第31話:鴉の輪郭(前編)
救護室は、消毒薬のにおいで満ちていた。
西向の窓から光が差し込む。薄緑色のカーテンが、強い西日を遮り、穏やかな陽光へと変えた。
どこからか鳥の鳴き声が聞こえる。日が暮れる前に巣へ帰ろうとしているのだろう。
精神を落ち着ける作用があると言われるレダの木の床、同じくレダの木で作られたベッドが並ぶ部屋で、筋骨隆々の大男が声を張り上げながら、這いつくばって土下座していた。
大男――剣術担当グレン・カティア教官――はベッドで上半身を起こすシャイナに何度も頭を下げる。グレンの顔には血が上り、湯気が出そうなほど真っ赤だ。
がばり、と面を上げたグレンの目に映ったのは、右目を眼帯で覆ったシャイナの顔だ。
「誠に申し訳ない! 教官でありながら、なんたる失態か……!」
「いえ、あの、そんなに謝っていただかなくても大丈夫です。もう十分、カティア教官のお気持ちは伝わりましたので……」
「しかし、謎の召喚獣を察知することができなかった上に、自分の召喚獣が操られていることにも気がつかなかったなど……教官として失格ではないか! フレイアくんにそのような傷まで負わせてしまって、何と詫びたらよいのか!」
他にも、救護室にはハルカ、ポラジット、サクラ、ルイズの姿があった。
戦いの後、崩れ落ちた終の間の門が再生し、ハルカたちはなんとか救出された。学園に帰還し、シャイナたちもグレンに助けられたということを耳にしたハルカたちは、すぐさま救護室に駆けつけたのだ。
シャイナが横たわるベッドの足元で、彼らは顔を見合わせながら立ち尽くす。
最初は黙ってその光景を見守っていたハルカであったが、一向に面をあげようとしないグレンに、半ば戸惑っていた。シャイナが怒っているのであれば話は別だが、怒るどころか、むしろ怒涛の謝罪に困ってすらいたのだ。
ちなみに、シャイナと同じパーティーの二人は精査を兼ねて街の病院に運ばれた。
唯一、蛭型召喚獣から逃れ、意識もあったシャイナは学園の救護室での治療後、ポラジットから事情聴取を受けることになっている。
見兼ねたポラジットがグレンの側に屈み込み、その肩にそっと手を置いた。
「カティア教官、あの召喚獣はかなり高度な技術で召喚されたものでした……操られていたのを感知できなかったのはやむを得ませんよ。それに、カティア教官だけの責任ではありません。私にも、同等の……いえ、それ以上の責任があります」
そして、ポラジットはグレンの顔を覗き込み、優しく続けた。
「カティア教官、学園長のところへ行っていただけませんか? 試験二日目の警備についてお話ししたいことがあるそうです。私もシャイナの治療が済み次第、すぐに向かいますので」
学園長、という言葉にグレンがぴくりと体を震わせた。その逞しい体つきからは想像もできないほど、おそるおそる顔を上げる。滝のように流れる冷や汗が、ぽたぽたと床を濡らした。
「学園長が、ですか……?」
紅潮していた顔面が一転、凍りついたように蒼白になる。
このようなことが起こった以上、グレンが何らかの責を問われることは必至だろう。
自らの今後を案じてか、グレンはぐっ、と両の拳を握りしめた。
「……フレイアくん。また後日改めて、謝罪に伺う。では、無理しないように」
グレンが救護室の扉を開け、部屋の外へ出て行った。重いブーツの靴音が次第に遠ざかる。
その音が聞こえなくなった頃合いを見計らって、ハルカは大きく息を吐いた。
「カティア教官……いい教官なんだけどさ。あのデカい体で土下座されると思ってなかった」
ずけずけとしたハルカの物言いを、ポラジットがたしなめた。
「ハルカ、そのような言い方は失礼ですよ。カティア教官の精一杯のお気持ちを無下にするようなことは」
「……でもよ、お前も嘘ついただろ。俺には分かってるんだぜ」
ハルカの言葉にポラジットが黙り込む。
「カティア教官が学園長に呼び出されたっての。嘘なんだろ」
「……ばれてしまいましたか」
にこっ、と悪びれもせず、ポラジットは微笑んだ。それを見て、サクラが頭にクエスチョンマークを浮かべながら首を傾げた。
「教官、嘘、なんですか?」
「ええ、嘘です。そうでもしなければ、カティア教官がこの場を離れて下さらなかったでしょうから」
学園長と話し合いが必要なのは本当のことですし、とポラジットは一層にこやかに笑う。まるでその周りで星が煌めいているような、そんな笑顔だ。
「怖……」
「ルイズ、それ以上言うな」
思わず呟いたルイズの肩を、ハルカがそっと叩く。
皆まで言うな、お前が言いたいことはわかってる。どの世界でも、いつの時代でも女ってやつは怖いもんだ。
「ええ……これでいいのでしょう? シャイナ」
これでいい、ってどういうことだ?
