第16話:雨の洞穴
ハルカの声を合図に、翼竜の姿がかき消える。
細かな雨に溶けていくようなその様を、ハルカは無言で眺めた。
「雨に濡れているじゃないですか。さぁ、早く洞穴の中へ」
前髪から透明な雫がはたはたと落ちる。
ポラジットはそんなハルカの姿を見るなり、ローブの袖口でハルカの濡れた頬を拭った。
ポラジットに誘われるまま、ハルカは再び洞穴へ戻る。
気が緩んだせいか、喉の奥でツンと何かがこみ上げる感覚がした。
「これで拭いてください。さぁ、そこに座って」
ポラジットは紺のキュロットスカートのポケットからハンカチを取り出した。
桃色のレースで縁取られたそれを、ハルカは黙って受け取る。
青い髪と青い瞳のイメージが強かったためか、そのハンカチの色は新鮮で、彼女もまた同じ年頃の少女なのだということを思い起こさせた。
「あいつは? ヒッポグリフはどうなった?」
「彼は還りました。私が来るまであなたを守り通すという使命を終えたので」
「そっか……」
ハルカは手渡されたハンカチで濡れた肩を拭いた。
(還る前に、礼くらい言いたかったな)
短い間だったが、共に過ごした時間は決して忘れないだろう。
ハルカはハンカチをぐっと握りしめ、ヒッポグリフの無垢な瞳を想った。
「悪ぃ。ハンカチが汚れた」
「そんなこと気になさらないで下さい」
ポラジットは杖を壁面に立てかけ、座り込んだハルカの前に屈んだ。
杖先の青い霊石が放つ光が、優しい明かり代わりになる。
膝立ちになり、ローブの中をがさごそと探った後、ポラジットは小さな皮袋を取り出した。
「お腹すいたでしょう? 私も追われてる身ですから、街で食料を調達するわけにいかなくて……。これ、小腹が空いた時に、といつも常備しているドライフルーツです。腹の足しにもならないかもしれませんが……」
皮袋からコロリと転がり出たオレンジ色の欠片を、ハルカは指で摘んだ。
口に含むと、表面の砂糖が溶けて甘みが広がる。
その後を追うように、爽やかな酸味が鼻から抜けていった。
心配そうにハルカの顔を覗き込むポラジットを見ていると、心が和み、頬が緩んだ。
「お前、いつも食い物持ち歩いてるのかよ。見かけによらず、食い意地張ってんのな」
「う……ぁ……」
くくく、と笑うハルカを見て、ポラジットは顔を真っ赤にする。
「べ、別に、そんなのじゃ……! 召喚にはエネルギーが必要なんですっ!」
ぷくり、と頬を膨らませ、そっぽを向くポラジットを見て、ハルカは心底よかった、と思う。
無事に逃げ切ることのできた彼女は、元気な姿で目の前にいる。
「ありがとな。……大変だっただろう、あそこから逃げるのは」
「いえ、私一人ではありませんでしたから」
そう言って、ポラジットは目を伏せる。
「ライラ副官とハロルド将軍が……私を逃してくださいました。そして、あなたを守れ、と」
「あの二人が?」
えぇ、とポラジットが短く返事をした。
途端、彼女の表情が険しくなる。
膝を抱えて座り直した彼女は、茶色の革靴の爪先を見つめ、さらに言葉を紡いだ。
「おそらく、あなたを死に至らしめようというのは、クレイブ・タナス議員の陰謀だろう、と。副官たちがその証拠を掴むまでの間、私とあなたで逃げろ……と、そう仰って」
(クレイブ・タナス……)
あの忌まわしい議員の顔が脳裏をよぎった。
一体どういう目論見で自分の存在を抹消しようとしているのだろうか。
狂った演説を思い出す度、ハルカの胸の中にモヤモヤとしたものが沈殿していく。
「安心して下さい。きっと……きっとあのお二人が証拠を見つけて下さりますから」
不思議とポラジットの言葉は、ハルカの心に素直に届いた。
決して穏やかな状況ではないが、それでも大丈夫だ、と思える何かがそこにはあった。
「それにしても……お前、すげぇな。どうやって、あの……術力何たらってやつを破ったんだよ」
「術力無効空間、です」
ポラジットは尖った左耳を飾る赤いピアスに触れる。
対になっていたピアスの右側は、あの会議場で爆発した。
右耳で揺れているのは、ピアスの金具だけだった。
「確かにあの場はあらゆる術を封じられていました。魔術も、召喚術も。召喚獣の力も使えない空間です」
ポラジットはハルカにも理解できるよう、順を追って説明した。
「ですが、採決の瞬間、あの時間だけ、封鎖された空間に綻びが生じます。あらゆる不正を阻止するため、投票は強力な魔法陣を用いて行われる……。採決結果を示すあの燭台の火も、魔法陣からの魔力回路を通じて灯されるものです」
ポラジットは悪戯っぽく笑い、秘密めいた口ぶりで語った。
「このピアスの石は花燃石と言って、熱を加えると燃える性質を持ってんです。普通の炎程度なら変化を起こすことはありませんよ。ただ、あの燭台の炎は強い魔法によって生み出された強力なものでした」
「お前、そんな物騒な……」
物腰の柔らかさとは裏腹に、意外と過激なこともやってのけるのかもしれない。
ハルカは口元をひくつかせながら、ニッコリと微笑むポラジットを見た。
「要するに、物理的な力で強引に魔法を暴発させたんです。不意の暴発のために術力無効空間は歪み、ほんの少しですが傷が入った……。後はその傷を広げてしまえばいい、というわけです」
ポラジットは人差し指を唇に当て、内緒ですよ、と小さく付け加えた。
「幾度か老師に連れられて会議の見学に行ったことがあったので、採決の仕組みは何となく分かっていました。このピアスも、三級召喚士の合格祝いにと老師がプレゼントしてくださったものですし……これも老師のお導きかもしれませんね」
(そいつのせいで俺はこんなとこに喚び出されちまったんだけどな)
恨み言が口をついて出そうになるが、ポラジットの顔を見ていると、そんな気持ちも失せてしまった。
「老師は最期の瞬間、あなたという未来を私に託されました。だから……私はあなたを守り抜くと、そう心に決めたんです」
雨音がハルカの心に波紋を作る。
静かな時間が、胸の奥底に沈めていた小さな疑問の芽に水を撒く。
穏やかな表情で語るポラジットを信じればいい。
けれども、これからもずっと信じていたいからこそ、ハルカはその疑問を晴らさずにはいられなかった。
「なぁ……」
ぼんやりと頭に霞がかかっているような気分だった。
「もし……俺を召喚したのが、お前の師匠でなくても……お前の師匠の最期の願いがなくても……」
言うな、聞くな、ともう一人の自分が叫ぶ。
「お前は俺の味方でいてくれたのか?」
*****
玉虫色の蟲が一枚の葉の上で翅を擦り合わせた。
人の耳には聞こえぬ音が、空気を震わせ、遠くへ響く。
「鼠が二匹。こんなところに、な」
遥か彼方、北の国にいる己が《主》の声を聞き、蟲は満足気に翅を広げる。
これからもっと雨足が強くなるだろう。
重く垂れ込めた雲の群れが、こちらに迫っている。
もうすぐ自分の役目は終わる。
少年を追跡し、監視するという役目を──。
残されたこの世界での時間を惜しむように、蟲は胸一杯に湿った空気を吸い込んだ。




