第26話:地下大空洞(前編)
サクラは自分の名前がどうしても好きになれなかった。
獣人族の習わし――赤子の名をつけるのは一族の長である――に従い、当時のフェイ家の長・サクラの祖父がその名を付けた。
だが、「サクラ」という名は一般的ではなかった。
なぜ祖父はこんな名前をつけたのか? サクラは名の由来を何度も祖父に尋ねたが、祖父は答えようとしなかった。
「いい名前だな、サクラって。俺の国の花の名前なんだ。すっげえ綺麗な花なんだぜ。お前にも見せてやりたいよ」
ハルカとの初めて会話で、ハルカはサクラにそう言った。
獣人族であること、また誤解を招きやすい性格からクラスで孤立していたサクラに、ハルカは声をかけてくれたのだ。
「お前、いつも一人でいるよな。俺もなんだ」
ハルカはサクラに手を差し出した。
「こんなこと、口にするのもどうかと思うけどさ……友達になろうぜ。」
あの日の空中庭園。
ガラス張りの温室である庭園内はとても暖かく、色とりどりの花が咲き乱れていた。
私だけは何があってもハルカの味方でいよう。ハルカを守り抜こう……絶対に。
サクラはそう決意し、差し伸べられたその手を取った。
*****
ハルカとポラジットが終の間へ走り去っていった直後、終の間の門が轟音とともに崩落した。
シャイナたちの救護に当たっていたルイズとサクラには一瞬の出来事に困惑する。
「も、門が……」
「おいおいおい……マジかよ、やべえじゃねえか!」
ルイズは跳ねるように立ち上がり、門へと駆け出した。しかし、それ以上に速く、サクラは閉ざされた門へと走り寄る。
「ハル……カ……。ハルカッ!」
サクラは尖った岩に拳を打ちつけた。人の弱い力では岩盤はびくともしない。分かっていたが、サクラは岩を叩く手を止めようとしなかった。小さな石片が刺さり、サクラの手に血が滲む。
「サクラ、手! 血ぃ出てんだろうが!!」
見兼ねたルイズが、サクラの背後からその手首を掴んだ。無理矢理自分の方に反転させ、サクラの目を覗き込んだ。
「落ち着け!」
「落ち着けない! 向こうには、ハルカの命を狙ってるやつが……!」
絶対に、彼を守ると決めたのに。唯一の大切な友人である彼を――。
あの時、私も追いかけるべきだったんだ。どうして追いかけなかったんだろう。サクラはうつむき、下唇を噛んだ。
ルイズはそんなサクラを戸惑いながら見つめていたが、何かを決心したのか、キッと目元を引き締めた。
「いいか、冷静になれ。あいつらを、ハルカと教官を助けに行くぞ」
「え?」
ハッとサクラは顔をあげた。助けに行く? 門は閉じているのにどうやって……?
サクラの心の声を見透かしたように、ルイズは口の端を吊り上げる。そして人差し指でこめかみを二回叩いた。
「ここに地図が入ってんだよ、地下大空洞のな。俺様の記憶力をあなどるんじゃねえよ」
「地図……?」
「そうだ。確かに終の間は、この大空洞の最奥地――終点だ。だけど、終の間へのルートは一つじゃなかった」
サクラの瞳に強い意志の炎が宿る。
――ルートは一つじゃない。向こうへ繋がる道はまだある……!
ルイズは親指を立て、くい、と自身の背後を指差す。そこに横たわっているシャイナたちを横目で見ながら、頭を掻いた。
「ただ、シャイナたちをどうするかなんだよな。ほっとくわけにいかねえし……」
「私は構わない。もう大丈夫よ」
はっきりとした声音。シャイナは横たわりながら、サクラとルイズを見やった。体に鞭打ち、上半身を起こす。ハルカがシャイナの体にかけていったブレザーがずり落ちた。
「シャイナ、でもその体じゃ……」
「いいの、本当に大丈夫。あなたたちのおかげでだいぶよくなったわ」
サクラはシャイナに寄り添い、その体を支えた。しかし、シャイナはその手を静かに押しのけた。
「私たちに構わず行って。きっとすぐカティア教官たちが助けに来てくれるわ。地下大空洞には魔物は生息していないし……少しの間くらいなら、万が一何かあっても自分でなんとかできるわ」
「シャイナ……」
シャイナは鋭い眼差しで、サクラにその先の言葉を紡ぐことを許さなかった。
「仮に、ホロウ・クロウの仕業だとしてね。メインターゲットのハルカとデュロイ教官が現れた今、私たちを攻撃するためにに戦力を割くかしら? 私ならハルカたちに全戦力を注ぐわ。要するに、私のことを気にかける暇があるら、ハルカたちに加勢してきて、っていうこと。危険なのは……ハルカたちの方よ」
