第38話:卒業試験二日目(中編)
黒い雪の毒は辺りを次第に侵食し始めた。
「これは……」
学園本館の玄関から校舎外へ出、校庭を目指していたポラジットは、異様な様子に息を呑んだ。
一体、何が起こっているというの……?
屋外にいる人々は、毒に汚染されていた。喉元を押さえ、呼吸をするのもままならないといった風にあえぐ。ポラジットも、自身の喉の奥に痺れるような感覚を覚えた。
「ポラジット!」
その時、ハルカ、サクラ、ルイズ、そしてシャイナの四人が、ポラジットの元へ駆け寄っていった。ポラジットは四人の無事を確認し、ひとまず安堵する。
「あなたたち、大丈夫ですか?」
「俺たちはいい! それより、校庭に残っている奴らを!」
「デュロイ教官、この黒い雪は毒性があります。おそらく、空中庭園から発せられているものです。他の生徒たちも一旦は治癒魔法で切り抜けるでしょうが……。ですが、時間の問題です! そう長くは持ちこたえられないと思います」
シャイナは屋上の空中庭園を指さす。その分析を聞き、ポラジットはこくり、と一つ頷いた。
――やはり、この日を狙ってきた、ということでしょうか。
ある程度予測できていたことだとは言え、ハルカやポラジットだけを狙ったものではなく、クライア学園の他の生徒たちまで巻き込むことになろうとは、ポラジットは思っていなかった。
『武』の試験召喚獣戦とは違う。もしかしたら、犯人は追い詰められているのではないか。ポラジットは敵の焦りを感じた。
「分かりました。……ここは……お任せします」
ポラジットは杖を呼び出し、何もない空に語りかけた。その声は小さく空気を振動させ、空へと消える。その刹那――。
黒く淀んでいた天が割れ、太陽の光が覗いた。ハルカはハッと空を仰ぎ見る。
それと同時に、蛍光グリーンの障壁が空中庭園をドーム状に覆った。きらめく光の粒が校庭の生徒たちの頭上から降り注ぎ、彼らの体を癒していく。
「ポラジット、お前、何を……」
ポラジットは魔法を詠唱した気配を見せなかった。少なくとも、ハルカは気づかなかった。
ハルカは疑問に思う。
稀代の召喚士ダヤン・サイオスの愛弟子であり、天才召喚士と呼ばれるポラジットでも、詠唱なしに魔法を発現させることができるのだろうか。
召喚術においては誰よりも優れているのかもしれないが、それ以外――剣術や魔術――においては誰よりも、というわけにはいかないはずだ。
「あなたたち、転移門から学園外へ避難しなさい! 私は、空中庭園へ向かいます」
ポラジットはハルカたちに背を向け、大きくローブを翻した。
「ちょ、待てよ! ポラジット、お前一人で行くつもりかよ!」
ハルカは慌てて、ポラジットの手を掴んだ。ポラジットの体が、くん、と後ろに傾く。
振り返ったポラジットの前に、ルイズが進み出た。困惑、とも戸惑い、とも言えない表情で問いかける。
「デュロイ教官、ヴォーカ教官は『虚無なる鴉』なんすか? 今日、試験担当教官がヴォーカ教官じゃなかったのは、何か理由があるからっすよね」
「ルイズ……」
「ヴォーカ教官の身柄を拘束したから? それとも、追い詰められて雲隠れしたから? どうして、こんなことが起こってるんっすか!」
語気を荒げ、ルイズはポラジットに詰め寄った。ポラジットの細い肩をがし、と掴み、揺さぶる。
その勢いを制止するように、サクラはルイズの右腕を強く握った。だが、サクラは本気でルイズを止めない。サクラもルイズと同じ疑問を抱いていたからだろう。
ポラジットはルイズの行動を窘めることはしなかった。静かに目を瞑り、薄紅の唇を開いた。
「ヴォーカ教官の身柄は……学園内のとある場所で隔離しています」
「だったら、どうして!」
「何らかの罠、かもしれません。最後の抵抗とでも言うのでしょうか。ですから……尚のこと、あなたがたを空中庭園に連れていくわけにはいきません」
ルイズの手が止まった。短く、舌打ちし、ポラジットの体を離す。解毒魔法がきらきらと降り注ぐ音だけが、辺りを満たした。
