第22話:愚者の間へ(前編)
黒い旋風が森の中を駆け抜ける。
ポラジットは黒雷狼の背で身を低くした。
視界に入る木々はすぐに流れていく。
正面に森の裂け目が見えた。
そして──ポラジットとフェンリルは森を抜けた。
そこは切り立った崖だった。
フェンリルは崖縁で足を止め、ポラジットの指示を仰ぐかのように首を巡らせる。
ポラジットは崖下に見える古びた屋敷を見据えた。
「クレイブ・タナスの屋敷……。ここに、ハルカがいるはず」
灰白色の建物は、さながら監獄のようだ。
人の温もりを感じさせない佇まいは異様なものだった。
庭や通路では時折見廻りの私兵が巡回していて、より一層息苦しさを感じさせる。
ポラジットは自分を奮い立たせるように、左耳のピアスに触れた。
(師よ、私に力を貸して下さい)
花燃石の冷たい感触を確かめ、ポラジットは師を思った。
手にした杖が、月光を反射して蒼く揺れる。
頼れるものは己の力だけ。
自分が刃向かおうとしているものの大きさを、ポラジットは理解していた。
連合議会からハルカを逃がし、さらには会議そのものをぶち壊しにしたことでも十分裁きをを受けなければならない立場である。
その上で、これから連合議会上院議員の屋敷を襲撃しようとしているのだ。
「お尋ね者、確定ね」
クスリ、とフェンリルに向かって微笑む。
召喚士として「優等生」だったポラジットはどこにもいない。
「けれども、私は行かなきゃいけないの」
ポラジットはローブを口元まで引き上げる。
すっと目を細め、興奮した体を冷ますように深呼吸した。
「フェンリル!」
ポラジットに応じて、オォーーン、とフェンリルが鳴いた。
それが合図。
フェンリルはポラジットを背に乗せたまま、タンと地を蹴り、崖を一気に駆け下りた。
*****
屋敷の裏手で狼の遠吠えが聞こえた。
「……今、狼の声がしなかったか?」
「おいおい、盤面がヤバイからって話をそらすなよ」
詰所でボードゲームをしていた兵士が、黒と白の盤面から顔を上げた。
「空耳じゃねぇって。あと、こんな局面すぐにひっくり返してやるからな。余裕ぶるなよ」
「あー、はいはい。せいぜい負け犬は吠え面かいてなって。……まぁ、どうせいつもみたいに餌を探しにきたやつだろ。軽く脅かしてやればすぐに森へ帰るさ」
野生の狼が餌を求めて森の外へやってくるのはこの辺りではよくあることだった。
二人の試合を観ていた兵士が一人、酒瓶を手に持ちながら、ケラケラと囃し立てる。
いつものように軽く片付けようと、ゲームをしていた兵の一人が重い腰を上げた。
「俺が見てくるから、勝手に駒動かすんじゃねぇぞ……」
笑いながら兵が扉に手をかけた……その刹那。
──ドォォォン!
詰所の扉が轟音と共に吹き飛んだ。
モウモウと砂埃が舞い上がり、兵士たちはゲホゲホと咳き込む。
木っ端微塵に砕けた扉の残骸の下、その衝撃をまともに食らった兵士はすでに気絶していた。
残り二人の兵士たちは、大慌てで近くにあった武器を取る。
視界が悪く、敵の姿は目に入ってこない。
突然の出来事に息が荒くなり、汗が噴き出した。
「そこか!」
前方に身を屈めた黒い影を認め、兵が剣を振るう。
が、それはいとも容易く躱され……次の瞬間には、眼前に黒い狼が迫っていた。
「……っあ!」
黒狼は兵士を押し倒し、四本の足でその体を抑え込む。
逃れようともがけばもがくほど、狼の爪が兵士の体に食い込んだ。
至近距離で狼の口がガバリと開く。
口内はてらてらと赤黒く、ゾロリと生え揃った牙が鋭く光った。
「ひっ」
狼の口で、黒い球体が形成される。
パリパリ……と紫色の雷が爆ぜ、火花が散る。
「やめ……」
狼の耳にその声は届かない。
兵士は叫び声を上げ、一瞬で気を失った。
傍らにいた仲間の叫びを聞き、すっかり酔いが覚めてしまった兵は四方を見回した。
しかし、自分の足元に転がる酒瓶がやっと見えるくらいの状況だ。
兵は剣の柄を握り、息をひそめた。
次第に埃が流され、視界がぼんやりと開けてくる。
すると、正面に人影らしきものが浮かび上がった。
小柄で細いシルエットに、おそらく女だろうと目星をつける。
「もらったぁぁぁぁ!」
兵は剣を振りかざし、侵入者に狙いを定めた。
「甘すぎますね」
「っ!?」
兵の渾身の一撃は小さな短刀によって止められていた。
瞬きほどの時間で、場を掌握された。
兵は視線を下げ、血走った目で侵入者の青い髪を睨んだ。
「護身用の短刀で防げる程度……。その立派な剣は見かけ倒しですか」
少女は澄んだ声で挑発的な言葉を連ねていく。
力で斬り伏せてやろうと兵が力を込めた途端、少女は右手に持っていた杖の柄で兵の鳩尾を突いた。
「ぐ、ふっ」
