第20話:青い小鳥
ズキッ、と目の奥が痛んだ。
眉間を強く押さえながら、ハルカはゆるゆると目を開けた。
じめじめとした空気が身に纏わりつく。
天井の石には黒緑色の苔が生えていて、ところどころにひびが入っていた。
ピチョン、ピチョン……とどこかで水が落ちる音がする。
壁に打ち付けられた燭台には、使い古され、短くなってしまった蝋燭が、申し訳程度の光を放っていた。
(気絶してたのか……)
後頭部にごつごつとした床が触れる。
ハルカが寝かされている場所もまた石造りで、寝具どころかシーツさえもかかっていない。
その不快さに堪らなくなり、ハルカは体を起こした。
脇腹に鋭い痛みを感じ、そっと触れる。
破れた制服の下、白い布が当てがわれていた。
追っ手が放ったナイフが刺さった所は少し消毒をした程度で、適切な治療はなされていない。
傷を見ようと体を捻ると、消毒液のにおいが鼻をつく。
ぐるりと周囲に視線を巡らせる……が、自身の置かれた状況を把握するのに、大した時間はかからなかった。
強固な壁と、黒い鉄柵で閉ざされた空間。
(どう見ても、牢、だよな)
ハルカは思い出せる限りの記憶を辿った。
ポラジットと離れた後、森の中で追っ手と対峙し……そして、囚われた。
追っ手がハルカの眼前に魔法陣を展開した直後、自分は気を失ったのだ。
頭痛がするのも、魔法の影響かもしれない、とハルカはぶんぶんと頭を振った。
まだ少し、頭にヴェールがかかっているような……ぼやけた感覚だ。
こめかみを指でもみほぐすが、なかなか痛みは消えてくれなかった。
「目が覚めたかね。招かれざる客人──ハルカ・ユウキ」
ハルカはハッと牢の外へ目をやった。
薄青の部屋着が蝋燭の明かりをゆらゆらと反射する。
その痩せ細ったシルエットと妙に甲高い声には覚えがあった。
「クレイブ……」
「なんと、私の名を覚えていてくれていたとは、光栄の極み」
クレイブはその手に持ったランプを牢に近づけ、ハルカの翳った顔を照らし出した。
(足音も気配もなかった……!)
部屋靴を履いているとはいえ、水で濡れた床を歩けば音がするはずだ。
それに気配を押し殺すには、あまりにも周りが静かすぎる。
なのに──。
「この爺、腐っても元軍人。気配を殺すなど造作もないことよ。ある程度功績を上げたが故に、こうして上院議員としての役を与えられているのだから」
思考が顔に出ていたのか、クレイブはハルカの疑問に答える。
どこからか隙間風が吹いているようで、ハルカの前髪が揺れた。
ゴクリと喉が鳴る。
言葉が出なかった。
「私はね、ハルカくん。君の力が暴発しようがどうしようが、構わないと思っているのだよ。この南方大陸が……いや、リーバルト連合が君の力で崩壊しようとも、ね」
「それはどういう……」
「私にはリーバルト連合への忠誠心などというものはない」
クレイブは口の端を歪め、続ける。
「愛しい我が君の望みなのだよ。バハムートの消滅……ハルカ・ユウキの死が」
「我が君……?」
「私のミスで君を逃してしまったが、我が君は寛容な御心で許してくださった。そればかりか、君の居所まで突き止めて下さったのだよ」
クレイブは天を仰ぎ、ぶるりと身震いした。
「北の大地へあの御方を追いかけて行った時、私にこうおっしゃってくれた……。あぁ、今でも一言一句、違わず思い出すことができる。クレイブ、我が僕よ、と」
話が全く読めず、ハルカは眉をひそめた。
クレイブは恍惚の表情で独演する。
その顔はギラギラと脂ぎっていて、唾を飛ばしながら熱っぽく、早口でまくし立てる。
ハルカはそんなクレイブの異様な様子を前に……言葉を失った。
「遠い異国の地で、私の手足となれ、と! そして、真に私を想うなら、私のために仕えよ、と!」
「ちょっと待ってくれ、クレイブ……」
クレイブの額に汗の玉が光る。
目を剥き、血走った目でハルカを睨めつける。
「我が君は帝王の花嫁だ! かの御方が一番でなければならぬのに……それなのに、何故⁉︎ 何故我が君はあんな雌豚の足元に跪かねばならん! 何故だっ‼︎」
一息で言い切ったクレイブは、肩を上下させて呼吸をした。
正直、ハルカにはクレイブの言っていることの半分も分からなかった。
この世界の情勢も十分把握できておらず、クレイブが誰に仕えているのかも全く見当がつかない。
しかし、それでも。
(こいつの何かが狂っている……)
クレイブに捕まるよりも、連合の兵士に捕まってしまっていた方がマシだったのかもしれないとさえ思えた。
胸いっぱいに酸素を吸い込んだクレイブは、ふぅと一つ深呼吸した。
そして、矢庭に牢の柵をガッと掴んだ。
「……っ!」
