第18話:月下の影
雨で皮膚に張り付いたシャツが、ハルカの体温を奪っていった。
鳥肌が立ち、毛穴が引き締まる感覚がする。
雨足は弱まり、薄っすらとではあるが、雨雲の向こうから月明かりが漏れていた。
じきに雨は止むだろう。
ハルカはぬかるんだ足元をじっと見つめた。
ポラジットの答えを聞く前に、自分は洞穴から飛び出してきてしまった。
動揺した青い瞳の光が目に焼き付いて離れない。
ダヤンがいなかったとしても、ハルカの味方でいた、と言って欲しかった。
けれども、あの揺れた瞳で告げられたとして、自分は素直に受け入れられただろうか。
(どの道、こうなっていたんだろうな……)
ハルカはフッと口元を歪め、心の中で皮肉を言う。
「……どうすっかな……」
活路は見出せなかった。
しかし、ポラジットの待つ洞穴に引き返す気にもなれず、ハルカはひたすら森をふらついた。
月の明かりもほとんどない森の中──ましてや馴染みのない土地を当てもなく歩くなど自殺行為でしかない。
それを十分理解した上で、ハルカは敢えて森の奥へと足を踏み入れる。
(死んだら死んだで……構わないや)
自暴自棄になりながら、木々をかき分けていく。
一体どれほど進んだのだろうか。
恵みの雨を受けた木々は重みを増し、ハルカの行く手を阻むかのようだ。
袖が雨露でずっしりと濡れる。
パーカーのフードが枝に引っかかり、ハルカはクンッとのけぞった。
「くそっ!」
ハルカは忌々しげに吐き棄てる。
その時──背後から敵意に満ちた視線を感じた。
「……っ!?」
ハルカはその視線を振り払うかのように、勢いよく振り返った。
ガサガサ……と風に吹かれた葉擦れの音が響く。
ギャァギャァ……と気味の悪い鳥の鳴き声が、夜の樹海にこだまする。
振り返って確かめた先には人影はなく、動物の気配さえない。
黒緑色の大きな葉が幾重にも重なり合い、ハルカが歩んできた道を覆い隠していった。
気のせいかとハルカはくるりと前を向き、歩を進める。
だが、しばらく歩くと、再び背中に悪意を帯びた視線がチクチクと突き刺さるのを感じた。
(違う……気のせいなんかじゃない!)
ハルカはゴクリ、と唾を飲み込んだ。
ついに追っ手がこの場所を突き止めたのだろうか。
ポラジットが来たからには大丈夫だ、と高を括っていた自分を殴ってやりたい気分だった。
(ポラジットの元へ戻らないと……!)
そう思い、踵を返そうとして……ハルカははたと動きを止めた。
戻って、自分はどうするつもりなのか。
一人にしてくれと言ったのは、自分の方だった。
それに……これ以上、ポラジットに縋っても意味などないように思えた。
「…………」
いつの間にか雨は上がっていた。
雲が切れ、ハルカの頭上から仄白い光が降り注ぐ。
闇に包まれていた視界が開け、真っ直ぐハルカの前に道を作った。
その光の向こうに川原が見える。
先刻までは雨の音で気づかなかったが、サラサラと川が流れる音が聞こえた。
雨の影響で、やや水かさが増しているものの、川原は十分広く、大立ち回りを繰り広げても差し支えのない広さはある。
(一人で戦ってやる)
力が発動しても、発動しなくても。
勝ち目があろうとも、なくとも。
頼れる者は自分一人……最初から孤独だったのだ。
ただ、ポラジットやライラ、ハロルドというイレギュラーな因子があっただけ。
(振り出しに戻っただけだ)
ハルカは気配の主に気づかないふりをして、さらに進んでいった。
小石の転がる川原のど真ん中に立ち、力の限り叫んだ。
「隠れてないで出てこいよ! 俺に用があるんだろ!」
誰かも分からぬ相手を挑発する。
束の間、風が止まり、葉が揺れる音が途切れた。
刹那……ヒュッと何かがハルカの頬を掠めた。
「……くっ!」
頬に手を添えると、指先を熱い赤が濡らす。
斜め後ろ、地面に黒い刃の短剣が刺さっていた。
ヒュッ、ヒュッ、と続け様に空気の振動が耳元を行き過ぎる。
ハルカは短剣が飛び出してくる方角を予測し、睨み据えた。
川上の木陰から、さらに短剣が迫り来る。
(命の危機が、俺の力の発動条件。ならば……!)
