第13話:たとえ一人でも
ハルカの気配が遠ざかっていくのが分かった。
緊迫した状況にも関わらず、ポラジットは安堵する。
『ポラジット!!』
去り際に、彼は初めて自分の名を呼んだ。
(それでいい……それだけで、戦える)
ポラジットは杖を握り、青の魔法陣を展開した。
亡き老師から行く末を託されただけの縁。
それだけだったが、尊敬する師を失った今、ポラジットを前へ突き動かしているのは間違いなくハルカの存在だった。
ハルカを利用している、という意味では自分も同じかもしれない。
それでも、クレイブの言うような残酷な形で彼を元の世界に還そうとするのは間違っている。
「ポラジット・デュロイを捕らえよ!」
兵士たちの遥か後方から、がなりたてるクレイブの声が響いた。
ヒステリックな金切り声は耳障りで、上院議員としての威厳や落ち着きは皆無だ。
会議場を警護している兵士は十数人。
彼らが自分に向かって猛進してくるのを、ポラジットは冷たい目で睨みつける。
おそらく、廊下の最奥にあるこの会議場に兵士たちは続々と集まってくるだろう。
そうなれば、袋のネズミだ。
他を警備している兵士たちがこの騒ぎに気付き、会議場に押し寄せてくる前に逃げなければならない。
(捕まるものですか)
ポラジットはローブを翻し走り出した。
真っ直ぐ伸びる廊下を突っ切る。
三叉路に差し掛かったところで、ポラジットは足を止め、くるりと振り返った。
(訓練された兵士たちと召喚士の私では足の速さが違う。走り続けていれば、必ず追いつかれる。だから……)
「まずは後ろを止める!」
蒼穹の杖の先で魔法陣が揺らめく。
ポラジットは杖先の霊石を迫りくる兵士たちに向けた。
立ち止まったポラジットを狙い、兵士三人がホルスターから銃を抜く。
兵の一人──部隊を率いる長だろうか──が剣を振り上げた。
「射撃班、撃て!!」
黒い拳銃から弾丸が発射される。
くすんだ黄金色の銃弾が迫ってくるのを見て、ポラジットは目を細めた。
「反射」
詠唱と同時に、六角形の小さな板が無数に寄り集まり、ポラジットの前に壁を作る。
透明な青の壁に弾丸は次々と吸い込まれ、着弾した地点で波紋が広がった。
刹那、吸い込まれたはずの弾丸が壁から再び現れた。
ポラジットに向けられていたはずの弾頭は百八十度回転し……兵士たちに向けられていた。
「増幅」
「……っ!」
兵隊長が声にならない声を上げた。
弾丸は放たれた時と寸分違わぬ速度で、ポラジットの元から発射される。
兵士たちの足元に次々と着弾したそれは、弾丸とは思えぬほどの威力で地面をえぐった。
ポラジットの魔法により増幅された弾丸の力。
圧倒的なそれに気圧された兵士たちはたたらを踏む。
その隙に、ポラジットは三叉路を右折し、総督府本部の出口を目指した。
廊下の窓から差し込む光が肌を焼く。
ポラジットの額に汗の球が浮かんでいた。
(あと少し……。強行突破するしか方法はない……!)
策を講じるのもよいが、真正面から挑むことが必要な場合もある。
これは亡き老師の言葉だった。
(私がここで騒ぎを起こし、注意を引きつけなければ。ハルカが少しでも遠くへ逃げられるように……!)
力の使い方を知らないハルカが追い詰められれば、それこそもう逃げようがない。
自分が追いつくまで、どうか無事で……とポラジットは祈った。
いくつか角を曲がる。
出口が近づく。
だが……総督府本部という強大な機関に楯突き、一介の召喚士が己の力のみで窮地を切り抜けようというのは、無理な話だったのかもしれない。
ザザザ……、と柔らかな廊下を駆ける足音がした。
その足音は最初は数少ない人数のものだったが、次第に数を増す。
出口が見える距離までやって来た、というところで、非情にも兵士たちがポラジットの進路を阻んだ。
「くっ……」
元来た道を引き返そうと振り向くも、同じように退路を断たれてしまったことに気づく。
「ポラジット・デュロイ三級召喚士よ……大人しく投降したまえ!」
じりじりと前後から兵士たちが迫る。
逃げ場はなかった。
戦うことは厭わないが、無闇に兵士たちに傷をつけることはポラジットの本意ではなかった。
甘い、と言われるかもしれない。
(けれども……たとえそう言われようとも、血を流さずに切り抜ける方法を選びたい)
ポラジットは杖を掲げ、その先端を兵士たちではなく……廊下の大窓に向けた。
「衝撃!」
魔法陣から衝撃波が窓に向かって放たれた。
ビシィッ、と窓に亀裂が走り……衝撃に耐えかねたガラスは瞬く間に粉々に砕け散る。
ポラジットの周囲に生じた衝撃の余波が兵士たちを吹き飛ばし、彼女に逃げる隙を与える。
キラキラと破片が降り注ぐ中、ポラジットは割れた窓の外へと身を滑らせた。
「追え……追ええぇぇっ!!」
兵隊長が兵士たちに命令するも、絡まり合って倒れた彼らはなかなか起き上がれずにいた。
(振り返るな……行かなきゃ……!!)