沈黙を肯定ととらえ、ポラジットは再び踵を返す。これで、自分に誰もついてくることはないだろう。生徒たちをこれ以上巻き込まずに済むのであれば、それに越したことはない。教官として、自分はすべきことをするだけなのだから。
「俺も、行くからな」
強く、短い決意の言葉。背後に寄り添って歩く気配がする。二本の剣、その鞘が触れ合う音。そして、毎日毎日聞きなれた足音。
「何故っ! 危険だと言ったのが理解できませんでしたか!?」
ポラジットはムキになって叫んだ。やはり、ポラジットについてきていたのは、ハルカだった。
「気に入らねえんだ。『虚無なる鴉』ってやつも、お前も」
「……っ!」
「こそこそと正面からかかってこないのも気に入らねえ。召喚獣を使い捨てるように召喚してるのも気に入らねえ。それに……」
ハルカは立ち止まり、ポラジットの目を真っ直ぐ射抜いた。
「一つ年上で、教官ってだけで何でも解決してやろうっていうお前も気に入らねえ。俺たちを守ってやらなきゃってのも、ぜんっぶ気に入らねえ!」
「ハルカ……」
「卒業試験一日目のことで責任感じてるなら、もうやめろ。俺たちはお前が怪我して戦えなかったこと、誰も責めたりしねえよ」
ハルカはルイズたち三人を見据え、ニッと笑った。
「お前らは校舎に戻ってろ。そもそも狙われてるのは俺とポラジットで、お前たちは巻き込まれただけだもんな。あとは俺に任せて……転移門で生徒たちの避難誘導してくれ」
ルイズたちを危険にさらすわけにはいかなかった。そもそも、敵の狙いはハルカとポラジットであって、彼らは関係ないのだ。『武』の試験召喚獣との戦いでも、彼らは偶然巻き込まれてしまっただけなのだ。
これでいいんだ。ハルカは満足げに微笑んだ。
「私、ハルカのその顔、気に入らない」
「へ?」
サクラがムスッとむくれた顔でハルカを睨んだ。
「これでいいんだ、って納得した顔。気に入らない」
「サクラに同感だわ。ハルカ、あなたね、ここまで巻き込んでおいて、今更関係ないなんて都合がいいと思わないの?」
「私、ハルカについていく」
「おいおい、サクラ……ルイズも何とか言ってやってくれよ」
サクラとシャイナが矢継ぎ早にハルカを責め立てる。その攻勢にたじろいだハルカは、ルイズに助けを求めた。
「今度こそケリをつけるって息巻いてたのはどこのどいつだよ」
「お前……ルイズ!」
「俺様だって命は惜しいぜ。だけどよぅ、地下大空洞で俺様をコケにしてくれたあの蛭……あいつを呼んだ召喚士ってのに一言言ってやらないと気が済まねえんだよ!」
ハルカはあんぐりと口を開けたまま、反論できずにいた。
「私たち三人は満場一致であなたについていくことにするわ。二人で戦うより五人の方が、何かとお得だと思うけれど?」
ポラジットがふぅ、とため息を漏らした。
ハルカには分かっていた。ポラジットがこんなため息をこぼす時、大抵は諦めているということを。そして、ハルカもポラジットと同じように小さく息を吐いた。
「もう何を言っても聞かないようですね。ハルカ、ルイズ、サクラ、シャイナ、あなたたちの同行を許可します。しかし、危険だと判断した時は、一刻も早く離脱すること、いいですね」
屋上を見上げると、障壁の中は真っ黒に染まっていた。黒い雪は行き場を失くし、空中庭園の中に蓄積していっていた。
「これ」
サクラが矢筒の底をきゅぽん、と引き抜いた。外れたそれは、小箱のようになっていて、六つに仕切られていた。
箱の中には豆粒ほどの薬。仕切りによって、種類が分けられているのだろう。
「解毒魔法は即効性はあるけれども、持続性はない。この薬、しばらくの間、体の解毒能力を上げる」
そう言うと、サクラはそれぞれの手に、黒い丸薬を配り始めた。
「効果時間は一の刻。それが切れたら、毒に蝕まれる」
「一の刻、か。それだけあれば、十分だ」
上等、とハルカは口の端をつり上げる。
「敵目標は空中庭園。目的は黒い雪の源の破壊。『虚無なる鴉』の凶行を今度こそ、止めます」
ポラジットが澄んだ声で任務開始を告げる。
「了解!」
前衛にハルカとルイズ、後衛にポラジット、サクラとシャイナ。
ハルカは剣を握り、本館の玄関の扉を押した。