ダンッ、と地を蹴る。
刺客の隠れている場所へと、ハルカは走り出した。
また一本、さらに一本、と短剣が放たれ、ハルカの腕を、脚を切り裂く。
鈍い残光はハルカの後方へと伸び、飛び散る朱が月下で華のように広がる。
ハルカの勢いに気圧された刺客は、身を潜めていた木陰から姿を現した。
黒いマントを翻す姿は、まるで生ける影。
刺客はそのままハルカに背を向け、ザブンと川へ飛び込んだ。
「おい、待てっ!」
自分を狙う目的は何なのか。
一体誰の差し金なのか。
(聞きたいことが山ほどあるってのに!)
穏やかな水面に波紋が広がり、サラサラとした静寂が再び訪れる。
リーリー、と虫が鳴く声がハルカの心をざわつかせた。
(俺はこの世界で生きたいのか、死にたいのか……。もうそれさえも分からない)
静けさが迷いを増幅させる。
終わりのない問いがハルカの脳内でハウリングする。
そして、その束の間の迷いがハルカに隙を作った。
ドッ……という重い音。
背中に感じる衝撃。
「あ……」
何が起こったんだ、と声にする前に、世界が反転した。
ぐるりと天地がひっくり返る感覚がし、足の力が抜ける。
手で顔を庇う余裕もなく、ハルカは地面に頬を強打した。
「……せ、なか?」
おそるおそる腰の辺りに触れる。
冷たく固い何かが、ハルカの左手に触れた。
それは深々と己の身に突き刺さり、そこから滲む血がハルカの手を濡らした。
「バハムート、捕獲完了」
頭上からくぐもった男の声が聞こえた。
短剣の刃に毒でも塗っていたのだろうか。
やたらと視界が歪み、体が痺れる。
ハルカは力を振り絞って首を動かし、男の顔を睨みつける。
(油断した……! 刺客は二人いたのか!?)
「てめ……」
男の口元は漆黒の布で覆われていて、顔は判別できない。
「よくやった」
川に潜っていた刺客が姿を現した。
全身ずぶ濡れのまま、ハルカに近づき、怜悧な視線でハルカを見下ろす。
「これより、バハムートを移送する」
雫を滴らせながら、刺客がハルカに手をかざす。
「やめ、ろ」
ハルカの言葉は掠れていた。
究極召喚獣としての召喚されたことを恨みながら、一方で、祈るようにその力の発現を望んだ。
(なんで、なんで……。力が目覚めないんだよ……!!)
間違いなく、己が身の危機だった。
今こそ召喚獣としての力が必要だった。
しかし、バハムートの力はハルカに応じない。
眩いばかりの銀の光を……これほどまでに望んでいるのに。
「少し眠っていてもらおう。バハムート」
男の手の平に青い魔法陣が浮かぶ。
屈み込んだ男は、それをハルカの額に押し当て、小さく唱える。
「睡眠」
ポゥ……と魔法陣が輝く。
じわりと額から熱が染み渡り、思考にヴェールがかかる。
「なんで……」
力なく呟いた後、ハルカはそのまま深い眠りに落ちていった。
*****
「伝令の召喚獣より、バハムートを確保したとの報告が」
執事が恭しく頭を下げる。
それを見た老人──クレイブ・タナスは満足げに頷き、絹の寝間着の胸元を整えた。
「そうか、屋敷に到着したら地下牢に放り込んでおけ」
くつくつと喉を鳴らし、クレイブは執事に命じる。
はっ、と短く返事をした執事は、そのまま一歩下がり、クレイブの寝室を後にした。
「今夜はいい夢が見られそうだ」
クレイブはベッドサイドに立ち、そこにぶら下がっている紫の紐を指に絡ませた。
枕元の壁には、同じ色のカーテンがかかっていて、ぴったりと閉ざされている。
彼はペロリと唇を湿らせてから、ぐっと紐を引っ張った。
「あぁ……ついに貴女様のお役に立てる時が参りました」
紐が引かれると同時に、カーテンがゆるりと開く。
「麗しき……我が戦姫」
カーテンの下から現れたのは、一枚の肖像画。
描かれているのは、女性の姿だ。
肩口で切り揃えられた黒い髪、滑らかな白薔薇の肌、凛々しい光をたたえた漆黒の瞳。
ガリアス帝国国王第二妃、カスティア・アレドナだった。
クレイブはスリッパを脱ぎ捨て、ベッドに上がる。
そして肖像画を指でなぞり、カスティアの唇に自らのそれを重ねた。
うっとりと目を閉じ、クレイブは乾いた口付けを交わす。
カスティアとの出会いが、クレイブの記憶を極彩色に染める。
「この老爺、幾ばくもない生命ですが……貴女様にこの身を捧げましょう……」
骨と皮ばかりの体を、肖像画に押し付ける。
クレイブのぎらついた瞳が、薄暗い寝室の中でじっとりと光を放っていた。




