第41話:その代償(前編)
蹲っていたシャイナがゆらり、と立ち上がった。肩を上下させながら、懸命に空気を取り込む。その痛々しい様子とは裏腹に、シャイナの眼光は鋭かった。顎を引き、上目づかいでハルカを見つめるシャイナに、優等生の面影はなかった。
「シャイ、ナ?」
シャイナに寄り添っていたサクラが声を震わせた。一歩、また一歩と後ずさりし、シャイナから距離を取る。
「ハルカ、私を疑っているの? 友達なのに?」
小首を傾げ、口角を吊り上げるその表情は、ハルカたちのよく知るシャイナのものとは違う。言葉の内容と、その様子が噛みあっていないのだ。疑われていることに、何の感情も抱いていない。むしろ、ようやくこの結論に達したのか、と言わんばかりの挑戦的な視線だ。
「あくまで推測だ。だから、違うなら違うって……そうはっきり言ってくれ」
「なぜ私だと思うの? 納得のいく説明をしてくれなきゃ」
シャイナはハルカたち四人と対峙した。そのままベンチに座り込み、足を組む。
「お前は説明会の後、サクラに訓練用依頼を勧めた。俺たちでもできる、簡単な依頼があるとでも言ったんだろう。サクラはお前の言う通り、ザラ・ハルス村の窟鳥掃討依頼を受けた。そこには『虚無なる鴉』のメンバー、ルドルフト・ルドルが待機していたんだ。お前の計画通り、ルドルフトは俺たちと村を襲撃した」
「確かに私はサクラに依頼を勧めたけれど。それが何か?」
「俺たちは苦戦した。計画通りに進めば、俺たちはあの村で倒れるはずだった。だけど、邪魔が入ったんだ。……ポラジットが村へ行くと言い出したんだ」
シャイナは口を噤んだまま、乱れた髪を整えた。ちらり、とハルカを見た後、視線を毛先に移す。
「襲撃犯の正体が判明するまでは、ザラ領主は絶対に制圧隊を動かさない。下手に手を出して、万が一国家間の問題になってしまったらどうする? 襲撃が他国によるものじゃないと分かるまで、動くはずないんだ。お前ならそこまで計算していてもおかしくない。そんな中、ポラジットは村に向かった。どうせ……自分一人でも行くと言って聞かなかったんだろ」
「ええ、教官ったら兵士たちの制止も振り切っちゃうんですもの、びっくりしたわ」
「お前にとって都合がよかったのは、ちょうどその時、お前も同行できる状況にあったことだ。お前はポラジットに同行することを決めた。そして、村までの道中で消してしまおうと考えた。ポラジットとお前を襲ったのは、お前が召喚した召喚獣だ。だけど、急場しのぎの召喚獣では、ポラジットを倒すことはできなかった」
「あんなに敵を簡単に倒してしまわれるなんて……やっぱりデュロイ教官は素晴らしい方なんだって再認識したわ」
サクラがふるふる、と頭を振る。もうこれ以上聞きたくない、と耳を両手で塞いだ。
「実践試験の一日目、お前は何者かに襲われた。叫び声を聞きつけた俺たちは、地下大空洞に突入した。お前以外のメンバーはすっかり気を失っていた。辛うじて意識があったのはお前だけだった。だけど……お前だけ助かるってのはどう考えても不自然なんだ」
「偶然、よ。私だけが傷が浅くて済んだの」
「地下大空洞に魔物は住んでいない。つまり、終の間にいる試験召喚獣だけを警戒していればいい。それならば、大剣と槍を使うメンバーが前に、魔法メインのお前は後ろに控える、そういう隊列を組んでいたはずだ」
ハルカは自分のうなじを指でさした。
「背後から襲われたのなら、お前のダメージが一番でかくなきゃおかしい。不意の襲撃だったなら尚更、だ。けれども意識を失うほどの攻撃を受けたのは前衛二人、しかも操られていたのも二人だけ。お前は……無傷だ」
「あら、でも私も無傷じゃないわよ。彼らから攻撃を受けたし、右目をやられたわ」
「本当に二人のせいか? 右目を失った原因……それは別にあるんじゃないか」
シャイナの目がすっと細まる。赤縁の眼鏡を外し、地面に落とす。カシャリ、とレンズはあっけなく割れた。シャイナの白い指先が右目の眼帯に触れた。
「救護の教官から、右目は治る。そう言われたとお前は言っていた。だけど、俺たちの中の誰一人、直接救護の教官からその言葉を聞いたやつはいねえ」
「そういえば……そうだ。俺はシャイナがそう言っていたから信じて……!」
ルイズがあの時のことを思い出しながら呟いた。
「救護室で、俺たちはお前がポラジットに詰め寄ったのを見ていた。お前はベッドに身を起こし、上半身の服を脱いだ。そして、ポラジットにも身の潔白を示せと要求した」
「……ええ」
「下着以外のすべての服を脱いだポラジットに、お前はこう尋ねた。ルドルフトの刺青……『虚無なる鴉』の紋章はどこにあったのか? ポラジットは右腕だと答えた」
「私の右腕に、鴉の刺青なんかなかったわ」
「『虚無なる鴉』のやつらは体に刺青を入れている。お前の上半身に印はなかった。だけど、必ず敵の右腕に刺青があるって言いきれるのか? 俺たちが聞いたのは、やつらは体のどこかに印を持っているということだ。お前の右腕に印がなかっただけで……お前の体に刺青がないとは言い切れないんだ!」
シャイナは何も答えない。否、その沈黙がシャイナの返答だった。
「まんまと騙されたんだ。お前がこの学園で築いた信頼……それに俺たちは騙された。学年主席の優等生、生徒たちからも、教官からも信頼が厚く、誰からも好かれていたシャイナ・フレイア。お前の言葉なら信じられると……思っていた」
ハルカはうなだれ、足元を見つめた。シャイナの様々な表情が脳裏に蘇る。
そのすべてが嘘だったのか。俺たちは偶像のシャイナを見ていただけなのか?