ハルカはポラジットとシャイナを交互に見つめた。
「あなたが街の病院へ行くことを拒否したと聞きました。私たちに話したいことがあったのではないかと思ったのです。あの場で、あなたの状態を見た私たちだけに」
シャイナの左目と、ハルカの目が合った。
シャイナはふぅ、と深呼吸をすると、固く結んでいた口を開いた。
「ありがとうございます、デュロイ教官」
窓の外を見やり、シャイナは少し間を置く。そして、決意した表情で、ハルカたちに向き直った。
「……その通りです。教官たちだけに、お話ししておきたいことがあります」
シーツを握るシャイナの手が震える。
余程、ショックなことでもあったのだろうか。ハルカも自然と体がこわばった。
シャイナが右目の眼帯にそっと触れる。それを撫で、再びゆっくりとシーツの上に手を戻した。
「この右目の傷は、私のパーティーメンバー二人につけられたものです。サクラとルイズが終の間へと向かった直後のことでした」
サクラがすっ、と短く息を吸いこむ音が響く。
「私のせい……? 私が、ハルカを追いかけなければ、こんなことには……」
「違うの、サクラ。そういうことを言いたいわけじゃないわ」
ふるふる、とシャイナが頭を横に振った。それに、と小さく呟く。
「一過性のものだって、救護の先生はおっしゃってたわ。一時的に視神経が麻痺しているだけだって。魔法での治療はできないけれど、落ち着いたらよくなるだろうって」
その一言に、彼らは安堵する。
あの痛々しい眼帯はいつか外れ、その下にある光に満ちた瞳が、再び世界を映す日がくるのだと。
「あの後、気絶していた彼らが急に起き上がって武器を取ったの。目標を滅せよ、そう言っていたわ。私……止めなきゃ、と思ったの。なんだかよくわからないけれど、悪いものに取り憑かれているみたいで」
「シャイナ、あなた、一人で戦ったのですか?」
シャイナはこくり、と頷く。
「私、足止めにもなりませんでした。使える魔法で立ち向かったけれども、結局、彼らの攻撃に耐えきれなくて。右目をやられました。途中でカティア教官が助けに来てくれなければどうなっていたか」
「あぁ、あいつらが言ってた……邪魔が入った、ってのはカティア教官のことだったんだな」
ルイズは腕を組み、その時のことを思い出していた。
「彼らはカティア教官の制止を振り切って、サクラたちを追っていったの。目標を変更する、命令を遂行せよ……そう呟きながら」
シャイナはそれから黙りこくってしまった。
沈黙の中、ポラジットが手を伸ばす。その手はシャイナの手を柔らかく包み込んだ。
「辛かったでしょうに、よく話してくれましたね。今日はもう休んで、しっかり眠ってくださいな」
「……っ! 違うんですっ! まだ話は終わっていないんです!」
シャイナはポラジットの手首をぐっ、と掴んだ。そして、縋り付くような目で懇願する。
「話を……聞いていただけますか? 何を馬鹿なことを、とおっしゃられるかもしれません。お叱りを受ける覚悟もできています!」
「シャイナ……?」
冷静沈着なシャイナ・フレイアらしからぬ態度に、ポラジットは眉をひそめた。
こんなに狼狽えたシャイナは初めてだ……。ハルカの胸の中に、不安が芽生える。
「私、思うんです……」
戸惑いと不安と、ほんの少しの疑念がない交ぜになった声色。
紡がれたのは、なんとも端的で、誰にでも分かる簡単な文言だった。
「虚無なる鴉のメンバーは、この学園の中にいる、と」