驚き、後ずさったハルカを見て、クレイブは愉快そうに笑う。
「私がお前を始末すれば、我が君は帝王の花嫁に……一番になれるだろう。あんな使い物にならんお飾りの雌豚を……引きずり落とせるに違いない」
ゾクリ、と背筋が凍った。
顔から血の気が一瞬で引いたのが分かる。
ハルカは眼を見開き、狂った老爺を見つめた。
「衛兵、バハムートに術力無効の拘束具をつけよ。彼を『愚者の間』へ連れて行け」
クレイブはハルカに背を向ける。
「この私が直々に……バハムートを処刑しようではないか」
*****
(もう二十の刻になる……)
ポラジットは懐から懐中時計を取り出し、時刻を確認した。
ハルカが出て行ったのは十九の刻になったところであったから、もう丸々一の刻経ったことになる。
(そろそろ迎えに行かなきゃ)
ポラジットは灯り代わりの杖を持ち、重い腰を上げた。
俯き気味の姿勢で、ゆっくりと洞穴を後にする。
「ハルカ、そろそろ戻ってきてください」
極力、何もなかったかのように振る舞う。
彼もそれを望んでいることだろうし、これからの長い行程で自分もそれを望んでいた。
だが、ポラジットの呼びかけに応えたのはハルカの声ではなく、草木の陰で鳴く虫の声だけだった。
ハルカは洞穴の近くにいるものだとばかり思い込んでいたポラジットは、パッと面を上げる。
「ハルカ……?」
もう一度名を呼ぶも、返事はない。
考えるよりも先に、体が動いた。
「召喚! 幻獣・黒雷狼!」
緑色の魔法陣が地面に浮かび上がる。
オオォォォ──ン……と高く吠えながら、黒毛の狼が姿を現した。
「フェンリル、ハルカのにおいを辿って! 彼を見つけて!」
フェンリルの背にまたがり、ポラジットが命じる。
フェンリルは是と答える代わりに、小さく首を縦にふった。
森の木々が視界から流れるように去っていく。
ポラジットはあの時の自分の態度を悔やんだ。
そして、油断していた自分を恥じた。
(私がもっとしっかりしていれば……!)
ハルカを一人にせずに済んだかもしれない。
ハルカを傷つけずに済んだかもしれない。
後悔しても仕方のないことだと分かっていても、後悔せずにいられなかった。
(どこにいるの……ハルカ!!)
ざわざわと胸騒ぎがする。
そんなポラジットの予感は的中し……駆けていたフェンリルは川原のど真ん中で立ち止まった。
ポラジットはフェンリルの背から降り、フェンリルに語りかける。
「ここで、ハルカのにおいが途切れているのね?」
フェンリルはポラジットの足元に伏せた。
それがフェンリルの答えだった。
ポラジットはありがとう、と呟き、狼の頭を撫でた。
(魔力の残滓を感じる……)
おそらく、ここで魔法が使われたのだろう。
ポラジットはぐるりと開けた川原を見回した。
ここで戦闘になり、ハルカは連れ去られたに違いない。
(ハルカを襲ったのは連合軍の兵か、それとも……)
ポラジットはライラを信じていた。
だからこそ、連合軍の兵がやって来たのではない、と思えたのだ。
そうなれば、ハルカを狙う人間は一人しか思い当たらなかった。
確証はなかった。
けれどもポラジットの直感が告げる。
「クレイブ・タナス……」
召喚、とポラジットは短く唱える。
手のひらほどの大きさの魔法陣から、青い小鳥が現れた。
ポラジットはその鳥を両の手でそっと包み込み、祈るように告げた。
「伝えて、ライラ・オーディル将軍に。ポラジット・デュロイはクレイブ・タナスの所へ行きます。連れ去られたハルカを助けに……」
白い月が自分の行く先を照らし出してくれる気がした。
不思議と迷いはなかった。
「これは私、ポラジット・デュロイの一存によるもので、何が起ころうとも、誰にも責任はありません。……ご迷惑をおかけしました、ライラ将軍」
ポラジットはそう言い終えると、両腕を目一杯空に伸ばし、小鳥を放した。
青い鳥は大きく羽根を広げ、月夜の空に溶けるように消えていく。
傍らにいるフェンリルが気遣わしげな目で《主》を見つめる。
「大丈夫よ、フェンリル。また少し……私に力を貸してね」
ポラジットは頭の中でデネア周辺の地図を広げた。
(確か、タナス邸はここから一の刻ほどの距離にあったはず)
喧騒を嫌うクレイブ・タナスはわざわざ中心地から離れた山中に屋敷を構えているのだ、と亡き老師が言っていたのを思い出した。
ポラジットはフェンリルの背に再びまたがり、ぎゅっと強く杖を握りしめる。
「クレイブ・タナスの屋敷へ……! 急いで、フェンリル!」
ポラジットの声を聞き、軽やかにフェンリルが走り出す。
ポラジットとフェンリルは一陣の黒い風となり、森を駆け抜けていった。