シャイナはほぅ、と一息つき、頬を緩めた。厳しい顔つきから一転、穏やかな表情を浮かべた。
「行って、サクラ、ルイズ」
後ろ髪を引かれる思いとは、まさにこんな気持ちなのだろうか。サクラは胸元をぎゅっと掴んだ。そして、シャイナの前に跪き、少し擦り傷の残る手を両手で包み込んだ。
「分かった。ありがとう、シャイナ」
サクラは立ち上がり、シャイナに背を向ける。振り返った先には、サクラを待つルイズの姿があった。
「準備はいいか」
ぞんざいな口調のルイズ。だが、サクラはそれでもルイズを頼もしく思った。
ほんの数日間、パーティーを組んだだけ……しかも即席で、だ。当初はここまでルイズを信頼できるとは思っていなかった。互いの思いが交差することなく過ぎていくだろうと思っていた。
交わることのないはずだった道が交わっていく。戦いの中で、三人の距離が縮まっていくのをサクラは感じていた。
「うん、行く」
ふい、とルイズが背を見せ、サクラの前を歩き出す。サクラはそれに続いた。
*****
ルイズとサクラは、先刻、ポラジットと合流した地点まで引き返していた。
「確か、ここから終の間までの道が伸びているはずなんだけどよ……」
ルイズは周りを見渡した。
観光用順路に張られたロープの向こう側、ごつごつとした岩肌にいくつかの横穴が見えた。穴は岩壁のいたる所に開いており、中には壁をよじ登らなければ届かないものもある。この中のどれか一つが、終の間へと続いているはずなのだ。
だが、無造作に並ぶそれらの中から、正しい道を選ぶのは容易ではなかったようだ。
「地図ではもっと整然と書かれてたんだがな……こうも壁中に穴が開いてると、どれだかはっきりしねえな。全然地図と違うじゃねえか」
ルイズは片手でロープを掴み、軽やかにロープを飛び越えた。少し遅れて、サクラがよいしょ、とロープを跨ぐ。
平面の地図で見るのと、実際に立体で見るのではまったく印象か違った。ルイズは地図の内容を思い起こし、無数の横穴の中から、正しいルートの目星をつけた。
「この三つの道が怪しいな! 地図ではこの位置から終の間への道があった」
ルイズはビシッと道を指差し、ふんぞり返った。
「ここからは勘で行くしかねえな! 俺様の直感は……」
「そんなの、当てにならない。間違えたらどうするの。時間、ないんだから」
サクラがピシャリとルイズの言葉を遮った。ルイズはもぞもぞと口を動かし、何か言いたげだったが、サクラは先に口を開いた。
「静かにして。私、探ってみる。音と、においと……集中してみる」
そう言って、サクラは瞼を閉ざし、頭にある狼の耳にそっと手を添えた。大きく深呼吸し、感じ取ることのできる全てのにおいを嗅ぐ。
ルイズには黙る以外に選択肢はない。サクラの隣でふて腐れながら待つほかなかった。
サクラが再び口を開くまで、さほど時間はかからなかった。耳と鼻がひくり、と動き、その後、唇が震えた。
「ここ、この道。ほんの僅かだけど、甘酸っぱいにおいがする。他の道にはないにおい。それに何か……高い音が聞こえる」
サクラはルイズが示した三つの横穴の内、他の二つよりはやや高めの位置にある穴を指差した。
なんとなく見せ場を奪われた気がしなくもないルイズではあったが、サクラの言葉に素直に従う。
「じゃあ、行こうぜ。お前がそう言うなら確かなんだろうよ」
一瞬、サクラの目が丸く見開く。と言っても、サクラと親しくない人間から見ても、普段のサクラと大差がないのだが。しかし、ルイズはその些細な違いに気がついた。
「なんだよ」
「あ……私の言うこと、信じてくれるんだ?」
「はあ? サクラ、お前何言ってんの?」
ルイズは大きく息を吐き、岩壁をよじ登った。横穴に手をかけ、一気に体を引き上げる。
「ハルカもお前も気に入らねえよ。底抜けの間抜けと根暗で陰気なやつ、こっちから願い下げだね。だけど……」
ルイズは横穴を見上げるサクラに手を伸ばした。
「お前らとパーティー組んで、お前らにそれなりに力があるってことは分かったからな。まるっきり無能でもなかったってわけだ」
「ルイズ、私とハルカに喧嘩売ってる?」
心なしか低い声音でサクラが問う。慌てた様子でルイズは続けた。
「違えよ! ちょっとは認めてるってことだよ!」
ルイズの焦り様を見て、サクラはぷっと吹き出した。
「怒ってない。少し、怒ったふりをしてみただけ」
サクラは差し伸べられた手を取る。
ルイズはふん、と鼻を鳴らしサクラの体を引き上げた。