ハルカの隣にポラジットが寄り添った。ハルカの半歩前に進み、杖を構えた。
「シャイナ・フレイア。こちらで独自に調査しました。救護担当の話によると、あなたの右目の傷は剣戟によるものではないと……目の機能は完全に失われているとのことでした」
ポラジットの声を聞き、シャイナは顔を上げる。覆い隠された右目の奥はどうなっているのか、ハルカたちには分からなかった。
「ヴォーカ教官は学園が作り上げた牢の中にいます。ですが、それは彼女が犯人だからではありません。闇の中……閉ざされた空間こそ、闇魔法を得意とするヴォーカ教官が、真に力を発揮できる場所だからです」
「じゃあ、ヴォーカ教官は……」
ルイズが言わんとすることを察し、ポラジットは大きく頷く。
「そうです、ヴォーカ教官は『虚無なる鴉』とは関係ありません。非常時のために、万全の状態で待機してもらっていました。空中庭園に障壁を張り、鱗粉の拡大を阻止しているのも、校庭の生徒たちに解毒魔法をかけたのも……ヴォーカ教官です。私は……シャイナ、あなたを全力で止めに来ました」
「な……ポラジット、どうして黙ってたんだ!」
ハルカが思わず叫ぶ。ポラジットは気づいていたのだ。誰が黒幕であるかを。
「ごめんなさい、ハルカ……。シャイナと親しかったあなたたちには知られたくなかったのです。私の胸の内に秘めておけるのならば、そうしておきたかった……」
サクラが縋るようにシャイナに言葉をぶつけた。数少ない彼女の友人の一人。皆に優しく、誰からも慕われているシャイナは……まさにサクラの理想だったのだ。
「でも、代償召喚したなら、シャイナの命はもうないはず! なのに、シャイナはここにいる! 違う……シャイナじゃない!」
「シャイナ、俺の話には証拠なんて一つもない。勝手な俺の推測だ。だから……違うなら違うってそう言ってくれ!」
ただ一言違うと言ってくれれば。それだけでいい――。
罠かもしれない、そう思いながらも夏の温室に逃げ込んだのは……シャイナの言葉に従ったのは、それでもシャイナを信じていたかったからだ。
だが、ハルカとサクラの願いは決して届かない。
「あなたたち、本当におめでたいのね。例え否定したところで……もう私には隠す手立てなんてないのに。見たでしょ、このボロボロの体を。少し走っただけで、こんなにも息切れしてしまうんだから」
一瞬だけ、シャイナの表情が和らぐ。頼れる姉のような、慈愛に満ちたそれにサクラは束の間、安堵する。しかし、その時間も長くはなかった。
「命は一つ。でも、命は一瞬じゃない。一瞬を重ね、何十年と続いていくものよ」
シャイナが空に手をかざした。温室のガラス越し、シャイナの頭上に舞っているのは黒蝶。彼女の命令を今か今かと待つ蝶は、ぶるりと身を震わせ、鱗粉を散らした。
「鳥人には私の寿命半分を、巨人には寿命三年分を、それから蛭には私の右目を与えたわ。私は自分の命と体を削った! 究極召喚獣と青の召喚士を討つために!」
シャイナの手から光の球体が放たれた。光の球体は温室の天井を割り、黒い鱗粉が一斉に吹き込む。ハルカたちの視界は黒い嵐に遮られた。
霞んだ視界の中、シャイナの背後に黒い蝶が舞い降りるのが見えた。蝶はシャイナを守るように大きく翅を広げ、宙にとどまっている。
「捧げるのは、私の残った命、そして私の体! 長から託されたこの黒蝶にそれらを与えて……この代償召喚は完成する!」
「シャイナ! やめろ!」
蝶が高度を下げ、シャイナに近接する。それが地面に近づくにつれ、植物の葉が散り、花が枯れた。夏の温室は極彩色から茶褐色へと色を失い、毒が辺りを汚染する。
ハルカはシャイナを止めようと、前へと進んだ。だが、蝶が起こす風に体は押し戻され、シャイナの立っている場所には遠く及ばない。それでも、ハルカは前進するのをやめようとはしなかった。
「私を食らいなさい! あなたと私を一つにして!」
シャイナは目いっぱい手を広げた。それに応えるように、黒蝶も翅を広げる。
そして、黒蝶はその翅で、シャイナを後ろから優しく抱いた。




