第36話:川縁の夜
すっかり日も落ちた。川から少し湿った風が吹き寄せる。
フレイア家別荘の庭からは、穏やかに流れる川が臨めた。さらさらと麦穂がこすれ合う音と相まって、やけに涼しく感じられた。
普段、別荘はあまり使われないため、庭に植えられた木々は、比較的手入れの必要がない種類のものばかりだ。この庭で、最も手入れが必要なのは、地面に広がる青い芝だった。
庭の中央、薪が低く積まれ、そこからパチパチと炎が上がる。
炎の周りには川縁から運んできた大きな石が円形に並べられている。その円の少し内側では、串に刺された肉、魚、野菜がジュワジュワと焼けていた。
「異世界の食事って言っても、アイルディアと大して変わらないのね」
「町に出て、レストランでパァーッとやった方がよかったんじゃねぇ?」
「いや、本当はもっと色んな食べ物があるっちゃあるんだけど……」
俺が料理できないだけです、はい。
ハルカは炎の前で、食材の焼け具合を確かめつつ、苦笑した。
シャイナたちは、炎から少し離れたところに椅子とテーブルを運び終え、一休みしているところだった。
「ねぇ、これ、おいしいよ」
テーブルの上にのっているのは、刺身の盛り合わせだ。それを指差し、サクラは鼻息を荒くした。どうやらよっぽど気に入ったようだ。
言うまでもなく、ハルカは魚を捌いたことなどなかった。母さんが捌いていたっけ……と微かな記憶を頼りにナイフを握る。身は崩れ、一切れの大きさもまちまちだが、ハルカはなんとか「刺身のようなもの」を作ることに成功したのだった。
そして、日本の醤油なるものはアイルディアには存在しないので、たまたまあった岩塩を添えた。
食材が焼けるまでの前菜のつもりでハルカは出したのだが……。
「これよ、これ。これだけは私、どうにも理解できないわ。生の魚を食べるなんて、異世界人ってどんな神経をしているのかしら!」
「シャイナも、食べてみたらいいのに。サシミ」
「俺もダメ、絶対食えねぇ!」
皿に並んだ生の白身魚をパクパク頬張るサクラ。そして、まるでこの世のものではないものを見るかのような目つきでサクラを見つめるシャイナとルイズという奇妙な構図になっていた。
人がせっかく振る舞った料理を……と怒りたいハルカだったが、よく考えてみれば、元の世界でもそうだった、と思い至る。刺身を食べる文化が、日本以外で受け入れられ始めたのは、最近のことだ。
受け入れられないやつがいてもおかしくない……そう思うと、頭ごなしに怒るわけにもいかなかった。
「おい、ハルカ、肉はまだ焼けねぇのかよ!?」
……ルイズだけは怒鳴りつけてやらないと気がすまねぇ。
「うるせ! ちょっとは大人しく待ってろ!」
「なっ……!」
ぷるぷるとわななくルイズから視線を外し、ハルカは再び目の前の食材に向き直った。
肉汁が溢れ、炎の中にぽたり、と垂れる。ふくふくと焼けた魚からは湯気が立ち上り、その隣で焼いている野菜の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
そろそろ、食べ頃か。
塩と胡椒だけで味をつけたそれらを、突き立てていた石組みから抜く。
ハルカは大皿に丁寧に並べ、サクラたちの待つテーブルへと運んだ。もちろん、肉嫌いのサクラのために、肉だけは別皿に避けてある。
まさに男の料理、といった品々を見つめ、シャイナは満足げに頷く。そして、ぽん、と一つ手を叩き、炭酸水の入ったグラスを高く持ち上げた。
「じゃあ、いただきましょう。みんな、無事に卒業できますように! 乾杯!」
シャイナのかけ声に応え、ハルカたちもグラスを掲げる。
シュワシュワとはじける炭酸の泡に、燃え盛る炎の赤が溶けて消えた。
*****
宴もたけなわ、炭酸水で気分はほろ酔いのハルカたち。彼らの話題の中心はやはり、卒業試験のことだった。
そういえば、シャイナは大事な試験前だっていうのに、どうして自分たちを旅行に誘ったのだろう? 素朴な疑問だった。
「なぁ、シャイナ。どうして旅行なんて企画したんだ?」
グラスを口につけたまま、シャイナは横目でハルカを見返した。こくり、と小さく喉が動き、口に含んでいた液体を飲み干す。
