第43話:その代償(後編)
ポラジットの足元、魔方陣が放つ光が強まる。幻獣を喚ぶ言霊が、異世界への扉を開く鍵になる。
一体この幻獣はどこの世界からやって来たんだろう。俺の住んでいた世界? それともまた別の世界? 光に包まれながら、ハルカはふとそんなことを思った。
ハルカの体が熱くなる。光が体中を駆け巡る。自分の体に力が満ちていくのが分かった。
「黒雷狼……? いいえ、違う、これは……?」
ポラジットは目を見張り、その光景を見守った。今まで見てきた召喚と違うのだ。
いつも通りの手順を踏んだはずなのに……。
召喚されるはずのフェンリルの姿はどこにも見当たらない。その気配すら感じられない。魔法陣からゆっくりと黒い狼の姿を現すはずのフェンリル。だが、今は魔法陣の光が強まっていくだけだった。
魔法陣の力はハルカに向かって収束する。ハルカの体が緑の光を帯びた。
「まさか、究極召喚獣としての力……?」
今まで全くと言っていいほど発現しなかった、ハルカの力。それが呼び覚まされたというのだろうか?
ハルカの輪郭がぐにゃりと歪む。身を痺れさせるような力がハルカの体を突き抜けた。
ポラジットはハルカに手を伸ばした。だが、その手は圧倒的な光の圧力に押し戻される。光がハルカを包み、大きく膨らんでいき……。
光が弾け飛んだ。
*****
短かったハルカの髪は、膝の位置まで伸びていた。癖のあった髪質はそのまま、ところどころはねている。
ハルカの目は真紅に染まり、筋肉は膨張している。制服の内におさまりきらなかった筋肉が布地を裂き、その下の黒い毛にまみれた肌が覗いた。捲れた上唇から見えるのは獣の牙。爪は研ぎ澄まされた刃物のようだ。
そして、魔法を一切使えないはずのハルカの手から、パチパチと雷が爆ぜる。その身に収めきれなかった力が、雷となって漏れ出ていた。
「まさか……フェンリルをその身に宿したの……?」
変化したハルカの外見は、フェンリルのそれと酷似していた。ポラジットの幻獣召喚が失敗したわけではない。ハルカの内にフェンリルは存在したのだから。
「シャイナ、お前が俺を憎むのは構わない。殺してしまいたいほど嫌っても、俺は文句を言えねえ」
ハルカの体に雷の閃光が走る。固く握った拳から紫雷が溢れた。蝶と獣が睨みあう。
空中庭園に突入してから、まもなく一の刻が経過しようとしていた。ハルカたちの体はもう限界だ。これ以上戦闘が長引けば、有無を言わさず、毒が彼らの体を蝕むだろう。
シャイナの両手に再び光が集まる。つららのようなそれは、ハルカの心の臓を狙い、照準を合わせる。
「俺に直接ケンカを売ればよかったんだ! 気に入らないって、はっきりと!」
ハルカの足に雷が巻き付く。ハルカは狼の、いやそれ以上の速度で飛び出した。次第にハルカは加速し、シャイナの懐目がけて跳躍する。
思わぬ速度にシャイナはたじろいだ。しかし、躊躇は一瞬。すぐに狙いを調節し、光のつららを放った。
光速の攻撃を、ハルカは空中で躱す。体を後方に反らせ、一撃を避ける。腕に雷を纏わせ、同時に迫っていたもう一本の光の槍を、右腕で打ち落とした。
「バハムート! フェンリル! 貴様らあああああ!」
シャイナは翅を広げ、黒い風の渦を巻き起こした。ハルカを罵りながら、猛然と攻める。毒を孕んだ風は、フェンリルの黒毛を散らす。その下から露わになったハルカ自身の皮膚を裂き、鱗粉が傷に付着した。
「……っ!」
焼け付くような痛みと、強烈なめまいがハルカを襲う。平衡感覚が失われ、少しでも油断しようものなら、真っ直ぐ地面に落下してしまいそうだ。喉に異物が詰まった感じがして、呼吸することが困難になる。
「無駄だ!」
ハルカは傷を負った右手に、左手を押し付けた。そして……左手に雷を集め、毒に侵された右手に放った!
ぶすぶすと肉が焦げるにおいが辺りに充満する。ハルカは右手もろとも、毒の鱗粉を雷で焼き払ったのだ。ハッハッと浅く、短い呼吸を繰り返す。それでも迷うことなくシャイナを目指した。
「いい加減に……くたばれっ! バハムート!」
シャイナは体をぐっと丸め、力をためた。次の瞬間、シャイナが手足を大の字に広げると同時に、黒い矢が降った。
鱗粉が混じった矢がハルカの肩を貫く。鮮血が飛び散り、わずかに跳躍速度が低下する。がくり、とハルカの高度が落ちる。
このままじゃ、シャイナの所に届かない……!
