第1話:遠く喚ぶ声(前編)
二〇一六年 五月
いつも通り、変わりばえのしない朝だ。
遙は欠伸を噛み殺しながら、朝食の香りが漂うリビングへと向かった。はねた髪を手櫛で整え、なんとかそれらしい形に仕上げる。セットをする時間があれば一分一秒でも長く寝ていたかった。
「ふぁあ……はよ〜、母さん、夏兄」
「おはよう、遙。朝ごはん出来てるわよ」
「遅いぞ、遙。さっさと食わないと置いていくぞ」
キッチンからのんびりとした母親の声と、兄・夏野の声が聞こえた。
日課である牛乳一気飲みを今日も遂行するため、遙はキッチンの冷蔵庫を覗き込んだ。
「待ってくれてもいいじゃんか……って、あれ? 母さん、俺の牛乳は?」
「あら? さっき夏野が飲んでたと思うけど。あれで最後だったのかしら」
「え、マジ? ちょっ……夏兄、ストップー!」
「残念、もう遅い」
遙的生命の水である牛乳──。
夏野はその最後の一滴を、遙に見せつけるように意地悪く飲み干した。
夕城遙、十五歳。
少し身長が低いことを除けば、至極普通の男子中学生だ。
人懐っこく、あっけらかんとした性格のおかげで、友人は多い方だ……と遙は思っている。
くりっとした目に色素の薄い髪、幼さを残した顔立ちのせいか、少女と間違えられることもしばしば。文化祭の時などは、演劇で女役を押し付けられるほどの「美少女」っぷり。
遙の親友・悟曰く、「そんじょそこらの女の子よりもイケてる」とのこと。
そんな自身の容姿は、遙にとって一種のトラウマであり、自分とは正反対の男らしい兄に強い憧れを抱いていたりもするのだ。
一方、歳の離れた兄・夕城夏野は今年の春から大学に通い始め、まさにキャンパスライフを謳歌中だ。
クセのない黒髪、鋭い切れ長の目は年齢よりも夏野を大人に見せている。
現役で有名大学に入学したこともあって、大学内外問わず、女子からは「夏野サマ」と呼ばれ、人気があった。身長百六十三センチの遙はいつも、身長百八十二センチモデル体型の兄を見上げ、複雑な気持ちになるのだ。
しかし、その性格は少々難あり……というか誤解されやすいタチだ。
夏野本人は女性に対して至って紳士的に振舞っているつもりらしい。が、女性の目には、無口な夏野は冷淡で素っ気ないものに映るようだ。大概交際を打ち切られる時のおきまりのセリフは「こんな冷たい人だと思わなかった」。
それでも遙は夏野を冷たいと思ったことは一度もなかった。
確かに言葉足らずな所はあるが、根は優しく、頼りがいのある兄だ。
顔の造作だけで迫る女連中に、本当の夏野など見えっこない。
遙にとっては間違いなく夏野は自慢の兄で、いつか自分がなりたい理想の男性像でもあった。
*****
「で、夏兄大好き遙は、今日も朝からお兄ちゃんと一緒だったってわけだな」
「一緒、っつても駅の改札までだぞ。夏兄は俺らの電車とは反対方向だからな。とりあえず、その言い方は気持ち悪いからやめろ」
駅のホームで偶然出会った悟に、にやけ顔でからかわれる。夏野のことは確かに好きだが、他人から言われると急に照れくさくなる。
朝の通勤通学客で賑わうホームの人口密度は異常で、気を抜こうものなら一気に人ごみに流されてしまいそうだ。小柄な遙にとって、朝のラッシュは致命的なほど体力を奪うのだ。
「夏兄もそうだけどさ、遙もモテモテじゃん? さっきも階段のところで他校の女子に話しかけられてなかったっけ」
「あー……アレ、ね」
何本か電車を見送り、乗車列の先頭に並ぶことができた遙を悟が冷やかす。
確かに他校の女子に話しかけられたのは事実……だが、実際はそんな甘い話ではない。見られていたのか、と遙はぽりぽりと頬をかき、視線を泳がせた。