腹を抱え、体をくの字に折った兵の胸ぐらを、少女はその細腕で掴み、壁に叩きつけた。
青い霊石が光る杖で兵の体を押さえ込み、左手の短刀を喉に突き立てる。
「バハムートはどこですか」
青い瞳が兵を射抜く。
深い海の底に引きずり込まれそうな感覚を覚え、兵はゴクリと唾を飲んだ。
「し、知らん……。俺は知らない……」
チリと喉仏が熱を鋭い帯びた。
少女が兵の喉を浅く切ったのだ。
「本当だ! 本当に知らないんだ! バハムートがいることさえ……!」
「ならば質問を変えましょう。囚われた者が収監される場所はどこかにありますか」
「そ、そ、それなら……地下牢が……。この詰所を出て、廊下を抜けた先に、ち、地下へ続く扉がある……!」
そうですか、と少女は短く答える。
「もうあなたに用はありません。お眠りなさい」
「やめてくれ、殺さないでくれ……!」
懇願する兵の眼前に魔法陣が現れる。
ローブの下で、少女の可憐な声が響く
「睡眠。良い夢を……」
兵の瞼がゆっくりと下される。
そして、兵はその場に崩れ落ちた。
*****
ポラジットはぐ、と口元のローブを引き下ろした。
扉を破壊した時に生じた砂埃は風に乗って消えていき、フェンリルが兵の上に覆い被さっているのが見えた。
「行きますよ、フェンリル」
《主》の姿を見つけたフェンリルは尻尾を振りながらポラジットの足元にすり寄った。
「心配してくれていたのね、ありがとう」
ポラジットはフェンリルの首筋をぽんぽんと軽く叩いた。
「急ぎましょう!」
今の戦闘音で侵入者の存在に気づかれてしまっただろう。
ポラジットたちは詰所を後にし、並んで長い廊下を走り抜けた。
突き当たりにあったのは、朽ちかけの木の扉。
おそらくこれが地下牢への扉に違いないと、ポラジットは取っ手に手をかけた。
鍵はかかっておらず、軽く力を込めて引くと、ギッと音を立てて開いた。
その不用心さに、罠の可能性を頭に置きながら、ポラジットは扉をくぐった。
すぐ足元は地下へと続く階段になっていた。
蝋燭一つない階段は地獄へと繋がる道のようだ。
ポラジットは小声で詠唱し、杖先に赤い炎を灯した。
「ハルカ……?」
石段を降り切ったところで、探している少年の名を呼んだ。
しかし、返事はない。
ポラジットはさらに杖を高く掲げ、炎の力を強くした。
「そんな……!?」
揺れる炎で照らされた地下牢は、すでにもぬけの殻だった。
三つある牢のすべて人の姿はなく、錆びた鉄柵と腐った水溜りの臭いだけが残っていた。
(タナス邸にはいないの!? じゃあ一体どこに……)
その時、凍りついたまま動かなくなったポラジットの足元で、フェンリルがくぅん、と鳴いた。
ポラジットのキュロットスカートの裾を噛み、ぐいぐいと引っ張る。
「ここに、いたのね……?」
フェンリルはポラジットをさらに強く引っ張る。
ついて来い、とでも言うように。
「ハルカのにおいがするのね……?」
ハルカはここから別の場所へ移動させられたのかもしれない。
残り香があるということは、つい先刻までハルカがここにいたということだ。
ポラジットは再びフェンリルの背にまたがり、走れと命じた。
(救ってみせる)
階段を上りきった先、廊下にはクレイブの私兵たちが集まってきていた。
「いたぞ! 侵入者だ!」
数十人の兵士がポラジットに剣を、銃を、杖を向け、戦かう構えをとる。
(守ってみせる)
フェンリルは速度を緩めることなく、兵士たちに向かっていく。
ポラジットはフェンリルの背から手を放し、体を起こした。
慎重にバランスをとりながら、杖を両手に持ち直す。
青い霊石を正面の兵士に向け、息を吸う。
(戦ってみせる!)
「召喚! 幻獣・迷歌姫!」
魔法陣から現れたのは、半人半獣の美姫。
腰から下は眩いばかりの黄金の鳥の姿だ。
セイレーンが羽で覆われた両手をたおやかに広げる。
翡翠の目で兵士たちを誘うように見つめ……。
──キィィィィィッッッ!
耳をつんざく一声。
音が衝撃波となり、兵士たちを襲う。
「うああああぁっ!」
耳を覆った兵士たちの剣に亀裂が入り、銃身が砕ける。
振動で脆くなった鎧は体を守る役割をなさず、セイレーンの叫びを聴いた兵士たちはバタバタと廊下に倒れ伏した。
ポラジットとフェンリルは、苦悶の表情を浮かべる兵士たちの側を横切った。
セイレーンはその場に倒れこんだ兵士たちに寄り添い、子守唄にも似た優しい歌を歌い続けている。
(セイレーンが歌っている間は、兵士たちは目を覚まさない……!)
しかし、またもや新たな私兵がポラジットの行く手を妨げる。
「私の邪魔をしないでっ!」
胸の内にあるのはたった一つの願い。
(ハルカ。あなたは生きて……!)
立ち止まることなく、怯むことなく。
ポラジットは杖を振るい続けた。