「お前が試験前にこんな風に息抜きするなんて珍しいなって思って。試験一日目の前は、図書館で勉強してたって……ポラジットのやつに聞いてたからさ」
「そうね、なぜかしら。……強いて言うなら、勉強が無駄だったから、かしら」
「勉強が、無駄?」
サクラが首を傾げ、シャイナに問いかけた。
初夏とは言え、夜は肌寒い。サクラは焚火の前にしゃがみ、暖を取っている。その背後で、ルイズが川面を眺めていた。
「誤解しないでね。勉強は必要なことよ。知らないことで損をするだなんて、冗談じゃないわ。そうじゃなくて……」
シャイナはふと空を見上げた。ちかちかと、星々が明滅していた。
「私は勉強してきたことを、何も活かせなかったんだって……思い知っちゃったの。あの時、地下大空洞で襲われた時、私は手も足も出なかった」
操られた『武』の試験召喚獣・女郎蜘蛛と仲間、そして黒幕の蛭。
力を合わせ、迎撃したものの、一人であれば絶対に敵わなかった相手だ。――シャイナが弱かったのではない。
「それで、救護室で一人になった時、思ったの。次の試験、そこで私は無事でいられるんだろうかって。……また、こうして笑って過ごせるんだろうかって」
シャイナはそのまま顔をグラスへ向ける。中の液体をくるくる、と回した。
「それなら、思い出を作ろうと思ったの。卒業前の、みんなとの思い出を」
パチパチと、炎が音を立てて燃える。火の粉がちらちらと宙を舞い、夜空の星と見分けがつかない。
その時、ルイズがふん、とせせら笑った。
「お前、馬鹿だな。俺のこと言えねぇくらいの、馬鹿だ」
さっきのお返しだ、と言わんばかりに、ルイズは馬鹿だと連呼した。
「ば、馬鹿って何よ!」
ルイズの言いたいことは、ハルカにはよく分かった。ただルイズは上手く言えないのだ……馬鹿、と連呼する以外に。
仕方ねぇ、代弁してやるよ。
おそらくルイズが言いたいであろうこと、それをハルカは言葉に乗せた。
「先のことなんて分からねぇよ。その時が来たら、全力を尽くして立ち向かうしかないだろ。だけど、きっとまたこうして過ごせるって……そう思って立ち向かわなきゃいけないんじゃないのか? 要は、最初から諦めるなってことだよ」
「私は別に、諦めてなんか……」
しかし、シャイナはその先の言葉を紡ぐことができなかった。諦め、怯え……そういうのがないと言ったら嘘になるからだ。
「それに、そもそもまたあいつらが襲ってくるって決まったわけじゃねぇ。まだ起こってもいないことをあれこれ考えてても疲れるだけだぜ?」
ハルカはそう言って笑った。
狙われているのは、ハルカだというのに。なぜ、彼はこんなにも明るいのか。なぜ、絶望しないのか?
思わず、笑みがこぼれるほどだ。
「本当に……異世界人の思考って、分からないわね……」
「え? 何て言った?」
ハルカはあっけらかんとした様子で、シャイナに問う。
「いいえ、何でもないわ、あなたの言う通りねって言ったの!」
今はまだ、こうしていよう。
胸の中の黒い靄を振り払うようにシャイナは大きく息を吸い込んだ。
*****
ハルカたちが川縁で語り合っていた時刻と、ちょうど同じ頃――。
「ヴォーカ教官、どうしても、身体検査を受けていただけないのでしょうか?」
ポラジットはすっ、と目を細めた。
その視線の先には、ローブの前を必死で押さえ、全身で拒絶の意思を表すステイラ・ヴォーカ魔術担当教官の姿があった。
「な、なぜ、私が! そのような破廉恥なことを……人前で素肌を晒すなど!」
「教官の中に『虚無なる鴉』の手の者がいると……そういう情報を入手しましたので」
クライア学園、歴史資料室にステイラを呼び出したポラジットは、もう一度、同じ問いを繰り返した。
「身体検査を、受けていただけないのでしょうか?」
ステイラは頑として首を縦には振らない。
「それは、あなたが黒だ、と疑われるのですよ?」
「疑われても、構いませんわ。それでも、応じたくはないのです!」
ステイラの台詞を聞き終わった直後、ポラジットは宙に手をかざした。何もない空から現れたのはポラジットの愛杖・蒼穹の杖。
青の風が、部屋中に吹き荒れる。書物のページがめくれ、カーテンが巻き上がった。
そして――。
「ステイラ・ヴォーカ教官。その身柄、拘束させていただきます」
杖先の霊石がぼぅ、と淡い光を放った。




