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遙かなるバハムート  作者: 山石尾花
第1章:始まりのアイルディア
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第19話:シャンパンの誓い

 十年前──それはまだ世界が平和だった頃。

 いつ戦が起こってもおかしくない、偽りの平和。

 そんな不安定な時代に、クレイブ・タナスはカスティア・アレドナと出会った。


 *****


「タナス様、本日行われる会談の流れですが……」


 怯えた口調で秘書が話す。

 そんな秘書の態度も気に入らず、ただでさえ悪いクレイブの機嫌はますます悪くなるばかりだった。


「ガリアス帝国の王妃が来ると言ったか。自らの妃を敵対国に視察にやるなど、偏屈な国王だ」


 北方大陸に興った新興国・ガリアス帝国──その国王の正妃と第二妃が、リーバルト連合との親睦の証として、総督府・デネアへ視察に訪れるというのだ。

 クレイブは革張りの椅子に深く腰掛け、肘掛に肘をつきながら、秘書から手渡された書類を眺め見た。

 

(胡散臭い国だ)


 それがクレイブの嘘偽らざる気持ちだった。

 リーバルト連合に対しては特段思い入れも忠誠心も最早なかったが、均衡の取れた世界に石を投じるかのような帝国の存在を、許容している訳でもなかった。


 帝国初代国王が崩御し、その息子スフルト・ナハタリが王位に就いてから、連合と帝国との間には緊迫した空気が流れていた。

 一触即発。まさにその言葉が相応しい。

 親睦の証と称しながら、帝国が連合に探りを入れにきたことなど、明々白々だった。

 本来、北方大陸を統治していた獣人族国家・ディオルナ共和国は、帝国の圧力に晒されていると聞く。


(獣人族などどうなっても構わんが……一悶着あるのは敵わぬ)


 クレイブは立ち上がり、ティーポットから温かい茶を注いだ。

 茶をれるくらい、秘書や給仕の者に任せれば……とはよく言われるが、クレイブは絶対にそうはしなかった。


(他人の淹れた茶など、不味くて飲めるものか)


 クレイブはティーカップから立ち上る茶の香りに目を瞑る。

 今朝取り寄せたばかりのハーブを丹念にブレンドした、特製のハーブティーだ。

 一口含めば、すっとした香りが鼻を抜け、まとまらなかった思考がクリアになっていく。

 書類に書き留められた会談の進行表を頭に叩き込むと、クレイブはその紙束を秘書の手元に放り投げた。

 クローゼットから議員の正装である紫の法衣を取り出し、丁寧に畳まれたそれを広げて袖を通す。

 

「……行く」


 クレイブの一声を聞き、秘書が恭しく黒檀こくたんの扉を開ける。

 

「会場は総督府本部別館の迎賓の間になります」

「言われずとも分かっておる」


 気を利かせたつもりの秘書の一言をクレイブは一蹴する。

 年老い痩せ細った外見とは裏腹に、クレイブが踏み出した一歩は力強いものだった。




 迎賓の間には各界の著名人らが集まっており、見知った者同士で談笑していた。

 会談とは名ばかりで、その実さして堅苦しいものではなく、珍しい物好きの王妃をもてなすための……いわばパーティーのようなものだった。

 広間の前方には王妃とその取り巻き達が、そしてそこから離れた隅の方に第二妃のテーブルがあった。


 会場内の明かりは、老いたクレイブの目には少々眩しかった。

 だか、それ以上に……テーブルを隔てた向こう側で佇む女性が眩しかった。


「クレイブ・タナス議員。後ろがつかえておりますゆえ……」

「あ、あぁ……これは失礼致しました」


 クレイブは法衣の裾を持ち上げ、急いで前へと進む。

 心を揺り動かされたあまり、扉口で立ち止まってしまっていたようだ。


(なんと、なんと……美しい……)


 濃紺のロングドレスに身を包んだ彼女は凛々しい瞳で遠くを見ていた。


 肩口で黒髪が揺れる度、サラリ……と衣擦れの音が聞こえる気がする。

 彼女の視線が動く度、リン……と鈴の音が聞こえる気がする。


 本来ならば主賓である正妃に真っ先に挨拶をしに行くべきであるのに、クレイブは堪らず第二妃の方へと歩みだしていた。

 クレイブは恭しく頭を下げ、敬愛の意を表した。

 