「ハルカに翼を! 浮遊!」
ハルカの背後から青白い光が包んだ。ポラジットの声がハルカに力を与える。光を受けた背が熱く、自身の内側から、何かが突き破ろうとしているのが分かった。ハルカは宙のシャイナを見つめる。
届く、きっと届く。
「ルイズ、あれ! ハルカの背中に……翼!」
サクラがルイズの腕を掴み、ハルカを指さす。ハルカの背に映えているのは確かに、青い翼だ。澄み渡る青空を思わせる色に、サクラとルイズは思わず息を呑んだ。
ハルカは力いっぱい背中の翼をはためかせる。一直線にシャイナに向かって、がむしゃらに翼を動かす。腰に手をやり、鞘に収めていた双剣をスラリと抜き放った。
双剣の刀身に雷が絡みつく。一層、白刃が輝きを増し、また黒刃はその闇を深めた。
シャイナの眼光が鋭くなる。こんなところで倒れはしない。強い意志がハルカの胸を射抜いた。
ハルカはシャイナの頭上まで上昇し……。
「お前への信頼を、あいつらの友情を……裏切っちゃいけなかったんだ!」
ハルカは剣を振り下ろした。
*****
蝶は飛翔する力を失った。
獣が放った一閃が、蝶の胸で交差する。身は裂かれたが、痛みもなく、温かな血液も出ない。傷口から、自身の命のすべてが漏れ出ていく。手足の感覚は消え、重力が体を引き寄せる。
瞼を閉じ、よぎったのは皆で過ごした最後の休日。
……どうして、私を救ってくれた人の姿じゃないの?
その答えを、蝶は知っている。分かっているけど、決して認めたりはしない。
私は私の思いを曲げることはない……そう決めたんだから。
*****
「シャイナ!」
はらり、と地面に落ちたシャイナは目を瞑ったままだ。
ポラジットはシャイナに駆け寄り、がくり、と膝をついた。大粒の涙が青の双眸からこぼれる。ポラジットはシャイナの頭を包みこみ、自身の膝に乗せた。傷んだシャイナの髪を手櫛ですき、愛おしそうにその顔を撫でた。
シャイナから少し離れた場所にハルカも着地した。フェンリルを宿したままの姿で近づいたハルカは、シャイナを見下ろし、語りかける。
「ずっと……お前は嘘の顔で俺たちに接し続けてきたのか?」
ふる、とシャイナの瞼が震え、ガラス玉の瞳が覗く。しかし、その瞳にはもはや何も映っていない。焦点が定まらないまま、彼女は土気色の唇を開いた。
「だったら、何だって言うの?」
「じゃあ、どうして旅行に行こうなんて誘ったんだ。どうして……思い出を作ろうとしたんだ。あの時なら、間違いなくお前は俺を討てたのに」
ハルカの口調は、責めるそれではなく、まるで諭すよう。静かに問いかけるハルカはそっとシャイナの傍らに跪いた。獣の手で、シャイナの右手を握る。その手は冷たく、かつての温もりは失われていた。
「あなたたちに、信用させるためよ。仲間だと、油断させるため」
「違う!」
駆け寄ってきたルイズが叫んだ。ハルカの後ろで立ち尽くす彼は、手が白くなるほど拳を握りしめていた。
「そうじゃなかっただろ! 俺様に説教たれて、馬鹿だって罵りやがって! そこに……思惑なんてなかっただろ!」
「あなた、本当に馬鹿なのね……」
「私、それでも、シャイナのことが、好き。友達」
「……そうね、あなたのそういうところ、嫌いじゃなかったわ」
サクラの声は今にも消え入りそうなほど、たどたどしいものだった。サクラはブレザーを脱ぎ、横たわるシャイナにそっとかける。
「教官……」
「……っ!」
言葉を発せずにいたポラジットの手がぴくり、と動いた。
何と声をかければいいのだろう。あの頃と変わってしまったのは自分だった。昔を置き去りにしたのは自分だった。
任務を遂行し、義務を果たすことばかりを考えていたあの頃。五年前、助けた少女と言葉を交わしていたら、助けた少女のことを覚えていたら……シャイナと出会った時に、気づくことができていたなら。
――今とは違う未来があったかもしれない。
「憧れていました……。私だけの教官でいて欲しいと、そうできないのなら私の手で消してしまいたいと思うほどに……」
「ごめんなさい……! シャイナ、私が、私のせいでっ」
「学園に入学した時、デュロイ教官の名前を初めて知りました。嬉しかった……またお会いすることができると……思ってなかったから」
ポラジットの涙がシャイナの頬を濡らした。
氷のように冷え切った皮膚に、その涙は温かく感じられた。憧れの人が自分のために涙を流してくれている。消え行く自分を惜しんでくれている。
「父に見放された私は、天からも見放されたと思っていました。でも、そうじゃなかった」
シャイナは再び瞼を閉じる。
蝶の鱗粉は薄れていき、空中庭園独特の草木の香りが漂い始めた。枯れ草の香りに混じるのは、愛しいポラジットの香り。シャイナはそれを胸いっぱい、大きく吸い込んだ。
「教官、私を助けてくださって……ありがとうございました」
ずっと言いたくて言えなかった言葉を、シャイナは紡ぐ。ポラジットは微かに微笑んだ。
「あなたが無事で、本当によかった」
二人の時間が巻き戻る。五年前、タヒク郊外の畦道で、二人は向き合い、言葉を交わす。
「シャイナ!」
ハルカが握っていたシャイナの手、その指先が次第に変化していった。白かった肌が黒変し、ちりちり、と鱗粉となり散り始める。
光の当たる角度によって、黒かった粉は七色にも見えた。つま先、そして髪の毛先からも鱗粉が舞い、シャイナの輪郭がぼやける。
「シャイナ、いけません! 戻ってきなさい!」
ポラジットがシャイナに呼びかける。だが、シャイナの目は開くことはない。
日の光が差し込む空中庭園で――シャイナは虹になった。




