第30話:終の間(後編)
サクラは昂揚していた。
真っ直ぐ終の間へと落ちていく。
通風孔から吹き込んだ風が女郎蜘蛛の髪を撫で、蝋のような首筋が露わになった。
自身の手に全てがかかっていることは分かっている。状況は芳しくないことも分かっている。
ルイズの竜人化もいつまで続くかは定かではない。おそらく、もうすぐ竜人化の効力は切れ、ルイズは人の姿に戻ってしまうだろう。
しかし、そんな場面でサクラの体を満たしたのは、不思議ほどの静寂だ。
緊張を通り越し、サクラは落ち着きを取り戻していた。
鼻から息を吸い込み、口から息を吐く。
自分をおぶってくれたルイズの背から、心臓の鼓動が感じられた。
弦がきりきりと軋む。これ以上は引けない、というところまで弓を引く。
矢尻の延長線上に蛭が来るまで、狙いは絶対に動かさない。
重力に引っ張られ、体は落下する。
もう少し、もう少し……。
「ハルカ、カナン、伏せて!」
女郎蜘蛛の注意を引く。この一瞬、動きを止めたこの一瞬。
女郎蜘蛛がこちらに気づき、振り返るまでのわずかな時間――それで十分だった。
「中れっ……!」
きゅん、とサクラの耳元で弓が鳴る。
そして、音もなく、矢は女郎蜘蛛の首筋に命中した。
*****
女郎蜘蛛は声にならない叫びをあげた。血が出ない代わりに、口から唾液の泡をぶくぶくと吹く。
首筋に刺さった矢を抜こうと鎌で喉を掻き毟る。矢は抜けず、いたずらに傷だけが増えた。
かさかさと脚を滅茶苦茶に動かすと、女郎蜘蛛はどさりと崩れ落ちた。その柔らかな腹を天井に向け、ひくりと脚を痙攣させている。
「やったか……!?」
ハルカとカナンが恐れていたのは、再び女郎蜘蛛が攻撃を開始することだった。剣を握ったまま、二人は攻撃態勢を解こうとはしない。
その時、女郎蜘蛛を挟んで向こう側、すとん、とサクラが着地した。
「大丈夫。本当に、これで終わり」
そう言って、サクラは女郎蜘蛛の側にかがみ、右手の鎌をそっと握った。
「……もう還ってもいいんだよ」
サクラの言葉に応えるかのように、女郎蜘蛛が光を帯びた。鎌の先から女郎蜘蛛の体が解ける。細く、透明な糸がゆるゆると空中に溶けていく。
女郎蜘蛛に刺さっていた、ハルカの白剣がカランと乾いた音を立てて落下した。
その巨体は完全に消えた……ハルカはそう思った。だが、女郎蜘蛛が倒れていた場所には、赤黒い生物の姿が残されていた。ぬめぬめとしたその生物の体の中心には、サクラの矢が刺さっている。
サクラはかがんだ姿勢のまま、顔を上げた。
「あの子は操られていただけ。元凶は、この蛭」
「蛭……だって?」
「ああ、血を吸われたやつは、こいつの命令に従う操り人形にされちまうみてえだ」
サクラの背後から、赤蜥蜴が姿を現した。
敵か、味方か……。
「サクラ、そのデカい蜥蜴は……味方なのか」
ハルカは眉間に力を込める。見定めるまでは油断ができない。
赤蜥蜴は警戒するハルカに気づき、呆れた、と小さく呟いた。
「蜥蜴じゃねぇ、竜人だ」
尚も構えを解かないハルカに、サクラが説明する。
「ハルカ。ルイズだよ。竜人化したルイズ」
すると、竜の鱗の色が徐々に肌の色に変化し始めた。鱗は次第にその下にある人の皮膚と同化する。
先ほどまで竜人が立っていた場所には、ハルカを睨むルイズの姿があった。
「お前なぁ、制服着てんだから察しろよ。俺が竜騎族だってこと、忘れたんじゃねえよな」
あーあ、制服裂けちまったよ、とルイズは舌打ちした。
「あ、いや、悪い……竜人化なんて授業で習ったけど、実際に見たことなくて……」
アイルディアに来てから、大概の事柄には動じなくなっていたハルカではあったが、流石にこれには驚いたようだ。あんぐりと口を開け、なんともだらしのない表情だ。
我に帰ったハルカは、黒剣を鞘に納める。同じく剣を構えていたカナンも、細剣を自らの身にしまった。
「シャイナのパーティーのやつら――大剣使いと槍使いの首筋にも蛭の噛み跡があった。終の間の門が崩落した後、俺とサクラは別ルートでここまで来たんだけどよ、そいつら無表情で襲ってきやがったぜ。まぁ、なんとか片付けたけどな」
「シャイナは無事、だと思う。敵の二人、そう言っていたから」
ハルカは地面にだらりと這いつくばっている蛭を見た。
こいつからも、俺と同じ、召喚獣のにおいがする。
こいつを分析すれば、もしかしたら犯人が誰だか分かるかもしれない……。ハルカは蛭に近寄り、手を伸ばした。
「……っ!」
ハルカが触れる寸前、蛭の体がぐずぐずと崩れ始めた。ヘドロのように大理石の床にしみを作る。
ヘドロはそのまま床に吸い込まれ……あとには何も残らなかった。