「麗しき女神よ……。わたくしは上院議員のクレイブ・タナスと申します……」


 黒曜石の刃を思わせる瞳が、クレイブの心の臓を貫く。

 

(そのまま抉り出して、美しい貴女に捧げたい……)


「ガリアス帝国国王が第二妃。カスティア・アレドナと申す」


 高飛車な物言いだが、それもまた心地よい。

 

(あぁ……)


 クレイブの全身が打ち震えた。

 心を奪われるとは、かくも快楽を覚えるものなのか、と。


 年老いた男が色恋に心を奪われるなど、何とみっともない、と言われるだろうか。

 年甲斐もなく若い女にうつつを抜かして、と嗤われるだろうか。


 恋も愛も知らず、ついぞ伴侶を見つけることなく、クレイブは今までずっと独りだった。

 自身も恋愛や結婚を馬鹿にし、意図的に避けていた節もあったが……何よりも心を奪われる経験というものがなかったのだ。


 もっと自分が若ければ。

 もっと早くに出会っていれば。

 不毛な仮定がクレイブを追い立てる。


「クレイブ・タナス議員よ。面を上げよ」

 

 真っ直ぐ伸びたしなやかな腕が、伏せたままのクレイブの顔に、ふと触れた。

 その手が促すまま、クレイブは面を上げる。

 すぐ目の前にいるカスティアは微笑んでいた。

 その笑みは気高く、そして少し寂しげだ。


「カスティア様……」


 直後、クレイブの背後で高い笑い声が聞こえた。

 下品な笑い声に、カスティアとの出会いの一幕を邪魔された気になり、クレイブは苦虫を噛み潰したような顔で振り向く。


「ソーニャ様には挨拶をされたのか? タナス議員よ」

「ソーニャ様……」

「あぁ、あの輪の中央で笑っておられる方……。ガリアス帝国王妃、ソーニャ・メレブ様だ」


 クレイブがソーニャのことを知らないと思ったのか、カスティアは丁寧に説明した。


「左様でございますか。このじいの不勉強が露呈していまいました……これは失礼を……」


 しかし、クレイブとて四国を束ねた連合の議員、ソーニャのことを知らぬわけがなかった。

 知っていたからこそ、知らぬふりをしていた。


(カスティア様とは比べ物にならぬ……)


 ソーニャはどう贔屓目に見ても美しいとは言い難かった。

 まず姿勢や所作ががさつで荒々しい。

 それからだらしなく弛んだ体に派手なばかりの衣装を纏い、品性の欠片もなかった。

 波打つ金の髪はソーニャの膨張した顔をさらに大きく見せている。

 ギラギラとした装飾品で着飾る姿はみっともなく、豚に真珠とはこのことだ、とクレイブは眉をひそめた。

 仮にも国の代表として赴いているにも関わらず、ソーニャの態度は王妃としての自覚があるのかさえも疑わしかった。


 それに比べて、カスティアはソーニャと真逆の存在だった。

 引き締まった体に上品なドレス、一つ一つの仕草が洗練されていて、麗しい。

 声に出して言わないが、カスティアの方が一国の正妃としては相応しいと思えた。


「ソーニャ様はとても心優しいお方だ。議員もお話されてみるがいい」


(私なら……私なら絶対)


「陛下ともとても仲がよろしくていらっしゃる。私から見てもお似合いの二人だと……」


(私なら絶対。貴女を一番にするのに(・・・・・・・・・・)


 リーバルト連合の上院議員として就任したばかりのクレイブは、自分の人生の中に生き甲斐を見出せずにいた。

 これ以上、自分は上の地位に昇りつめることはできないだろう。

 クレイブは優秀であったからこそ、自らの限度を理解してしまっていた。

 

 このまま生命が(つい)える時まで、漫然と生きていくに違いないと思っていた。

 たった今、この瞬間までは。

 

(残りの生命、愛しい女性に捧げるのも悪くない……)


 クレイブはソーニャに背を向け、カスティアに向き直った。

 給仕が運んでいるトレイから、グラスを二つ受け取り、一方をカスティアに手渡す。


「いえ、この爺めは貴女様のしもべでございますから……」


 シュワシュワとグラスの中でシャンパンの泡が弾ける。

 一瞬、カスティアはクレイブの言葉に目を丸くした。


 が、それも束の間。

 カスティアはクレイブからグラスを受け取ると、軽く持ち上げ、グラスを小さく傾けてみせた。

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