」
唾を飛ばしながら、クレイブは思いの丈をぶちまけた。
「私は! あの御方をお慕いしているのだ! 焦がれるほどに!」
クレイブの右手に黒い影が収束する。
凝固した影は漆黒の鎌になり、ハルカの頭上で首をもたげる。
ドッドッドッと心臓が早鐘を打つ。
眼球がカラカラに乾くほど目を見開く。
鎌の切っ先から目が離せなかった。
(ここまできても、バハムートの力は発動しないのか!?)
召喚獣としての自分の力だけが頼りだったのに。
どこかで力が発動してくれると楽観視していたのかもしれない。
そんな自分があまりにも愚かで、あまりにも滑稽だった。
(──あぁ、これが走馬灯ってやつかな)
降り下ろされようとしている刃を見つめながら、この世界にやって来てからの日々を思い出した。
ポラジットがいて、ライラがいて、ハロルドがいて。
デネアに着くまでは、文句を言いながらも楽しかった気がする。
議会で追われる身になった時も、ポラジットがいたから頑張れた。
なのに……。
(あんなこと聞いて、あいつを困らせるんじゃなかった)
体は恐怖で縛られているにも関わらず、頭の中は不思議と穏やかだった。
戸惑った表情を浮かべるポラジットを一人残して、あの洞穴を去ってしまったことだけが悔やまれる。
どうして彼女を疑ったのだろう。
どうして彼女を信じてあげられなかったのだろう。
(せめて一言だけ、ごめんって言いたかった……)
ハルカは息を止める。
気がついた時には元の世界に還れているだろうか。
それとも帰還に失敗し、どの世界ともつかないどこかにいるのだろうか。
刃が自分を貫くその時まで、せめてあの青い少女を思い浮かべていようと、ハルカは目を閉じだ。
痛みはすぐに訪れる……。
そう思っていた。
──ガキィィィン!
甲高い音がハルカの鼓膜を震わせた。
ハッと目を開き、頭を上げる。
「遅く……なりました」
白いローブが目の前で翻る。
傍らに温もりを感じ、ハルカは寄り添う黒い狼に触れた。
「フェンリル……?」
「フェンリルが、見つけてくれたんです」
青い髪が炎の光を受けて、水面のようにきらめく。
少女は死神の鎌を杖で受け止める。
両腕をいっぱいに伸ばし、押し負けまいと懸命に踏ん張っていた。
「チッ……!」
クレイブは舌打ちをして、後方へ飛び退いた。
老いた体のどこにそんな力が残っているのか、遥か後方、絵画の側まで後退する。
「ポラジット・デュロイ……!」
「クレイブ・タナス議員、ここまでです。ハルカを返していただきます!」
ポラジットとクレイブが睨み合う。
「フェンリル!」
「この小娘がぁぁぁぁぁ!」
二人の叫びが愚者の間に響き渡る。
フェンリルの紫雷とクレイブの鎌が交錯した。