兵隊長の怒号を背に、ポラジットは本部の外に広がる森の中へと姿を消した。
*****
「はぁ……はぁ……はぁ……」
カスティアの白い肌は上気し、薄紅色に色づいていた。
蜜色の手がその体の上を滑る。
締め切ったカーテンの隙間差し込んだ陽光は、まるで一条の金の糸。
カスティアは絹糸のシーツをぐっと握りしめ、愛する男にその身を委ねていた。
激しかった動きは次第に緩慢になり、熱い吐息と掠れた声だけが残り火のように燻る。
男──ガリアス帝国皇帝スフルト・ナハタリは行為が終わるやいなや、ぐったりと横たわるカスティアを残し、床に脱ぎ散らかした腰布を拾い上げた。
バサリとそれを腰に巻きつけた後、カスティアの髪を一撫でする。
「余は執務に戻る。今宵、また来る」
「陛下……お待ちしております」
裸のまま足元に跪くカスティアを一瞥し、スフルトはカスティアの部屋を後にした。
スフルトの背を見送った後、カスティアはすっくと立ち上がり、カーテンを開けた。
瞬く間に室内は光で満たされる。
カスティアは体を伝う汗を拭い、全身に香油を塗った。
その時、カンカン……と何かが窓を叩く音が聞こえた。
カスティアはそのまま窓辺に向かった。
「……鴉、か」
窓の外、石の窓枠の側に止まっているのは一羽の鴉。
カスティアは窓を開け、何用だ、と鴉に向かって呟いた。
『バハムート……ハルカ・ユウキが逃亡しました』
神経の細そうな男の声で、鴉は喋った。
ふん、とカスティアは鼻を鳴らす。
(しくじったか……クレイブ・タナス)
自分がバハムートを始末するのが一番手っ取り早かった。
が、スフルト・ナハタリの寵姫であり、近衛師団の隊長でもある自分が、敵国に一人赴くわけにもいかない。
総督府本部内で自由に動き回ることのできる《駒》が必要だった。
(《駒》は所詮《駒》、か)
「心配には及ばぬ。かような事態のために、貴様に我が召喚獣……蟲をつけておいたのだ。今頃、バハムートを追っていることであろう」
それは小さな羽虫のような召喚獣だった。
カスティアはクレイブを監視するために召喚獣を遣わせていた。
万が一の時は、蟲自身で行動するよう指示していたのだが、思わぬところで功を奏したようだ。
まぁ、よい、とカスティアは鴉の喉をくすぐった。
「バハムートは総督府本部からそう遠くは離れてはいないだろう」
海を越えられるのは、通信用の召喚獣と認可された船舶のみ、と条約で定められている。
つまり、船舶を用いる以外、総督府本部のある南方大陸からバハムートは離れることはできないのだ。
「改めて指示する。しばし待て」
『かしこまりました、麗しの王妃殿下……』
ねっとりとした口調で鴉は応え、それきり口を閉ざしてしまった。
(麗しの王妃殿下、か。馴れ馴れしく呼びおって……)
カスティアはチッ、と舌打ちする。
クレイブがカスティアに抱いているのは忠義心だけではないことは明白だ。
その下心に嫌悪感を覚えながらも、利用できるものは利用せねば、と自分に言い聞かせた。
通信を終えた鴉の輪郭がおぼろげになる。
それから鴉は溶けるように消えると、一枚の鴉の羽根と化した。
頼りなげな黒は眼下の雪原に、はらりと落ちて行く。
召喚獣が消え行く様を見届た後、カスティアは踵を返し、化粧台の大鏡の前に向かった。
鏡を指でなぞり、そっと語りかける。
「蟲よ……。お前が見ているものを、私に見せておくれ」
ぐにゃり、と鏡の中のカスティアの顔が歪む。
そして……その鏡面に、空を駆けるヒッポグリフと、その背に跨るハルカの姿が映し出された。