「別になんてことない話だよ。夏兄を紹介してくれってさ。ほら、毎朝駅までは一緒だからさ、あのちっこいのが夏野サマの弟だ、って有名らしい、俺」
妙に自虐的な口調になってしまうのは気のせいでは、ない。
こんなことも一度や二度のことではなく、数え切れないほどあった。中には遙自身を気に入ったように見せかけ、実は夏野狙いだった……というタチの悪いパターンもある。
「でもよ、気にして話しかけてもらえるだけいいじゃん。俺なんか女の子とは縁遠い生活だぜ〜。おこぼれっていうの? あずかっちゃえば?」
「そんなのヤダね。それに恋愛とかそういうの、今は興味ないし」
そう言って、遙はホームの電光掲示板を見やった。次の電車はもうやって来る。
線路を挟んだ向かいのホームでは、夏野がスマホと睨めっこをしている。しかめっ面で画面を見つめる時の夏野は、たいていハマっているゲームアプリで窮地に陥っている時だ。
そんな険しい表情をしているにも関わらず、夏野サマファンの女子は遠巻きにきゃあきゃあと黄色い声をあげていた。
俺も損だけど、夏兄も損してるのかも、とぼんやり考える。
「次に到着する電車は、急行学園都市前行……」
鼻の詰まった声で駅員がアナウンスする。まだ朝だというのに、一日分の疲れがどっと体に襲い来るような気がした。
「まぁさ、いつか遙じゃなきゃダメだって言ってくれる子は現れると思うぜ。気にすんなよ」
気を遣った悟が、つんと肘で遙を小突く。
憎まれ口を叩きながらも、こういうさりげないフォローを入れてくれるのが悟のいいところだ。そして、それは気休めやお世辞などではなく、悟の本心からの言葉であるからこそ、素直に染み込んでくる。
「そう、だといいけど」
遙は唇を尖らせ、足元を見つめた。心のどこかで拗ねていた自分が恥ずかしく、急にバツが悪くなった。
「そういえば、悟……」
自分と夏野のことから、強引に話題を変えようとしたその時──。
遙の周りの世界がモノクロに変わった。
自分だけが色づいたまま、白黒の世界はコマ送りで時を刻む。
「な……、なんだよ、これ!」
ホームに流れるはずの電車到着メロディは聞こえず、代わりに響くのは鼓膜をザラザラとなでつける不快な声。
低いその声は次第に音量を上げ、直接遙の脳を刺激した。
「悟! おい、大丈夫か!」
周囲がスローモーションの中、なぜか遙は普通に動くことができた。傍らで談笑していた悟の体を掴み、強く揺さぶる。
けれども、悟は遙の呼び声にまったく反応しなかった。
笑いながら、のらりくらりと不自然に口を動かす悟。おそらく遙に何か話しかけているのだろうが、一体何を話しているのかは分からなかった。
遙だけがまったく違う空間にいた──日常から切り離された異次元に。
「そうだ……夏兄っ!」
向かいのホームの兄を呼ぶ。色を失った夏野は、遙に見向きもしない。
「っ……そんなっ……」
ジリ、と遙は後ずさった。助けを求めようにも、頼れる人は誰もいない。
体を蝕む声は途切れることなく、遙を追い詰めた。
『今こそ……ここに……』
天からまた一つ、声が加わる。
その声ははっきりと言葉となって遙の耳に届いた。
刹那、遙の足元に銀色の魔法陣が現れた。
魔法陣は輝きを増し、遙の体を包み込む。
「ちょっ……待ってく……」
光の粒子が遙を圧迫する。
足元のコンクリートが結合力を失い、遙の体をずぶずぶと飲み込んだ。
「夏……っ!」
もがけばもがくほど体は沈み、遙の自由を奪う。
必死で夏野に手を伸ばすが、その手が夏野に届くことはない。
『今こそここに……! 出でよ、究極召喚獣バハムート!!』
完全に魔法陣に飲まれる寸前、遙の耳に聞こえたのは、誰かが自分を呼ぶ声だった。