「ダメ、か」
伸ばした手の平を、ぐっと握る。
掴めそうなのに、肝心なところで掴めない。
目眩がする――。
もどかしさで、どうにかなりそうだった。
「それにしてもよ、ここ、観光地だろ。ハルカ、お前……随分派手にやらかしたな」
ルイズの何気ない一言に、ハルカははた、と止まった。
そういえば、ここは有名な観光地だと、シャイナがそんなことを言ってたような……。
ハルカはぐるり、と首を回し、終の間を見回した。床は至る所に抉られた跡があり、壁画も目も当てられないほど傷だらけだ。出入り口の門に至っては、原形すら留めていない。
「これ、どうしたらいいんだ?」
ハルカは頬をひくつかせ、ルイズに問いかける。
「お前が弁償な」
……お前ならそう言うと思ってたよ。
仮に弁償だとしたら、一体どれほどの費用がかかるのだろうか。それを思うと、違った意味で、目眩がした。
「心配ありませんよ。わざわざこの場所を試験場に選んだのは理由があります」
「マスター!」
声のした方へ、カナンが駆け出す。
そんなカナンにポラジットは微笑み、ハルカたちの側へと近づいてきた。額からはまだ少し血が滲んでいるものの、ポラジットの足取りはしっかりしている。
「ポラジット、お前、傷は大丈夫なのか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
ふわりと紫のローブの裾が翻った。ポラジットは崩れた門を指差す。
「もうすぐだと思うのですが。ここがなぜ終の間と呼ばれるのか。皆さん、ご存知ですか?」
サクラとルイズは互いに顔を見合わせ、首を傾げた。
二人が知らないことであれば、ハルカにとっては尚更知り得ないことだった。
「ここが、地下大空洞の終点だからじゃないっすか?」
ルイズが答える。ポラジットは口元で人差し指を立て、にこり、と笑ってみせた。
「半分正解、というところでしょうか。もう一つ、理由があるのですよ。……ほら、始まりますよ。ご覧なさい」
カラリ、と石が転がる音。それは崩落した門から聞こえた。
カラリ、カラリ……後に続いて次々と石が転がり始める。
――いや、転がっているのではない。浮遊している。
ふわふわと浮かび上がった石の礫は、迷うことなく、自分が元いた場所へと収まっていく。
砕け散り、砂塵となったものも、再び集まり、一塊となっていく。
「全て、元に戻っているのか……?」
ハルカたちはその神秘的な光景にただただ息を呑む。
割れた大理石の床も、終の間に足を踏み入れた時と同じ、自分の顔が映りこみそうなほど磨き抜かれた状態へと戻っていった。
「この部屋は何故か……壊れてしまっても、再生し、再び終わりに向かっていくのです。何度も終焉を繰り返す部屋――それが終の間という名の真の由来」
ポラジットが手を伸ばす。その指先にリーフィが、すっ、ととまった。
「そうでなければ、試験場として、重要な歴史的建造物を選びません。ふふふ、弁償の心配はありませんよ」
そう言って、ポラジットは悪戯っぽくハルカに笑いかけた。
その笑顔を見て、ハルカは安堵する。弁償の必要がなくなったから、ではなく、ポラジットの様子が変わりないことに、だ。
ポラジットをちゃんと守れたんだろうか?
最後はサクラにおいしいところを持って行かれた気がしなくもないが……終わりよければ全てよし、か。
ハルカは俯いて、小さく笑みをこぼした。
「……ハルカ」
突然のポラジットからの呼びかけに、ハルカははっ、と顔をあげた。
「守ってくれて、ありがとう」
ポラジットの表情は、学園で見る教官としてのそれではなく――自分より一つ年上の、ただの少女のもので。
ハルカには、それが無性に嬉しかった。
*****
黒蝶が、翅を休めていた。
通風孔から吹き込む風が強い。しっかり掴まっていないと飛ばされそうだった。
壁画の天使の目と、私の翅の色はなんと似ているのだろうか。
私こそがこの世に安寧をもたらす天使、あいつらは混沌をもたらす悪魔なのだ。
そっと下を見やると、そこには憎き究極召喚獣の姿。
究極召喚獣を倒すために呼び寄せた召喚獣は、あのいけ好かない獣人族の少女に討ち取られてしまった。
しくじった、か。
黒蝶は胸の内で短く独りごちた。
今回の召喚獣は自信作だった。見破られない自信はあった。それもあえなく失敗に終わった。
それは自分の実力不足に因ることは十分承知している。
だが、それ以上に自分はまだ、本気を出していないからだ。
――ならば、見せてあげる。
黒蝶は飛翔する。
逆風を物ともせず、通風孔の奥、洞窟の中へと消えていった。




